第7話

 祖母の家は古いが優介にとって温かいところだった。古さは気にならない。インターホンを鳴らすと祖母は急がずマイペースに玄関まで歩いてきた。腰が少し曲がってきて歩くと腰に痛みを感じるようで、いつも歩くのは遅い。祖母は玄関の引き戸を開けると一人で立っている優介に驚いて言葉が出なかったが、孫が来てくれたことがうれしくなり「こんな遅くにどうしたんだい。さ、早くおはいり」と言って優介を家に招いた。

 優介が祖母の家に来るのは今年の春休みの最後の日曜日だった。学校が始まってからは祖母に会いに行かなかったし、電話で話すこともなかったので、二人は久しぶりの再会だった。優介は靴を脱いで家に上がると、腰を曲げてゆっくり歩く祖母を横目で見ながら倒れはしないか気をつけながら祖母についていった。祖母は優介は居間に招いて座らせた。

 「明日は学校でしょう。こんな時間にどうしたんだい?」

 祖母は話す速度もゆっくりだった。優介はどう言い訳をしようか悩んでこう答えた。

 「今日運動会だったんだよ。だから明日はお休み。ひさしぶりにおばあちゃんに会いたくなって、今日は泊りに来たんだよ。いいでしょ?」

 「運動会だって?おばあちゃん一言も聞いてないよ。どうして呼んでくれなかったんだい?それなのに泊めてもらおうなんて虫がいい話がありますか」

 優介は祖母の言葉をそのまま受け止めて、祖母は今怒っているのだと思い込んだ。祖母の怒った顔を見まいとして優介は顔を伏せて床を見つめていた。だから、祖母がほほえんでいることに気がつかなかった。

 「こんな時間に来るってことはごはんはまだなんでしょう。準備するからここに座って待っていなさい。正座なんかして反省しているふりはしなくてもいいんだよ。運動会に呼ばれないくらいで怒らないよ」

 祖母はそう言って台所で優介の食事の準備を始めた。優介は祖母の言葉で一安心した。どう謝ったら許してくれるだろうか、泊めてくれなかったらどうしようかと心配になっていたのだ。夕食をごちそうしてくれるならまさか泊めてくれないことはないだろう。優介は正座していた足を伸ばして楽な体勢になった。

 台所ではガスコンロの炎が鍋を温めていた。祖母はもう食事をすませていて、その残りが鍋のなかにたくさんあったのだ。祖母は一人で食べきれないのに、いつも多めにご飯を炊くしおかずもつくってしまうのだ。それは、突然孫が来たときに、自分の料理を食べさせてあげたいという気持ちがあってのことだ。だから祖母はうれしかったのだ。自分以外の人に、それも孫に自分の料理をふるまうことができるのだから。

 しょうゆや砂糖などの調味料の香りが優介のいる居間のほうまでただよってきた。優介にとってはひさしぶりに食べる祖母の手料理なので楽しみに待っていた。祖母が腰を曲げて両手に持っている器を落とさないよう気をつけて運んでいる。優介は祖母の姿を見るとすぐにかけよって、祖母がたずさえている食器を受け取った。一つはおおもりのごはんで、もう一つは野菜がたくさん入った肉じゃがだ。優介は肉じゃがを見たとたんなつかしさを感じた。最近はスーパーのそうざいばかり食べていて、手作りの肉じゃがを最後に食べたのはいつなのかわからないくらい食卓にならんでいなかったのだ。

 「おかわりはまだあるからね」

 祖母は、孫がおいしそうに肉じゃがを食べる姿を見ると満足した表情を浮かべた。

 「この肉じゃがおいしいよ。肉は少ないけどね」

 「肉は高いからあまり買えないのよ。でもおかわりはたくさんあるから遠慮しないで食べてちょうだい」

 優介は空腹を満たすと嫌味を言いたくなった。祖母のつくった肉じゃがはさっぱりしていてちょうどいい味付けだったので文句のつけようがなかった。ただ一つ言えるのは肉が少ないことだ。優介は肉をあまり好まないので、問題はなかったのだが、さっき怒ったふりをした祖母にしかえしをしたかったのだ。

