第9話

 石階段を上ると開けた場所に出た。木々に囲まれていたので外からの光はほとんどが遮断されてしまう。葉の間から光がほのかに差し込んであたりを照らすと、優介はここがどこなのか理解した。古い神社だ。この町に来る日、車のなかで母が話していた神社かもしれない。祖母の家の近くにあるので、子供時代の母がここに遊びに来ても不思議ではない。

 母は管理されていないと話していたが、たまに手入れがされているのかそれほど荒れていない。賽銭箱はこわされることなく拝殿に設置されている。鈴もきちんとつり下げられていたが、優介は人に気づかれることをおそれて鳴らすことは我慢した。

 手水舎のそばには大きな木がそびえたっていた。幹周は優介が両手を広げてもおよばないほど長かった。優介はその大木のことには注意を向けずに、腰を地面に下ろして賽銭箱によりかかった。

 賽銭箱はしっかりとしたつくりをしていて頼りになった。子供一人がよりかかってもずれたり倒れたりする心配はないくらいがんじょうだ。優介はオレンジジュースを一口飲んだ。五月は日が暮れると肌寒くなる。優介はさいわい長ズボンをはいていた。しかし上着は半そでだったので、むき出しになっている腕から体温が奪われていく。優介は体操座りをして身体を縮めることで体温が逃げて行かないようにした。

 それでも寒さはしのげそうになかった。とうとう優介は横になってしまった。昔、参拝者が鈴を鳴らすときに立っていたであろうコンクリートの上に優介は縮まって横になっていた。優介が、もう自分は寒さで死んでしまうんだと思ったとき、不思議と身体が温かくなった。なぜだろう。その理由もわからないまま、優介は深い眠りに落ちた。

 優介は夢のなかでもこれからのことを考えていた。場所はどこだろうか。不思議な声が聞こえた小川のベンチだ。優介は、夢のなかでベンチに座っていた。

 「お父さんはいまどうしているだろう。お母さんは僕を探しているかな。明日はどこに泊まろう。おばあちゃんの家には行きにくい。かといって大久保に頼むのもだめだよね。迷惑だ。明日からはどうやって生きていこう」

 優介はうつろな夢のなかでベンチに腰を下ろして悩んでいた。そばにいてくれる人もいない。夢のなかでも優介は一人だった。でも身体だけは温もりに包まれている。どこかの誰かが孤独の少年をほうようしてくれているのだろうか。優介は行き場のない不安におしつぶされそうになっていたが、自分を温めてくれる何かのおかげで安心感も心にあった。

 まだ薄暗く日が昇りきっていないときに優介は目を覚ました。夢のなかでの温もりは幻ではなかった。現実世界でも、優介の身体はポカポカとしていたのだ。優介は身体を起こした。すると、緑の布団が自分の身体をおおっていたことに気がついた。よく見るとそれは一つの大きなかたまりではなくて、小さな葉がたくさん集められていてそれが布団の役目を果たしていたのだ。優介は疑問に思った。一体どこの誰がこんなことをしたのかと。夜にこんなところで子供が寝ていたら、普通の大人なら警察に通報するだろう。こんなにたくさんの葉を集めるのは骨が折れる。警察の人に頼むか見て見ぬふりをする方が楽なのに、どうしてわざわざこんな面倒なことをしたのか優介にはまったく理解できなかった。

 優介は歯を一枚手に取って観察してみた。深い緑色で楕円の形をしていてとても軽かった。葉が軽いのは当たり前のことだ。ここで一つ疑問が生じる。それは、一晩中どうしてこの軽い葉が優介の身体をおおい続けることができたのかだ。夜中に一度も風が吹かなかったとは限らない。もし風が吹いていたら優介を包む葉はすべてどこかに飛んで行っている。朝まで葉が残っていたということは、夜間誰かが葉が飛ばされるたびに、優介の身体にかぶせていたということになる。

