第6話
母は運動会に来てくれるとは言っていたけど、どこで待ち合わせをするのかを決めていなかった。まったく手がかりがない状況で心もとない。それでも友達との約束のために見つけ出さないといけない。優介は校内を探し回った。校門のところからスタートして、駐車場、中庭、体育館の裏、運動場という順で歩いた。どこもビニールシートを地面に敷いて食事を始めている家族で満たされていた。母は一人で来ているはずだ。人が多い運動会に祖母を連れてくるとは考えにくい。だから、優介が注意して探すべきなのは、ビニールシートの上に寂しく一人で座っている女性の姿だ。
しかしどこに行ってもビニールシートの上にはたくさんのお弁当が置かれていて、父、母、兄妹、ときには祖父母までが座って談笑していた。もしかして母は来ていないんじゃないか。優介は不安になった。母が来ていないということは、お弁当もないということだ。
いつまも大久保を待たせたら悪いと思って運動場の隅に設置されているジャングルジムまで赴いた。母が来ていないことは隠すつもりでいた。そして、母が人嫌いなことを理由に食事を一緒にするのを辞退しようと優介は考えた。
「お母さんは人と関わるのがあまり好きじゃなくて、だからごめん」
ジャングルジムのそばには大久保一家がビニールシートを広げていた。両親と大久保はまだ食事を始めていなかった。
「そっか。でも、一口でもいいからうちのお弁当食べて行ってよ。うちの母さんのからあげは最高においしいから」
「そうだよ、よかったら食べてちょうだい。うちだけじゃ食べきれないのよ」
大久保は半ば強引に優介を大久保家のビニールシートに上げて、座らせた。大久保の母も優介を促して食物を食べさせようと声をかけている。父は軽くあいさつをするとずっと黙っていたが、温かい笑顔でとまどいながらもからあげを食べる優介を眺めていた。優介が食物を口に入れるたびに満足している風でもあった。
優介は最初は遠慮しがちだったが、空腹だったので次第に遠慮を忘れていろんなおかずに箸を伸ばすようになった。
大久保は優介が母を探しに行ったとき、実はこっそりと後をつけていたのだ。優介の両親はどんな人なのだろうかと考えながら優介に気づかれないように追いかけた。しかし、いつになっても優介は両親と合流しない。運動場に戻ったところで待ち合わせ場所に向かおうとしていたので、大久保は一足先に戻っていたのだ。そして両親に、優介の両親はどこにもいなかったことを伝えた。
そのことを知った大久保の両親は驚いたが、それらならうちで食べて行ってもらおうとすぐに決心したのだ。
「春輝はね、転校することが多くてなかなか友達ができなかったのよ。この学校にも去年転校したばかりで、まだうちに誰も遊びに連れて来たことがないのよ。それなのに、昨日急に、明日は友達も一緒に食べるからおいしいお弁当をつくってねなんて言ったのよ。お母さんびっくりしちゃった」
大久保の母がそう言うと大久保は恥ずかしそうに顔を伏せて卵焼きにかぶりついた。
「私の仕事は転勤が多いからね、悪いと思ってるよ」
大久保の父はやっと口を開いて、大久保が転校の多い理由を短く言った。大久保一家は優介が今年転校したばかりだということはもちろん知っていたが誰もその理由をたずねようとはしなかった。
優介は、母が来てくれなかったことで気を落としたが、大久保一家の温かいもてなしのおかげで少し心のもやが晴れたようだった。大久保の言う通りからあげはおいしかった。冷めていたが味がしっかりしていて食が進んだ。優介は空腹を満たすと、丁寧に大久保の両親にお礼を言った。そして、母のところに行くからと言って校門のところまでいった。校門のそばには高い網状のフェンスが設置されている。そのフェンスの網目から町を眺めた。ここから自分の家は見えるだろうか、母は今何をしているのだろうかと考えながら残りの昼休みを過ごした。
午後の二人三脚が始まったとき、優介は大久保に対して気まずさを感じさ。嘘をついたにもかかわらず大久保の母がつくったお弁当をごちそうになったからだ。一方で大久保は、自分は当たり前のことをしたのだと思っていた。友達が困っていたら助けてあげる。大久保はそんな子供だった。
優介たちは練習のかいあって二着になった。一着になることは叶わなかったが、それでも二着だ。最初は走ることさえ難しかったコンビが本番で二着になれたのだから上出来ではないか。
