第3話

チョロチョロと一定の間隔、音の高さをした川のせせらぎが聞こえた。優介はこの音のおかげでいくらか、新しい学校で緊張して疲れた心が癒された。彼は数分じっとしていった。すると、チョロチョロという音だけじゃなくて、人の話し声も聞こえてきた。

 「今年も春がやってきたね」

 「そうだね。まだ水は冷たいけど、冬が過ぎて、花も咲き始めたから僕は嬉しいよ」

 優介は誰かが川に遊びに来たのではないかと思って、あたりを見渡すが誰もいなかった。話し声はまだ聞こえてくる。

 「春が来たな。またやってくる冬に備えて働くんだ」

 「今年も家族が増えるから頑張ってね」

 優介は不思議に思った。何度周囲を見渡しても人っ子一人いないのだ。誰もいないのに話声が聞こえて彼は怖くなった。幽霊か何かの話し声を自分は聞いてしまったのだと彼は思ったのだ。人は死んだら三途の川を渡るという。川つながりで、この小川も幽霊の通り道で、そこに近づきすぎてしまったから幽霊の声が聞こえたのだろうか。優介は急いでその場から立ち去った。そして自宅マンションまで走った。後ろを振り返らずに、あやしい話し声が耳に入っても相手にしないでとにかく走った。

 家に帰ると少年は、四月に入ったばかりだというのに大汗をかいていた。ちょうどお昼だったのでおなかも空いていた。しかし、自宅に母はいなかったので昼食を作ってくれる人は誰もいないし、シャワーを浴びて汗を流してくるように言ってくれる人もいなかった。リビングのテーブルにはメモが残されていた。「お昼は食パンを焼いて食べね。帰りは遅くなるから昨日のカレーを温めて食べて。ご飯は夕方炊けるように設定してあるよ」と汚いが一応何とか子供にも読める丁寧さで書かれていた。

 昨日は始業式に備えて母はカレーを作ってくれていたのだ。カレーを食べて、新しい学校の始業式に行く勇気が出るようにと。また、母は今日から仕事が始まったので、自分を励ますためでもあったのだろう。優介はシャワーを浴びずに、食パンを二枚焼いていちごジャムをつけて食べた。そしてテレビを見たり明日の学校の準備をしたりして母の帰りを待った。

 これまで家に帰ると必ず母がいた。家に誰もいないということはほとんどなかった。だから優介が家の鍵を持ち歩くようになったのも初めてのことだ。彼は母が結婚前までは働いていたという話をいつか聞いたことはあったが、実際に働いている母は見たことがない。母にとっては久しぶりの労働であったが、ここは母の故郷でもある。見知らぬ土地ではない。きっとこの町も働く母を励ましてくれるだろう。

 優介はいつの間にか居眠りをしていた。リビングでドラマの再放送を見ていたらまぶたが重くなって、まどろんでしまったようだ。もうすでに日は落ち始めていて窓からは西日が差し込んでいる。母は遅くなるから先に食べているようにとメモを残していたが優介はもう少し母の帰りを待つことにした。

 日は落ちて町は街灯や月の明かりで照らされている。駅には仕事が終わって家に急いでいる人や同僚とどこかに食事に向かっている人で賑わっている。町には子供の姿はない。夜の子供は皆家でおとなしくしている。一部の子供は塾や習い事で帰りが遅くなるが、用事が終わるとまっすぐ家に帰る。優介も家にいた。ただ、ほかの子供と違うのは一人ぼっちだということだ。もう夕食を食べ始めてもおかしくない時間になっても母は帰ってきそうにない。

 優介は待つことに疲れて、カレーを温め始めた。数時間前に炊けたご飯を大きい器に盛りつけて、そこにカレーを流し込んだ。空腹だった優介は流し込むようにカレーを食べた。三杯もおかわりをした。母が食べられるだけのカレーとご飯を残して優介は風呂に入った。浴槽に自分でお湯をためるのも初めてだった。昨日までは母が家にいたのでただお湯がたまるのを待てばよかった。しかし、今日からは待ってばかりいられず自分から動く必要があるのだ。

 入浴後はいつものように牛乳を飲んだ。ちょうどこの一杯でなくなってしまってので、母が帰ったら明日買ってきてもらうよう頼もうと思った。優介は歯を磨くと自室のベッドの上に横になった。もう時計の針は午後九時を指していた。いつもこの時間に優介は寝ている。しかし今日はなかなか寝つけず何度も寝がえりをうったりトイレに行ったりした。午後十時になって母は帰ってきた。そのときには彼はもう夢の中にいた。