 「起きたか。さあ、早く自分の家に帰るんだ」

 誰かが低い声で優介に話しかけた。

 「誰かいるの?」と優介は言った。

 確かに声が聞こえるのにここには誰もいなかった。誰もいないはずなのに声が聞こえる。低い声は続けた。

 「お前の前にいるだろう。大きな木だ」

 昨日はたいして気にもとめていなかった大木が優介に話しかけていたのだ。根で地面をしっかりとらえてどんな嵐が来ても耐えられそうな大木は、優介を上から見下ろしていた。

 大木にそう言われても優介は状況を理解できずぽかんとしていて、黙って大木のほう下から見上げるだけだった。

 「まだわからんか。よく目をこらして前を見ろ」と大木は言った。そして身体を大きくふるわせた。大木の枝はゆれて、生い茂っている葉はほかの葉とこすれてカサカサと音を立てた。

 大木が少し身体をふるわせるだけで葉が大きな音を立てたし、風が巻き起こったので、優介は驚いて目を見開いた。木がしゃべったのだ。優介は自分は夢のなかにいるのかと思った。木が自分に話しかけていることは理解したが、これを現実だとはまだ受け入れられなかった。これは夢なのだと思うと、優介は最初は驚いたが落ち着いて、おそれも感じずに木と会話をすることができた。

 「帰れっていったって、僕には帰る家がないんだよ。家出をしてるから」

 「家がないなら児童相談所とかいうところに相談に行くのだ。そこに行けば住む場所くらい何とかしてくれるはずだ。わしは人間がきらいだ。だから早くどこかに行ってくれ」

 「その児童相談所ってのがどこにあるのかわからない。僕はこの町に来たばかりなんだ。どうしてもっていうなら、僕をそこまで案内してよ」

 木はすっかり黙ってしまった。その木は大きい。五年とか十年ではここまで成長することはできない。きっと何十年もこの町を見てきて、いろんなことを知ったのだろう。何十年も生きていれば児童相談所のことは参拝客や、おしゃべりが好きそうなカラスのうわさ話から聞くことがあるかもしれない。でも児童相談所がどこにあるのかは知らなかったのだ。

 優介は手水舎の水で顔を洗った。ひどくのどがかわいていたので、できるだけ汚れをのぞいてからそこの水を飲んだ。冷たい水が、自分は夢のなかにいると思い込んでいる優介を目覚めさせた。どうやらこれは夢のなかではない、本当に木がしゃべっているのだと優介は認めざるをえなかった。木だけではない。ほかにも声が聞こえる。あの小川で聞こえたように。気がつけばあたりはにぎやかだった。

 優介は足が動かなかった。つい先ほどまではここから去るつもりはなかったが、今この瞬間は児童相談所でもどこでもいいから別の場所に行きたい。しかしどうしても足が動いてくれないのだ。優介が黙って立ちすくんでいると木は話しかけた。

 「児童相談所の場所は知らん。だから連れて行けん。そもそもわしは歩けんから案内するなんて無理なのだ。お前の好きにしろ。ここにいたいならそうしろ。帰りたいならわしはよろこんで見送る。しかし、ずっとここにいて死なれても困る。わしの足元に食べ物を用意してある。人間の口に合うか知らんが、腹が減ったら食え」

 優介は木の根元を確認した。確かに食べ物らしきものがある。どこからとってきたのだろう。大きくて底が深い器に少しではあるが食べ物があった。優介の立っている場所からはオレンジ色のものが見える。どこかになっていたみかんだろうか。優介は、この木が自分に敵意がないことがわかると安心して、少しずつ木に近づいて、器を取ると急いで賽銭箱のところまで逃げた。敵意がないとしてもしゃべる木に気を許すことはできない。

 優介は腰を下ろして賽銭箱によりかかった。伸ばした足の上に器をのせて食べ物を確認した。木が用意してくれたのは、みかん一個、さくらんぼ二個、ギザギザした形の草が三本だった。

 「その草はタンポポの葉だ。苦いかもしれんが食べれんことはない」

 優介が不思議そうに草を手に取って眺めていると、木が草の正体を教えてくれた。

 「タンポポなんか食べられるか」

 優介は小声でいった。木に聞こえないようにいったのだが、木は優介のかすかな声を聞きとって、さらにいった。

 「食べられる。人間はぜいたくなのだ。お前は、牛や豚を食べるために一体どれだけの穀物や水を使っているのか知っているのか?牛一頭のためにどれだけの人間が飢えていることか。タンポポは牛や豚とは違う。誰も飢えさせることなくきれいな花を咲かせる。おまけに食べられるのだ。味なんて問題じゃない。明日へ命をつなげられたら、それで十分だろう。一口食べてみるんだ」