大久保は嬉しくなって優介に話しかけるが、優介は微笑を返すことしかできなかった。
閉会式も終わり、無事に運動会が終わると優介は急いで家に帰った。大久保に一緒に帰らないかと誘われていたが、親から早く帰るように言われているからとごまかして一人で帰った。今日も川に寄り道せずまっすぐ帰った。家に着くと母はまだ布団のなかにいてスマートフォンを操作していた。母は子供の運動会よりもデジタルの世界の方が大切なのかと優介は受け止めて、怒りがこみあげてきた。
「なんで来てくれなかったの?来るって言ったじゃん」
優介はいつになく強い口調で母に言った。
「仕事で疲れてたのよ。あんたもうすぐ中学生でしょ。わざわざ私が行かなくても大丈夫でしょ」
母はだるそうに布団のなかから言った。
「お母さんが来なかったから僕のお弁当はなかったんだよ」
「お弁当なんかいらないでしょ。給食があるんだから」
母は運動会でも給食が出されると思っていたようで悪びれることなくそう言った。
「今日は給食がないんだよ。福岡でもそうだったでしょ。運動会の日には、お母さん早起きしてお弁当つくってくれてたじゃないか」
「知らない知らない。給食費払ってんだから、給食を出して当然でしょ。私は悪くない。学校が悪いのよ。それに、お昼ご飯が食べられなかったくらいで文句言うんじゃないよ。あんたは今生きてる。生きてたらそれでいいでしょ。私は疲れてるんだから、そっとしておいてよ」
優介は母と言い合うのに疲れて自分の部屋に行った。怒りはおさまらずまだ言いたいことはあったが、今の母に何を言っても伝わらないと思ったのであふれ出す怒りをふたをして無理やり抑え込もうとしたのだ。ふたを上から両手で押しつけてもどんどん怒りはあふれてくる。際限なく降り続ける熱帯雨林の雨のように、優介の怒りはどんな手をつかってもなだめることは難しそうだった。
優介は家を出ることにした。どこか遠くで一人寂しく暮らそうと思ったのだ。大久保とせっかく仲良くなれたが仕方がなかった。この怒りが大久保に何かしてしまう前に、自分はどこかに行ってしまったほうがいい。そして、そこで一人で生きていくんだ。学校にも行かない。
まだ優介は子供だ。大人も一人で生きるのは難しいのに、子供ならなおさらだ。子供一人で生きていけるはずがない。それでも、優介は一人で生きていこうとしていた。優介は社会のことを何も知らない。何も知らないからこそ、そう思ったのかもしれない。人は社会では一人では生きていけない。それでは、自然のなかでならどうだろうか。
優介は手提げカバンに空の水筒を入れて家を出た。さすがに汚れた体操服のまま出ていく気にはなれなかったので、洗濯された普段着を着て家を出た。
日はしずんだ。五月とは言え夕方は少し肌寒さを感じる。優介には中途半端な計画があった。今日は祖母の家に泊まって、食事と寝る場所を確保して、明日はお弁当と飲み物を用意してもらうつもりだ。新学期が始まるまでの間祖母には世話になっていたので、旅立ちの前に一目祖母の顔が見たくなったのだ。ただ、祖母の家を出てからのことは考えていなかった。行く当てがないのだ。優介は、母のいる家にはいたくなかったので、母がいないところならどこにでも行ってやろうと思っていた。
あたりが薄暗くなってきたので優介は心細かった。もう母の家には帰れないし、いつまでも祖母の家にとどまることはできない。この先食べていくこともできないかもしれない。夕闇は優介の心にも影を落として暗い考えばかり浮かんでくる。
優介は手提げカバンの持ち手を握りしめて歩いた。不安な子供がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめて不安を和らげるようにだ。できるだけ何も考えないようにして歩いた。暗いことを考えるとそれが表情に出て、祖母に心配をかけてしまうかもしれない。できるだけ明るくふるまわなければと優介は思って、今日の二人三脚のことを考えた。まさか自分が二着になれるなんて、夢にも思わなかった。一着ではないからあまり貢献はできなかったけど、足を引っ張ることはなかった。そう考えると自分と大久保とのあの練習の日々は無駄ではなかった、意味があったんだと思えて少しだけ嬉しくなった。
どこかなつかしい香りがただよってきた。優介は祖母の家に到着したのだ。
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