第5話

 次の週の体育の時間に、運動会の競技の練習が早速始まった。六年生の競技は綱引きと、リレーと、二人三脚だ。綱引きは相手がいないと練習できないので、六年二組と三組との合同練習のときに行われた。六年一組だけで練習する日はリレーや二人三脚の練習をする。練習はその競技の内容だけじゃなくて、入場から退場までの一連の流れをさせられる。運動会はクラスが赤と白のそれぞれに分かれて競う行事だ。しかし、やはり学校の行事としてやるからには何らかの教育目的がないといけない。勝った負けたで終わりではない。運動会では団結力とか、集団のなかで輪を乱さないで行動する力などを子供にさとらせないで学習させる機会でもあるのだろう。

 準備体操を念入りにしてから児童たちは練習に入った。まず工藤は児童たちを運動場のまんなかに座らせて話を始めた。

 「今日は二人三脚の練習をします。そのためにまずはペアを決めましょう。時間を五分くらいとるから、ペアができたところは座って待っててください。さあ、始め」

 工藤の話が終わると児童たちはいっせいに立ち上がって、普段仲良くしているグループで固まった。そして、そのグループのなかで誰と誰がペアになるのか話している。奇数のグループがあって、ペアをつくると一人余ってしまうところがあった。その余った一人がペアを探していると近くにまだペアをつくれていない人がいたので声をかけた。

 「おい、大久保、よかったらオレとやろうよ」

 声をかけられたほうはこう答えた。

 「ごめん、もう約束してる人がいるんだよ」

 大久保と呼ばれた少年は誘いを断ると優介の方に行った。そして優介の肩を軽く持って一緒に座らせた。優介は大久保たちのやり取りを見ていたので、このときに大久保という名前を知ることができた。優介はラッキーだと思った。少なくとも、名字は知ることができたからだ。

 毎朝、担任の工藤は児童全員の名前を呼んで健康状態を確認しているのだが、優介はいつもあいさつをしてくれたクラスメイトの名前を聞きそびれていた。何度も名前を知る機会はあったのに名前を知らないなんてことが相手に知れたら、自分は嫌われてしまうんじゃないかと心配だったが、その心配の種もなくなって安心した。下の名前もそのうちどこかのタイミングでわかるだろう。

 「大久保くん、僕なんかでいいの?」

 優介は座り込むと、彼の名前を覚えるためにわざわざ名前を言ってから尋ねた。頻繁に名前を言って顔を見るのは、優介が大久保の名前を憶えてしまうまで続いた。

 「いいんだよ。有野はオレと身長がほとんど同じだから、一緒にやればうまくいくよ」

 「身長は同じかもしれないけど、僕は足が短いから。大久保くんの歩幅に合わないよ」

 「それならオレが合わせるからよ」

 優介が大久保とペアになることを受け入れたころには全員ペアはできていた。幸いこのクラスは男女の人数はともに偶数だったから、計算上ペアをつくれない人はいないのだ。

六年一組の児童全員がペアをつくり終わると、工藤は試しに走らせてみることにした。初回なので、本番のように競争する形ではなく、それぞれのペアは好きな方に走り回っていて、こけたら笑いあったりほかの連中にバカにされたりしていた。優介と大久保はほかの人たちから離れたところでひっそりと練習をしていた。最初は何回もつまずきかけて、その理由は歩幅の違いからだろうと二人は考えた。優介の歩幅はやはり短かったのだ。

「やっぱりほかの人とペアになったほうがいいよ」

優介は大久保の足を引っ張っているような気になった。

 「さっきも言ったじゃん。合わせるって。練習すれば少しはよくなるよ」

 大久保はそう言って、ほどけた青色のひもを結びなおして、優介の足に自分の足を固定した。

 「さあ、練習だ。ちょっとずつ感覚がつかめてきたから、すぐに走るくらいはできるようになるよ」

 優介は大久保はなぜ自分に優してくれるのか不思議だった。大久保は人にペアになろうと誘われておきながら、それを断って優介のところに来た。優しさの理由はわからなかった。理由のわからない優しさはどこかこわさがあったが、大久保と一緒に練習しているとそのこわさは大久保にはないことがわかった。優介にだけ優しいのではなくもとからこういうやつなのだ。

 それから運動会当日まで二人は熱心に練習した。最初は歩くことさえままならなかったが、一週間も練習すると走れるようになっていた。ほかのクラスとの合同での練習や、全学年合同で練習する日は競技そのものより運動会の形式を重視した練習が行われた。開会式での整列場所の確認、開会式が終わってからのそれぞれクラスはどういった流れで閲覧席に戻るのか、競技参加者は入場門から入場するのだがいつまでに入場門に整列しておくのか。そういった円滑に運動会を進行するために必要なことを確認した。

 優介は練習を重ねるごとに大久保に友情を感じるようになっていた。最初に話しかけられたときには友情を意識すらしていなかった。しかし今は、合わない歩幅を互いに合わせようとしてかけ声をかけながら走っている。朝は誰にもあいさつをしていなかった優介が、大久保にはあいさつを欠かさずしている。二人の間に友情がないはずはなかった。

