第4話

 優介は帰り道で例の場所を通った。始業式の日の帰り道に不思議な声が聞こえた場所だ。彼は昨日と同じように川のそばまで来てしゃがみこんだ。どうせ早く家に帰っても誰もいないんだから少しくらい寄り道してもいいと思ったのだ。寄り道しようと思っても、行きたいところはなかったので、不思議な声が聞こえるこの川で時間を少しだけつぶすつもりでいた。運が良ければ不思議な声の正体がわかればいいなと考えていた。

 今日はランドセルのなかに教科書が入っているから、しゃがむと時折後ろに倒れそうになる。最初は倒れないようにバランスを取りながら耳を澄ましていたが、まったく例の声は聞こえない。いつまでもこの体勢を維持するのは疲れそうなので、優介は近くのベンチに座ることにした。ベンチは川から少し離れたところに置かれている。背もたれはないが、ランドセルを背負ったまましゃがんでいるよりもベンチに座っている方が楽だった。

 いろんな音が聞こえた。下校途中で楽しそうに何かについて話す小学生や、ランニングしている中年の男性が地面をける音、カラスの間の抜けた鳴き声が聞こえるばかりで、昨日聞こえた声は聞こえなかった。果たして昨日自分が聞いた声は夢だったのだろうかと優介は疑った。そしてその声について考えることをやめて、ただ川の流れを眺めることにした。

 川は一定の方向に流れている。きっと海に続いているのだろう。終点が海なら、始点はどこだろうか。山のほうだろうか。僕の始点は福岡だ。あそこで生まれて、今年の三月まで生活していた。しかし、三月の途中で僕の川の流れは変わって、福岡の友達とは別の方に進んでしまった。でも、終点は海だ。海はつながっている。太平洋も大西洋も全部つながっている。人間の都合で名前をつけているけど海は一つなんだ。別れた友達とは終点でまた合流できると優介は考えて、少し慰められたような気がした。

 「お前またじじいのところに行くのか?」

 「ああ、あそこが落ち着くんだ」

 「やめとけよ。あの頑固なじじいのとこにいっても追い返されるだけだぜ」

 「じじいは口だけだよ。いつも口だけで何かしたためしはない。オレは行くぜ」

 こんな会話が聞こえてきた。頑固なおじいさんがいて、そこにこれから遊びに行くのだろうかと優介は思った。しかし一体誰が話しているんだろう。彼は立ち上がって周囲を見渡すが、それらしき人はいない。仕事帰りのサラリーマンといった風のおじさんが疲れた顔をして歩いているくらいで、他に人はいなかった。

 優介は嬉しくなった。誰が話しているのかわからないのでこわさも感じる。それと同時に、自分が昨日聞いた不思議な声は夢ではなく、やはり現実でどこかに話し手がいることがわかって嬉しくもあったのだ。

 優介はもう一度座って聴覚を研ぎ澄ましたが、不思議な声は聞こえはしなかった。

 「ただいま」

 あれから十分はねばった。しかし不思議な声を再び聞くことができなかったので、彼はあきらめて家に帰った。家に帰っても誰もいないことはわかっていたが、いつもの習慣でただいまを言った。家のなかは静まりかえっておかえりと返事をする人は誰もいなかった。

 米は炊けていた。昨日母が買った総菜を電子レンジで温めている間、優介は茶碗にご飯をよそいで、箸やコップをテーブルに準備した。総菜はすぐに温まった。からあげである。小さいトレーにからあげが三個だけ盛り付けられている。おかずはからあげだけだった。野菜がなかったので彼は冷蔵庫のなかを隅々探したが玉ねぎ一つなかった。しかたなく今日の夕食は野菜を食べずにすませることにした。野菜は給食でそれなりに食べている。一日分の野菜には遠く及ばないが、食べていないよりはましなのでそれでよしとした。