 優介はごはんと肉じゃがを一回おかわりをした。おかわりした肉じゃがはもう冷めていたけどおいしかった。優介は何となくこの肉じゃがのおいしさの理由に気がついた。

 優介はこう考えた。

「この肉じゃがは、おばあちゃんが誰かに食べてもらいたいと思ってつくったものだ。それも、自分にとって身近な人に食べてもらっておいしいと言ってもらいたいんだ。だからあんなにおかわりをすすめてきたんだ。でも、スーパーのおそうざいは違う。あれは、ただつくられただけなんだ。つくった人は、あの人に食べてほしいとか、そんなのはどうでもいいんだ。ただつくって、自分の仕事が終わればそれでいい。たとえ廃棄されても自分に給料は入ってくるんだから。つくる人の態度で料理の味はこんなに変わるんだ。」

 「ごちそうさま。おいしかったよ。こんなおいしい肉じゃがは初めて食べた」

 「まあ。六年生になるとお世辞が言えるようになるんだね」

 「さあ、お風呂に入ってしまいなさい。食べてる間にお湯をためておいたよ」

 祖母は泊まることをまだ許可していなかったが、内心は優介を泊まらせる気になっていて入浴の準備までしていたようだ。

 「あ、着替え持ってくるの忘れちゃった」

 「どこかにあんたの着替えがあったわよ。探して準備しておくから、早く入ってらっしゃい」

 祖母に促されて優介は風呂場に向かった。祖母の家の外見はとても古そうだが、なかはところどころリフォームされているので優介も快適だった。祖母の家の脱衣所は広い。優介の家の脱衣所と浴室を合わせた広さだ。また、優介の家の浴槽はとてもせまく、足を曲げないと座ることができない。しかし、祖母の浴槽はとにかく広くてきれいだった。大人一人が足を伸ばしてもまだ余裕がある。優介は銭湯の湯船につかっている気分だった。とても気持ちがよく油断をしたら眠ってしまいそうだ。一時の間、祖母とお湯の温かさが、優介に家出をしていることを忘れさせた。

 脱衣所には新しい下着とパジャマが用意されていた。優介はそれを着て祖母の寝室に行った。運動会に疲れていたので起きているのが大変つらかった。寝室には布団が二人分用意されていた。これまでも何度か祖母に家に泊まったことがあって、必ず優介は祖母と同じ部屋で寝ていたのだ。この日も祖母は自分のとなりに優介の布団をしいてくれていた。

 祖母は食事をすませていたが入浴はまだだった。優介が眠りにつくまでは自分の用事はしないつもりなのだ。祖母は自分の布団に足だけを入れて身体を起こしていた。そして、優介に布団に入って横になるように促した。優介がまだ乾いていない髪の毛で枕をぬらさないよう、自分のうでを枕の代わりにして横になると、祖母は用意していた昔話の絵本を読み始めた。よどみないすき通ったきれいな声で、「むかしむかし」と孫に語り聞かせる。優介は祖母の読み聞かせを聞き始めると五分もたたないうちに深い眠りについてしまった。

 優介はいつもの時間に目が覚めた。もう太陽は高く昇っていて、優介が寝ていた寝室を明るく照らしている。まぶしい日差しと一緒に五月のさわやかな初夏の風が、まだ眠たい優介を寝床から起こした。祖母はもう布団をたたんでいた。窓を開けてくれていたので、網戸からはとなりの家と祖母の家をしきるブロック塀が見えた。ブロック塀から、となり家の二階部分や松の木が、まるで土のなかから飛び出したたけのこのように飛び出ている。

 廊下は冷やりとしていて足の裏が気持ちよかった。お正月に歩く祖母の家の廊下は、靴下を履いていても足の裏が痛くなるほど冷たい。しかし夏はちょうどいい。

 居間に入るとテレビはつけられたままで祖母の姿はどこにもなかった。畳の上に敷いているカーペットには読みかけの朝刊が置かれていた。優介は座ってテレビを見ていると、祖母は焼き立ての鮭とごはんとみそ汁を丸いお盆にのせて運んできた。あまりに手際がよかったので優介は驚いた。優介が起きてからまだそんなに時間はたっていないのに、温かいみそ汁ときれいに焼かれた薄橙色の鮭がテーブルにならんだから驚かずにはいられない。祖母はきっと優介が起きてきそうな時間を予想して調理をしたのかもしれない。おなかをすかせた孫が起きたら、すぐにごはんを食べられるように。

 優介は朝食を食べ終えると洗面台で顔を洗った。昨日来ていた服はもう洗濯してくれたようで、外の日がよく当たる場所に干してあった。時々吹く風が洗濯物を揺らしている。今日は快晴だ。すぐに乾くだろうと優介は思った。