 優介は木に促されて、おそるおそるタンポポの葉を少しだけかじった。

 「苦い」

 優介は言葉にするほどの苦さをかみしめて飲みこんだ。木のいったようにタンポポの葉は食べられないことはなかった。しかし好んで食べるようなものではなく、ほかに食べるものが何もないときにしかたがなく食べるものだ。木は、優介がタンポポの葉を食べる様子を見て満足したようだった。

 優介は、歩けないはずの木がどうやって食べ物を集めたのか気になってたずねてみた。

 「鳥に協力してもらったんだ。わしたちの世界ではみんなお互いに助けあって生きている。ときには食べたり食べられたりするが、それもみんな承知の上だ。わしは木だから鳥を捕まえて食べたりしない。鳥のほうもそれをわかってるから歩けないわしを手伝ってくれるんだ」

 一つ疑問が解決するとさらに新しい疑問が優介の頭のなかに出てくる。優介はやつぎはやに質問をした。なぜ木が話すのか。自分が小川で聞いた不思議な声は夢でなかったのか。ほかにも話す木はいるのか。

 「人間は自分が一番えらいと思っている。猿のように歩いていたかと思えば、いつの間にか直立二足歩行を覚えた。そして火を味方につけて危険な動物から身を守る術も身に着けた。そして今ではこの地球の支配者のつもりでいるではないか。だから自然の声が聞こえないのだ。植物や動物には意思や感情がないと思い込んでいる。人間の都合で自然をこわしたくせに、今は手のひらを返したようにエスディージーズとかいうことをいっているが人間の本質は何も変わっておらん。人間が話すように木も話す。鳥も話す。自然の声が聞こえないのは、聞こうとしないからだ。お前が小川で聞いた声も自然の声だ」

 優介は木のいっていることが難しくてあまりわからなかったが、人間のせいでこの木が怒っていることは理解できた。申し訳なさそうに顔をふせて、サクランボとみかんの甘さでタンポポの葉の苦さを打ち消していた。木はおだやかな口調で続けた。

 「しかし、お前は自然の声を聞くことができる。ほかの人間とは違うのかもしれんな」

 「そうだよ。僕はほかの人とは違うんだ。僕は一人なんだよ。あんなお母さんとは一緒に暮らしたくないから家出したんだ」

 優介は思わず心のたけを打ち明けてしまった。木は人と違って怒ったり否定したりしないと思ったからだ。

 「僕みたいな不幸な子供はどこにもいないさ。世界一不幸なんだ。急に転校させられたんだ。こっちに来てからお母さんは全然料理しないし、家にいるときは寝てばかりいるんだ」

 「そういう意味でほかの人間と違うといったわけではないんだがな。お前は視野がせまい。お前みたいな子供はいくらでもいる。だから自分を不幸だなんて思っちゃいけない。さあ、お母さんが待ってるんだろ?家に帰りなさい」

 「いやだ。絶対に帰るもんか」

 木はもう一度優介を家に帰そうとしたが叶わなかった。木は手も足もない。無理やり優介を家まで連れて行くことはできない。木は、ただ優介を見守ることしかできなかった。

 優介は木に恩を感じていた。タンポポの葉は人間が食べるようなものではないけれど、みかんとサクランボはおいしく食べられた。当然満腹にはならないが木の気持ちがうれしかったのだ。

 「僕に何かできることはない?恩返しがしたいんだ」

 「それなら早く家に帰ってくれ。わしは人間が嫌いなんだ」

 「僕はお母さんが嫌いなんだ。君が人間を嫌っているようにね。だから家には帰らないよ。ほかに何かない?」

 「ない」

 それから木はまた黙ってしまった。うんともすんとも言わない。さっきまで話していたのが夢なのかと優介は思った。しかし、木は静かでもほかの何かの話し声が聞こえる。やはりさっきまで木が話していたのは現実なのだ。

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