 からあげは調理されてからかなり時間がたっていたが、温めてご飯と一緒に食べたらおいしかった。優介はちょうど育ちざかりだったので、すぐにおなかがすいてしまう。給食は余ったおかずをおかわりしたほどだ。育ちざかりの優介にとって賞味期限は関係ない。ただ食べられたらいいのだ。優介はからあげ一個でご飯一杯を食べてしまった。母が食べるだけのご飯を残しておいて彼は二杯目のご飯をからあげと一緒にたいらげてしまった。

 空腹を満たした優介は入浴をすませ、いつものように牛乳を飲んだ。今日は母を待とうとはせずに、自分の部屋に行って宿題をしたり教科書の準備をしたりした。時計の針が九時を指すころにはベッドに入って眠りについた。

 朝、優介が目を覚ますと母はリビングで寝ていた。布団のなかで静かに寝息を立てている。今日は仕事が休みなのだろうか。休みのときくらい食事の準備をしてくれてもいいじゃないかと優介は怒りを感じた。

 優介は母を起こさないようできるだけ音を立てないように朝の準備をした。パンをそしゃくするときもゆっくりと静かにしていた。洗顔と歯磨きもあまり水を出さないで母の睡眠のじゃまをしないよう心掛けた。彼は怒っていたが、疲れた母をいたわる気持ちもあったのだ。

 家を出るときもそっと扉を閉めた。鍵を閉める際に少し大きな音がするので母が起きないか心配したが、鍵の音以外母を起こすような大きな音は立てなかったのだからこれくらい許されると思った。

 学校に行く途中も例の場所を通る。朝はあまり時間はないのでゆっくりと耳を傾けることはできない。それでも、その場所を通るときはまた不思議な声が聞こえはしないだろうかと注意しながら、少し速度を落として歩く。しかし不思議な声は聞こえない。登校のときに聞こえたことはなく、聞こえるのはいつも下校の時間でだ。また放課後ここに来よう。そして、不思議な声の正体を見定めよう。そう決意するが、今日は母の仕事が休みなのを思い出した。早く家に帰らないと叱られるだろうか。いや、少しくらい構わない。お母さんだっていつも家に帰るのが遅いじゃないか。優介はそう思った。

 駅の大通りに来ると商店街のことを思い出した。そこにも行ってみたかったが、今優介の興味の対象は川のそばで聞こえる不思議な声なのだ。しばらくこの商店街に行くことはないだろう。行くとしても何かのついでとかで、商店街自体を目的として訪れそうになかった。

 坂道にさしかかると一気にランドセルを背負った子供の数が多くなった。優介がこの坂を上るのは今日で二回目だ。卒業まで一年もないから、この坂を上るのは今年入学した一年生にくらべればわずかな回数だ。卒業までにこの長い坂に愛着を感じる日は来るだろうか。卒業したらこの坂が恋しくなるだろうか。おそらくそれはないだろうと彼は思った。心はあいかわらず福岡に残されたままなのだ。

 昇降口で、始業式の日から優介に話しかけようとしていた少年が上靴に履き替えていた。彼は優介に気がつくと「おはよう」と一言だけ言って教室の方に行ってしまった。優介は自分に言われたのかわからなかった。だから返事はせずにいた。始業式当日は優介だけでなく六年一組の児童全員自己紹介をしたが、優介はクラスメイトの自己紹介を聞いていなかった。優介は転校生なので一番最初に自己紹介をさせられて恥ずかしかったから、他の人の自己紹介に耳を傾けるだけの心の余裕がなかったのだ。朝のあいさつをした少年の名前は聞いているはずだが、優介はどうしても思い出せなかった。わかっているのは同じクラスであまり目立たないが、暗い性格はしておらず先生に質問されたら元気よく答える明るい人物だということくらいだ。

 始業式が終わると翌日から早速授業は五時間目まで行われるようになった。それに合わせて給食も始まっていた。優介は六年一組の最初の給食当番に選ばれていた。給食当番は児童の名前を男女混合で五十音順に並べて十人ずつくらい選ばれる。優介の名字は有野なので、席は前の方になるし、給食当番も一番に選ばれることがよくあるのだ。

