第13話

 コジロウが神社からいなくなってからは静かだった。優介とナギは話をすることなく過ごした。お互いに無視をしているのではなくて、今は話す必要がなかったのだ。二人は沈黙の時間を苦痛だと感じない間柄になっていた。彼らに会話はなくても、この神社には楽しそうな話し声で満たされていた。草、木、花、アリ、チョウ。優介はいろんな生き物に囲まれていた。

 ナギは優介に家に帰ろとはいわなかった。何もずに食事や寝床を優介のために準備した。昼食はみかんとさくらんぼだ。夕食は昼食のメニューにタンポポの葉が追加されていた。午前中はツバメの子を探して疲れていたのでとてもおなかがすいていた。食べ盛りの小学六年生の空腹を解消するだけの食物はなかった。しかし、優介はナギが一生懸命に集めてくれたものだとわかっていたので、文句をいわずに黙って食べた。

 昨夜は冷たい土の上に優介は寝ていた。冷たい空気が優介の身体を包み込んだ。そんなときに優介の身体に葉をかぶせてくれたのがナギだ。自分がやったとはいわないけど、その葉の葉脈は縦に流れていた。縦にひっぱってもちびれないナギの葉だった。この日の夜はナギが身体を揺らして葉を散らした。散った葉が風に運ばれて、屋根がある手水舎の床にふとんのように広がった。その上に優介が横になると、ナギはさらに葉を散らして優介の身体を包み込んだ。

 どんなにつらいことが明日あったとしても、明日はかならずやってくる。そのつらいことに対してどう向き合うのかは人それぞれだ。逃げても立ち向かってもまた明日はやってくる。地球が回っているから陽は沈むし、昇りもする。優介の家出初日は祖母に面倒を見てもらった。二日目には神社にたどり着いた。三日目には迷子のツバメを新しい友達のコジロウと探した。

 時間は有限だ。何をしてもしなくても時間は過ぎていく。優介が家出をしてから過ごした時間は、優介にとってどんな意味があるのだろうか。学校で国語や算数を学ぶ時間と引き換える価値はあるのか。その問いの答えは、大人になった優介がいつか出すものだろう。

 四日目の朝が来た。優介はナギが用意する食事にもすっかり慣れていた。質素な食事をすませたあと、手水舎の冷たい水で優介は顔を洗った。

 「優介、今日は学校に行ってみたらどうだ?」

 優介が服で顔をふいていると、ナギが子供を叱るようにいった。

 「行けないよ。僕、お金がないんだもん」

 「家に帰ればあるだろう。そもそも小学校は義務教育だ。大金が必要なわけじゃあるまい」

 「そんなことわかってるさ。お母さんがいるから家に帰れないんだよ。理由はもう知っているでしょ」

 優介はいわれなくてもそんなことわかっているといわんばかりに、地面に落ちている小石を拾ってナギに投げつけた。優介が怒りを暴力という形で表現したのは、このときが生まれて初めてだった。ナギは声を和らげて優介にいった。

 「すまなかった。理由はもう教えてくれていたね。わしはお前が心配なのだ。人間が人間の世界で生きていくためには学ばなければならない。その場が学校なんだ。学校に行かなくても学ぶことはできるよ。でも、学校に行って友達と一緒に勉強ができるのは今だけなんだよ。大人になって小学校に行きたくなっても行けないんだよ。それでも学校に行きたくないなら無理強いはしない。自分の考えた通りにやってみなさい」

 優介はナギに怒られると思っていた。しかし、ナギは怒るどころか優介に謝った。怒りを怒りで返すのではなく、謝罪や傾聴で対応することができる人間はあまりいない。ナギにそれができたのは、百年以上の時間がナギの精神をきたえあげたからだろう。百年も生きていればいったいどれくらいいやなことがあるのか。ナギはそれらをすべて乗り越えて人の怒りを受け止める心の広さをえたのかもしれない。

 優介は申し訳なくなって「ごめんなさい」と謝った。そしてナギのそばによって、石をぶつけたあたりをなでた。

 「けがしてない?」

 「あれくらいでけがなんかしないさ。百年も風雨に耐えてきたんだ。わしは子供の力なんかではびくともしないよ」

 「それならいいんだけど」

 ナギの樹皮にははくりしているところがある。長年の風雨に耐え樹齢を重ねた証だ。優介は樹皮がはくりしているところも優しくなでた。

 「くすぐったいからやめなさい」

 優介はナギにそういわれてもなでるのをやめなかった。むしろ、いじわるをしたい気持ちになって手に届く範囲で、ナギの大きな身体をくすぐった。ナギは声を出して笑う。手も足もでず、身体を大きくゆらした。優介も一緒になって笑った。優介はけんかにならずによかったと安心した。

