第2話

 春の暖かさが町に広がったころに始業式が行われた。この町の小学校に植えられた桜は満開だ。時折春風に吹かれて桜の花びらは地面にひらひらと落ちていく。少年は緩やかな長い坂を一人で歩いた。周りには自分と同じように小学校を目指して歩いている子供ばかりいる。そのほとんどはと話をしたりふざけあったりして楽しそうにしている。少年は学校まで迷わずに行くのに自信がなかった。まだ下見をしていなかったのだ。商店街まで出るとランドセルを背負った子供がちらほら見えてきたので、その子たちのあとについて行ったら何とか目的の小学校が見えてきた。

 校門のわきには桜ケ丘小学校と記されている。田舎町の小学校だが少年が通っていた都会の小学校と敷地面積はほとんど変わらない。運動場からの景色は桜ケ丘小学校のほうがよさそうだ。小高い場所にあるので天気がいい日には海が見える。都会にいたころの小学校は周りが家ばかりだったから運動場にいても閉鎖的で息苦しかった。だからなおさら新しい運動場を少年は気に入った。

 少年は六年一組に振り分けられたことを母から聞いていた。六年一組の下足箱の一角にはちゃんと少年の名前のシールが貼られていて、少年が桜ケ丘小学校でこれから学んでいくことをきちんと証明して炊いた。

 下足箱の場所はわかったものの六年一組の教室がどこにあるのかわからなかった。そこで、偶然六年一組の下足箱にいた男子児童のあとをつけることにした。面と向かって場所を尋ねる勇気はなかった。教室は二階にあった。下足箱のそばに階段があって、階段を上ると右手側にはトイレ、左手側には廊下が続いていた。少年の教室は階段に一番近い場所にあった。

 教室のなかは騒がしかった。五年生のときから引き続き同じクラスになったので手を取りあって喜んでいる女子や、早速友達をつくってからかいあっている男子がいた。少年はまずは自分の席を探した。黒板に座席表が貼られていたので、少年は座席表を確認しているクラスメイトのなかに入って自分の名前をさがした。

 有野優介。新学年の最初の座席は大体五十音順に決められる。少年は毎年のように廊下側で一番前の席から新学年のスタートをきっていた。今年も例にもれず廊下側の一番前のせきだ。まだクラスメイトは優介のことを転校生だと気がついていないのだろう。一人を除いては優介に話しかけようとするクラスメイトはいなかった。

 優介は自分の席に座って担任が来るのを待った。彼は自分から友達をつくるような性格ではないし、転校したばかりなので新しい環境にもまだ慣れず、その場にいるだけで息が止まりそうなのだ。

 そうこうしているうちに六年一組の担任の教師はやって来た。扉を開けると「早く席に着きなさい」と早速児童を軽く叱った。女の教師だった。見た目は若く新人だと言われても不思議ではないが、先程の児童を席に着かせる様子はこれまでかなりの経験を積んできたと思わせる。

 「おはようございます。私は今日から六年一組の担任をすることになりました。工藤純子です。一年間よろしくね」

 担任の工藤は児童一同に大きな声でゆっくりと自己紹介をした。児童たちはそろわない声でよろしくお願いしますと返事をした。何も言わない物静かな女子もいたし、構わず後ろの仲間と話している男子がいた。工藤は「静かに」と再び大きな声を出して騒いでいる男子を黙らせた。

 「実は今日からほかの学校から転校してきたお友達が一人います。みなさんも気づいているとは思いますが、有野優介くんです。有野くんにはまたあとで自己紹介をお願いしますね。みなさん仲良くしましょう」

 児童たちは「転校生来てるの?」「どこにいるの?今年もなんだ」などそれぞれ思ったことを近くの友達と話していた。優介はクラスメイト全員が自分に注目していることと、自己紹介をすることが恥ずかしくて、そのときのことを想像すると緊張して汗が出てきた。

 工藤はこれから行われる始業式に遅れないように出席するために、児童を廊下に五十音順に整列させた。全員そろったことを確認すると優介を先頭にして始業式が行われる体育館に向かった。

 全校生徒と教師全員が一堂に会する始業式は滞りなく行われた。体育館のなかは寒く、床は冷えていた。何もしないで座っていると寒さに体温が奪われてしまう。もう春だというのに体育館のなかは春に置いて行かれたかのようだ。ほとんどの児童は床に座っているときに丸めた膝に身体を密着させている。

 始業式の終わりに児童は立ち上がって校歌を歌った。長い時間座っていたのでふらついて近くの友達に支えられる人もいた。優介はそのときに桜ケ丘小学校の校歌を初めて聞いた。校歌を歌う機会はそんなに多くない。卒業式までに歌えるようになるだろうかと彼は思った。無理をして歌おうとせず、体育館に響くピアノの音や新しいクラスメイトの歌声に耳を澄ましていた。

 始業式が終わり教室に戻ると工藤は改めてあいさつをした。

 「これで始業式が終わって、明日からは本格的に授業が始まります。今日はこのあと掃除をしたら解散だけど、その前に転校生に自己紹介をお願いしようかな」

 工藤は体育館から教室に戻る途中、優介を呼び止めて自己紹介ができそうかと確認していた。優介は人前で何かを話すことが苦手だ。それに、友達や先生にさよならが言えないまま転校してきたので、気分が沈んでいて自己紹介をする気になれなかった。しかし、今自己紹介をしておかないと、これから学校生活を送るなかで自己紹介をする機会に恵まれるかわからないし、いじめの対象になるかもしれないと考えたので、優介は渋々自己紹介をする気になっていた。