 四時間目が終わると給食当番はよく手を洗い、エプロンを着て、口元は布マスクで覆って給食室に食事を取りに行く。優介は一番重くて骨が折れる汁物を担当した。大人一人の力でも階段を上って教室に運ぶのに大変な労力を必要とするので、ましてや小学生一人で運ぶのは不可能だった。だから汁ものは二人で運ぶことになっていた。優介と一緒に組むことになったのは今日の朝、彼にあいさつをした例のクラスメイトだ。

 「せーの」と優介たちは声を出して汁ものが入った大きな鍋を持ち上げた。鍋にはもちろんふたばのせてあったが、すき間から食欲をそそる香りが漏れていた。このとき優介は嬉しくなった。今日の献立はカレーである。

 「今日の朝、気がつかなかった?」

 突然、一緒に重い鍋を運んでいるクラスメイトが優介に話しかけてきた。優介は、やはりあのときは自分にあいさつをしていたのだと気がついた。

 「何のこと?」

 優介は彼が何を言いたいのかわかっていたが、気がついていたのに返事をしなかったと思われたくなかったので知らないふりをした。

 「オレ、昇降口で有野に声をかけたんだよ。おはようって」

 優介は何て答えればいいのかわからなかった。転校してからこんな風に話をしたのは初めてだからだ。優介はわからないなりに少し考えて返事をした。

 「朝は寝ぼけてたから、まさか自分に言われたなんて思わなかったんだ。ごめんよ」

 「そうだったのか。お前はねぼすけなんだな。オレと同じだ。これからよろしくな」

 「うん、よろしく」

 優介は不愛想な返事しかできなかった。まだ心は福岡にあって、目の前の出来事に心で対応できないからだ。それでも、彼は優介に好感を抱いたし、優介の方もこの名前もわからないクラスメイトの優しい態度に心を少し動かされた。給食当番の連中はみんなそれぞれおしゃべりをしながら食事を運んでいる。誰も、優介と彼の間に友情の芽が出たことに気がつかなかった。

 授業がすべて終わり、帰りの会が始まると担任の工藤は来月運動会があることを告知した。桜ケ丘小学校では毎年五月に運動会を開催するのが決まりらしい。それほど暑くもなく寒くもないちょうどいい時期なので、子供の負担にならないという判断があったのだろう。優介はぼんやりと聞いていた。話しかけてくれたクラスメイトのことを考えていたのだ。

 友達が一人もできずに孤独のまま小学校を卒業して、中学校でもそのままずっと一人なのかと不安な気持ちがあった。しかし今は、もしかしたら彼が友達になってくれるのかもしれないと希望を抱いていてた。彼が友達になってくれたら、転校を受け入れることができて、この新しい町で生きていこうと決意できそうな気がしていた。

 優介はこう考えた。

 「僕は一人じゃない。お母さんがいる。でも学校では一人だ。一人で学校生活を送るのは寂しい。毎日昼休みに図書館で過ごすのもいつかは飽きるかもしれない。あの川にも行かなくなると思う。あそこは冬は寒そうだ。そうしたら、放課後や休みの日はどこで遊ぼう。一緒に遊ぶ友達はいないし遊ぶ場所も知らない。でも、もしあの人が友達になってくれたら」

 この日も優介は一人で家に帰った。彼と友達になりたい気持ちはあったが、一緒に帰ろうとは言えなかった。まだそこまでの関係に発展していないと考えたからだ。名前もまだ覚えていない。まずはあいさつから始めよう。一緒に下校するのはそれからでも遅くない。

 優介は今日も小川を訪れた。不思議な声を聞こうと思ったのだ。しかし、今日はいくら待っても聞こえてこない。今日は不思議な声もお休みをしているのだと自分を納得させて、彼は家に帰った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る