 母は酒を飲みながらカレーを食べていた。寝ている優介に気をつかってテレビもつけず静かに食べている。時折ひとり言を言うこともあった。

 「カレー残しておかなくてもよかったのに」

 母はスーパーで買ってきた総菜を食べるつもりだったのだろう。優介には好物のカレーを食べさせて自分は適当に食べてすませるはずだった。しかし思いもよらず優介がカレーとご飯を一人分残してくれていたので、総菜は冷蔵庫に入れられてしまった。

 翌朝優介は目覚まし時計の耳障りな音で目を覚ました。リビングに行くと母はいなかった。母はいつもリビングで寝ている。テーブルを壁に寄せて、布団を床に敷いて寝床をつくっている。もう布団は押し入れに片付けられてテーブルも元の位置に戻されていたので、母はもうこの家からいないことは明らかだった。

 これまでは、朝起きたら母は朝食の準備をしているのがほとんどだった。そしておはようとあいさつを交わすのが日常だった。しかし、それは始業式よりも前の話だ。母の仕事が何なのか優介は知らないし、聞こうとも思っていなかった。ただ、朝早くて帰りが遅い仕事とは何だろと考える程度だった。

 テーブルの上にはメモが残されていた。朝ご飯と夜ご飯はあるものを食べてと優介の食事についての指示が書かれていた。優介はとりあえず今日の朝食に食パンを食べることにした。朝にパンを食べるのは昔からの習慣だった。母は食パンをきらさないように気をつけて買い物をしていたのだ。優介は冷蔵庫のなかからいちごジャムを取り出した。そのときに、冷蔵庫の手前のほうに半額のシールが貼られている総菜を見つけた。

 炊飯器は優介がいつも夕食を食べている時間に設定されていたので、主食の心配はなかった。優介は心の中で、忙しい朝に米を研いでくれたことと、おかずを準備してくれていたことに感謝した。ただし、この感謝の気持ちはこのときだけのもので、またすぐに無理やり転校させられたことに対する怒りがわいてきた。

 優介はスプーンでジャムをすくって焼いてもいない食パンに塗ってかぶりついた。そして麦茶をコップ一杯飲んで、洗顔や歯磨きをして身だしなみを整え終えるとランドセルを背負って家を出た。

 階段を降り始めたところで、優介は鍵を閉め忘れたことに気がついた。急いで自分の部屋に置いてある鍵を取りに行った。再び家を出るときは鍵を閉めて、念入りに鍵がかかっているのか確認して、安心してから学校に向かった。

 その日も優介は自分からクラスメイトに話しかけなかった。人と会話をするのは先生に授業中質問をされたときや昼休みに同じクラスの男子から、運動場でドッジボールをしないかと誘われたときに返事をしたくらいだ。授業の合間の休憩時間の彼は、トイレに行くとき以外をずっと椅子に座っている。すぐそばに扉があったので、頻繁に人が目の前を横切っていた。優介はそれが不快だった。昼休みは静かな図書館で一人黙々と本を読んで過ごしていた。

 クラスメイトの何人かは気をつかって優介に声をかけたり遊びに誘ったりしているのだが、優介自身がそれを頑なに拒んでいる。今は人からの優しやを受け取る気持ちになれないのだ。まだ心のなかには福岡の小学校の友達がいて、彼らと話したくて、遊びたくてしかたがなかった。だから新しい学校の人と親しくなろうとは思えなかったのだ。

 始業式の日に優介に話しかけようとして話しかけられなかった一人の男子は、今日も彼に話しかけたそうな様子をしていた。授業の合間に優介の席まで来て何か声をかけようとするが声にならず、そのまま廊下のほうまで行ってしまった。また、掃除の時間には机を運びながら優介に話しかけるタイミングを見計らっていたが、結局話すことなく掃除の時間は終わってしまった。

 優介はこのクラスメイトのことに気がついていなかった。今は周りに気を配るだけの余裕がないのだ。自分の内面を見つめて過ごしている優介は、心はまだ福岡にあって、体だけ桜ケ丘小学校に転校してしまっていた。

 放課後になると校内はにぎやかになる。いたるところで子供の元気のいい声が聞こえる。廊下を走って昇降口まで急ぐ男子や、大きな声でおしゃべりをしながらゆっくり歩いている女子に紛れて優介は静かに家を目指していた。放課後になるとみんな気分が高揚して、授業中先生に質問されたときにまともに答えられない物静かな人までもが明るくなって友達と楽しそうにこれからの予定を話している。この景色は福岡の学校でもよく見ていた。優介は、どこの学校でも放課後になるとみんな生き返ったみたいに元気になるものなんだと思った。

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