 優介は柄杓で手水舎の水を一杯ナギにかけてあげた。石をぶつけた埋め合わせのつもりだ。一週間くらいこの町に雨が降っていなかったのでナギはありがたがった。それから優介は水を一杯飲むと、地面にしいてある葉の上に横になった。

 あおむけになって手水舎の屋根を意味もなく眺めている。昨日はツバメの子が迷子になってしまって、命にかかわることだったから優介は人目をはばからず町中を探し歩いた。それは優介にとってリスクがある行動だった。もしパトロール中の警察官や、母親に見つかっていたらどうなっていただろう。きっと無理やり学校に行かされていたはずだ。だから昼間は神社から動かずにじっとしているのが一番安全だ。

 そうはいっても、神社ではテレビもマンガもないので優介は退屈していた。いろんな話し声は聞こえるけど、誰も優介を話の仲間に加えてくれそうにない。唯一優介の話し相手になってくれるのはナギだけだ。しかし、ナギはあれから黙ってしまって話そうとしない。話し疲れて眠っているのだ。耳をすますと静かな寝息が聞こえる。

 優介は寝がえりをうって石階段のほうを見ていた。もし誰かが来たらすぐに隠れられるように注意をはらっている。ずっと同じ体勢で同じところを見ていると眠くなってしまう。優介が眠りに落ちかけたとき、誰かに背中を軽くたたかれて優介の眠気はすっかり覚めた。そしてさっと後ろをふりかえった。

 「平日の昼間にこんなところで何してるんだい?」とコジロウがいった。

 「何もしてないよ。いつからそこにいたの?」

 「お前がまだ眠っているときからだよ。陽もまだ昇っていなかった。手水舎の屋根で休んでたよ」

 「何でもっと早く出てきてくれないのさ。退屈だったんだよ。ナギは寝てるみたいで、僕は一人ぼっちだったんだよ」

 「一人じゃないさ。耳をすましてごらんよ。いろんな声が聞こえるだろう?」

 「耳をすまさなくても聞こえるよ」

 優介は少し不機嫌になった。コジロウにいじわるされていると思ったからだ。そしてひとり言をいうように小さな声で続けた。

 「誰も僕の話し相手になってくれないんだ。何でだろう」

 どんなに小さな声だったとしてもコジロウは優介の声をちゃんと聞いていた。

 「みんなそれぞれの事情があるんだよ。優介のことばかりに構っていられないんだ。それは人間の世界でも同じじゃないか?それでもみんなここにいる。優介に構ってる暇はないかもしれないが、気にかけてるさ。だからお前は一人ぼっちじゃないさ」

 優介はコジロウの言葉をうまく理解することができなかった。誰も自分に構ってくれないのに一人ぼっちじゃない?誰からも相手にされなければ自分は存在しないのと同じではないのか。それでもコジロウは一人ぼっちではないという。小学生の優介は起き上がってコジロウの言葉を心のなかで繰り返し、意味を考えたが結局わからなかった。だからコジロウに質問をつづけた。

 「コジロウは一人ぼっちじゃないの?」

 「そうだよ。オレも一人ぼっちじゃない。ほかの鳥からはのけ者扱いされてる。それでも一人じゃない」

 優介はますます意味がわからなくなった。

 「それを一人ぼっちっていうんじゃないの?誰も口を聞いてくれないんでしょ?一緒に遊ぶ友達もいないんだよね?それなのに一人じゃないっていうの?」

 「それでもだ。オレも最初はさみしかったよ。でも、ある日気がついたんだ。いくらのけ者にされようがオレは一人じゃないってな。いや、一羽じゃない、か。自分は一人ぼっちだって思ってるやつは自分のことしか見えていないんだ」

 「どういうこと?」

 コジロウはどう返事をしようか考えながら、数歩歩いた。

 「いつかわかるときがくる。今はどれだけいってもわからないかもしれない。お前はまだ子供なんだから急ぐ必要はないよ」

 優介はコジロウに子供だといわれたことに腹が立った。子供なのは自分でもわかっているからこそ、他人にそれを指摘されたことが気に食わなかった。ナギにしたようにコジロウにも小石を投げてやりたかったが自制した。優介はこれまで人に暴力をふるったことがなかった。それなのにナギに小石を投げたしコジロウにもそうしたくなった。優介はなぜだろうと考えてみた。それでもやはりわからなかった。優介は悔しかった。

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