 「福岡の小学校から転校してきました。有野優介です。好きな食べ物はカレーです。よろしくお願いします」

 優介がなぜ自分の好物を言ったかというと、福岡の小学校にいたころに優介と同じように転校生がやって来て、自分の好きな食べ物を紹介していたからだ。優介は自分の名前以外に何を言っていいのかわからなかったので、その転校生の真似をしたのだ。

 クラスメイトの反応はよかった。拍手をする人や「よろしく」と歓迎する人がいた。優介は自分が桜ケ丘小学校六年一組に受け入れられたような気がして少し安心した。しかし、慣れ合ったり、親しくなったりしようとは思わなかった。

 明日からは授業が始まる。春休みの間使われなかった教室はところどころほこりをかぶっている。六年一組の児童たちは気持ちよく新学期を始めるために教室や廊下の掃除を行った。優介は教室の箒係を割り当てられた。教室の前から後ろにほこりやちりを掃いていく。そのあとにぞうきん係が教室の端から端まで一往復か二往復床をぞうきんで磨き上げる。

 自分から進んで熱心に掃除をしていた人はいなかった。担任の工藤に指示をされたから仕方なくしている。優介もそうだ。ぞうきん係に比べたら箒係の仕事は楽な方なのだが、それでもやる気がなかった。自分の仕事が終わると、ぞうきんがけをしている人や、窓をぬらした新聞紙で拭いている人を眺めていた。そんな優介に話しかけたそうにしている男子が一人いたが、彼はとうとう話しかけなかった。

 優介は一人で下校した。掃除が終わると工藤が簡単な連絡事項を黒板に板書して、それを児童たちは書き写した。それから工藤は、明日から新学期が始まるから頑張ろうと励ましたり今日はもう学校はおしまいだけど羽目を外し過ぎないようにと児童を注意したりした。

 児童たちは早く家に帰って友達と遊びたくてそわそわしていたが、工藤の話が長くなると嫌なので、できるだけ素直なふりをしていた。彼らの努力は実って工藤の話は早く終わった。六学年のなかで一組がいち早くさよならのあいさつをして、十一時には優介は校門をあとにしていた。

 帰り道は楽だった。行きは長い登坂を上ったのだが、帰りは下りなので足の負担が少ないように感じだ。身体的負担は軽減されたのだ。それと同時に爽快感も若干なくなったような気がした。確かに坂を上るのはきつい。一歩踏み出すたびに足に疲労がたまっていく。しかし、前にどんどん進むと素晴らしい景色が坂を上っている人を迎えてくれる。登校時、優介は長い坂を上りきったあと達成感を感じた。彼の新しい町を一望することができたからだ。転校が不本意だとは言っても、早朝の町並を高い場所から見下ろすのはとても快かった。

 優介はゆっくりと歩いた。急ぐ必要がないのだ。門限は決められていなかったし、この日は午前中に学校が終わっていたからだ。彼は歩きながら新しい町を見物した。すると登校のときには気がつかなかったいろいろなことに気がついた。

 自宅から学校に行くには新幹線も停まる大きな駅に面している大通りを通らなければいけない。その大通りからそれたところに商店街があったのだ。転校する前に住んでいた福岡にも商店街はもちろんあったし行ったこともあったのだが、新しい町の商店街はそれとは雰囲気が違った。こじんまりとしていて、狭い。その狭い通路にいくつもの店がところせましと並んでいる。魚屋、八百屋、弁当屋。どの店も店主が大きな声で客を呼び込んでいる。その元気のいい声に引き寄せられて主婦がいろんな品物を買い求めている。彼は、古いが元気のいいこの町の商店街に興味を持ったが、この日は初登校で緊張した糸が切れて疲れていたのでまっすぐ自宅に帰ることにした。

 駅から離れた優介の家の周囲はどこか懐かしい田舎町の雰囲気が濃い。巨木に囲まれた古い神社や田畑、小川の流れがある。春には農家が畑に種を植え、田に稲の苗を植える。小川には小魚を求めて水鳥が一年中訪れている。夏には子供も小川を訪れて魚を捕ったり、裸足でバシャバシャと音を立てて歩いて冷たい水で涼んだりしている。その小川は大雨が降らない限り子供のくるぶしほどの深さなので子供は安心して遊べる。

 このように優介は自然のなかで遊ぶ環境が整っているし、少し歩けばこの町の中心地で都会っ子みたいにゲームセンターや映画館に行くこともできる。自然と文明の両方を楽しめるところに住んでいる点では彼は幸福であった。その幸福をまだ自覚していないのだが。

 優介は川のせせらぎに耳を澄ませて歩いていた。小川までくれば彼の家はあと少しだ。穏やかの川のせせらぎは眺めているだけで人の心を癒す。海を見ていると自分の抱えている悩みが小さなことに思えて気持ちが楽になるのと似ている。優介は、途中少しだけ寄り道をしようと思って川のそばまで近づいた。ベンチがあったのだが川から少し離れたところにあったので、彼はベンチに座らず川のそばでしゃがみこんだ。そして川が奏でる音に耳を澄ました。

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