 「そろそろ行くよ。ありがとう。また来るからね」

 優介は長居すると迷惑がかかるし、家でしていることが祖母に知られてしまうかもしれないので午前中に祖母の家を出ることにした。

 「忘れものだよ。ちょっとお待ち」

 祖母はそう言って台所のほうまで優介の忘れものを取りに行った。

 「はい、あんたの大事なものだよ。またいつでもおいでね」

 祖母は手提げかばんを優介に手渡した。優介は手提げかばんを片手で受け取った。なかに入っているのは空の水筒だけだったからだ。しかし、思わずもう一方の手で支えるほど手提げカバンは重くなっていた。

 優介はカバンのなかを確認したかったが、できるだけ早く祖母の家から離れたかったので、もう一度一言お礼を言うと急ぎ足であてもなく歩き出した。優介は振り返らずひたすら前へと進んだ。その姿を祖母は心配そうに、見えなくなるまで見守っていた。

 優介の住むマンションから祖母の家に行く途中にどこに続いているのかわからない石階段があった。木々が生い茂って薄暗い。気味が悪かった。しかし、その薄暗さが今の優介にとっては救いだった。自分を探している母から姿を隠せるのに都合がよかったからだ。

 優介は、道路から優介の存在を確認できないところまで石階段を上って腰を下ろした。そして手提げカバンのなかを調べた。なかには、ラップに包まれたおにぎりが二個と、スーパーで売っている安いアップルパイ、ペットボトルのオレンジジュースが入っていた。水筒にも重くなっていて、一口飲むと麦茶だとわかった。公園の水飲み場で水を入れるはずだったが、麦茶のほうが好きだったので優介は喜んだ。それにたくさんの食べ物がある。今日からの食べ物については何も考えていなかったから、優介は助かったと心底思った。

 この石階段はどこまで続いているのだろうか。祖母からこの石階段について聞いたことは一度もなかった。きっと祖母も知らないのだろう。石階段は欠けているところもあってずいぶんと昔につくられたものだと優介は思った。このまま上に行っても楽しいことなんてあるわけがない。薄暗くて寂しい場所なんだ。優介は手提げかばんを大事そうに持って、歩きにくい石階段を下りた。そして祖母の家とは反対方向に進んだ。

 母のいる家にはもちろん帰れない。家出をしているのだから。祖母の家にも戻れない。母が探しに来ているかもしれない。優介はどこに向かって歩けばいいのだろうか。散歩はほとんどは目的地を定めなくても、ただ自分の周りに広がっている景色や人の動きを眺めながら歩くだけで充分楽しい。だから、優介の目的地のない家出も楽しいものであってもいいはずなのだ。つらいことを忘れて、勉強だの進路だの、そんな人間だけがやっているわずらわしいことも考えず、ただあるがままの今を生きる。

 優介は不思議な声が聞こえる小川に来ていた。大久保と親しくなって交流を重ねていたころにはすっかり忘れていたが、家出をしてからふと思い出したのだ。ベンチに座ってお茶を一口飲む。オレンジジュースは貴重品だからまだ飲まないことに決めていたのだ。そして耳を澄ます。風の音、小川の音、生き物の音を聞く。人間世界のつまらないことには背を向けて、自然に向かい合う。すると、ひさしぶりに不思議な声が聞こえた。優介は懐かしく、そして嬉しくなった。

 「商店街にある品物はどれもいいね。八百屋のみかんをこの前食べたんだがおいしかったぜ。皮が柔らかいから食べやすいんだ」

 「おい、皮が柔らかかったらつかんだときにつぶしてしまうだろうが。それよりか、つかんでもつめあとがつかないくらいしっかりしたやつのほうがオレは好きだね」

 見知らぬ二人組が話している。話している内容に似合わず、二人とも高い声の持ち主で聞いていると気持ちが静まりそうだ。優介は今度こそこの声の出どころを探そうと念入りに周囲を探したが、やはりそれらしき人は見当たらなかった。道を歩いている人は仕事や趣味の話をしても商店街のみかんの話をする人はどこを探してもいない。

 これまでに何度も不思議な声を聞いて、そのたびに話し手を探してみても見つかったためしはない。優介は、もしかしたら自分は精神的におかしくなっているから、ありもしない声、すなわち幻聴を聞いているのだと思った。特定の場所でだけ聞こえるのは不思議でしかたがないが、話し手が見つからない以上優介の幻聴なのだろう。優介はこの声のことをもう気にしないことにした。

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