 運動会までの日々はあっという間だった。優介は新しい町での暮らしにも慣れはじめていた。大久保と親しくなってからは、優介が始業式の日から数日間通っていたあの川には行かなくなっていた。その川は通学路と途中にあるので毎日行こうと思えば行けるのだが、優介はとっくに不思議な声のことを忘れてしまっていたので、川のそばでしゃがみこもうなんて思わなかった。

 休みの日に二人は一緒に遊ぶこともあった。公園でキャッチボールやサッカーをしたり、ゲームセンターでメダルのゲームをしたりしていた。大久保はよくそのゲームセンターに行くらしい。少し前、大量のメダルを手に入れて、一日で使いきれないから機械にメダルを預けていたのを優介にわけてくれた。

 学校では勉学や練習に励み、休日は新しい友達と過ごす。優介はだんだんこの町が気に入ってきた。友達が一人できただけでこんなに楽しくなるのだろうか。灰色だった毎日が、突然明るくなった。優介は明るい毎日を生きている。そして、運動会が行われる五月の日曜日は確実に近づいている。

 運動会の前日、優介は仕事が休みで家にいる母に言った。

 「明日は運動会だから見に来てね」

 「ああ、そういえばそうだったわね。わかってる」

 母は優介が学校から持ち帰る保護者あての手紙には欠かさず目を通していたのだ。運動会が五月に行われることは知っていたが忘れていたようだ。優介に言われて思い出した。

 「弁当もつくってよ」

 「はいはい、わかってるから寝かせてよ。疲れてるのよ」

 母は昨夜飲みかけていたビールを一口飲むと布団のなかに入ってしまった。これ以上は優介の話に耳を貸さないとでも言わんばかりにイヤホンをつけてスマートフォンの画面を見つめている。

 優介はもう何を言っても無駄だと思って外に出た。運動会前日は迷惑だと思ったので、大久保と遊ぶ約束はしていなかった。一人で町を歩いた。いつもと同じ通学路を通って駅まで来た。駅周辺のデパートやショッピングモールで時間を過ごした。ショッピングモールのなかには本屋があって、そこにはたくさんの本があった。桜ケ丘小学校の図書館にある本よりもたくさんの本がそこにはあって、タイトルでさえ難しく何が何やらわからないものだらけだ。漫画コーナーには面白そうな漫画がたくさんあった。今度母に連れてきてもらって、何冊か漫画を買ってもらおうと思った。

 運動会は五月の晴れた日曜日に行われた。もうすっかり暑くなってしまって少し歩くと汗が額ににじんでくる。この日は体操服を着て赤白帽子をかぶって登校することになっている。優介は、持ち物も筆記用具と水筒くらいなのでランドセルは使わず、手提げカバンに必要なものを入れて持って行った。

 母は、優介が家を出るときもまだ寝ていた。お昼休みにはお弁当を持ってきっと来てくれると優介は思って、母を起こさず静かに家を出た。

 登校途中大久保とばったり会った。下校はいつも一緒なのだが登校が一緒になるのは今日が初めてだった。優介は朝起きるのが苦手なので、いつも違った時間に登校している。早起き出来て早い時間に学校に着くこともあれば、寝坊して遅刻しそうになることもある。だから、約束して一緒に登校することが難しかった。

 二人は他愛のない話をしながら坂を上った。

 「今日の昼はうちの家族と一緒に食べようよ」

 大久保は朝からもうお昼のことを考えている。

 「いいよ、一緒に食べよう」

 優介は大久保の提案を受け入れた。母と二人で食べるよりも大久保一家と一緒になって食べたほうが楽しいと思った。食事は少ない人数でするよりも多い方がいい。このことは、優介が一人で食事をしているとふと感じたことだ。母が仕事でまだ帰らないうちに一人で食べる夕食は寂しくてむなしい。だから優介は学校の給食の時間が楽しみでもあった。話に加わらなくても、さわがしくてにぎやかな場所にいるだけでごはんがより一層おいしく感じられるのだ。

 運動会は児童たちの元気のいい行進をもって開始された。地面に打ちつけられている赤と白の大きな木の棒の間から、児童たちは先生の号令を合図に前に進み始めた。行進の練習は力を入れて行われたから、ほとんどの児童の腕と足を動かす速さはそろっている。その集団のなかに優介もいて、新しい小学校での運動会に少し緊張して、他の人と足並みがずれることがしばしばあった。

 プログラムによると六年生の綱引きは午前中、ほかは午後から行われる予定だ。綱引きが終わると、優介たち六年生はほかの学年の競技を見物していた。練習のときは先生によく動かされた。しかし、本番では椅子に座っていることが多くてお茶を飲んだりおしゃべりをしたりしてのんびりと過ごすことができた。先生たちも児童のおしゃべりをとめようとはしない。優介は大久保しか話せる友達がいなかったが、大久保は優介から離れたところに座っていたので、彼と話すことはあきらめてほかの学年の競技をおとなしく見ていた。

 午前の競技が終わり昼休みになると、約束通り優介は大久保一家とお弁当を食べることにした。そのためにはまず母と合流しなければならないので、優介は大久保に待ち合わせ場所を聞いてから、母を探しに行った。

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