不思議な声

紫河畔

第1話

 寒さがまだ残る三月のある日、少年は車に揺られながら不安な気持ちで窓の外を眺めていた。少年が不安なのはこれから住む町が自分にとって住みやすいところなのか、学校ではうまくやっていけるだろうかということだ。車を運転している母は、このあたりの道に詳しいかのように少しも迷うことなく車を走らせている。少年も少しはこの町のことは知っている。しかし、知っているのは祖母が住んでいる小さな一軒家から近くのスーパーまでの道のりくらいで、それ以上はまだ知らない。今自分が眺めている景色は、去年まで毎年、お盆とお正月にも見ていた。お盆の時期には、町を歩く人はみんな半袖で、太陽の暑さを遮るように手や傘で日陰をつくっている。お正月は、寒そうに身体を縮めて、白い息を吐きながらどこかに向かって急いでいる。少年はこの町の様子について、お盆とお正月のときしか知らない。三月にこの町に来るのは初めてだ。だから少年は、三月のこの町の顔はどんなものだろうかとよく見ていた。

 信号が赤に変わってしばらく足止めとなったとき、母は少年に「今日からここに住むのよ。ほら、あそこに小学校が見えるでしょ」と言って、左のほうを指さした。

 「四月からあの小学校に通うのよ。よく場所を覚えておきなさいね」

 少年は返事をせず、母の指さす方向を目で追った。小学校は少し小高い土地にあって、周りは家が軒を連ねている。あのなかの一つの家に住めたら通学が楽だろうと少年は思った。そうだ、これから住む家のことをまったく聞かされていなかったと少年は気づいて母に尋ねた。

 「おばあちゃんの家に住むの?」

 「おばあちゃんと一緒に住めるわけないじゃない。マンションよ。安いとこだからきれいじゃないけど、ちゃんとあんたの部屋もあるんだから我慢しなさい」

 信号が青に変わって前の車が走り出すと母もそれに従った。春休みに入った日、母が突然「おばあちゃんの町にこれから住むからね。転校するのよ。大きな荷物は引っ越し屋さんにもう頼んであるから、あんたもいるものは準備しておきなさい」と少年に言い放ったのだ。少年は急に嘘みたいなことを言われたので最初は信じなかった。「なんの冗談なの?」と笑いながら相手にしなかったが、母は無表情でそれ以上何も話さないでどこかに行ってしまった。母の様子から冗談ではないと少年はわかって、絶望した。友達や先生と別れの言葉を交わすことなくこの町を離れなければならないからだ。その日から少年がもともと持っていた明るさは影を潜めた。

 そういえば、と母は何かを思い出したように、前方に注意しながらつぶやいた。

「この町には古い神社があるわ。誰も管理してないから散らかっているけど。そこに大きな木が生えてるのよ。あんたも暇なとき見に行くといいわ。私が子供の頃、そこでよく遊んでたのよ」

少年は興味がなさそうに「暇ならね」と一言だけ返事をした。母とは話したくなかったが、無視をつらぬいて叱られるのも嫌だった。また、神社にも木にも本当に興味がわかなかったので、絶対に行くもんかと心のなかでつぶやいた。

 車のなかは沈黙に支配されていた。ラジオもつけていない。車内に響くのはウインカーやエンジンの音のみだ。少年がうとうと居眠りをしそうになったとき、乱暴なブレーキが少年を揺さぶり起こした。やっとマンションに到着した。車はマンションの敷地内にある駐車場に停められていた。「ほら、早くしなさい」と母に促されて、少年はランドセルと手提げのカバンを大事そうに抱えて車から降りた。

マンションの外観は、母が言ったようにきれいではないが、今にも崩れそうなほどボロボロというわけでもなかった。三階建てで、ベランダは西側に面していたから夕方になると直射日光が部屋を照らして暑そうだ。少年は、ランドセルを背負い、手提げカバンの持ち手を両手でつかんで先に行った母のあとを追った。

 少年の新しい家は三階にあった。生まれてからずっと一軒家に住んでいた少年にとって、マンションに住むのも、一軒家の二階部分よりも高い場所に住むのも初めてのことだった。自宅から数歩隣には誰か見知らぬ人が生活していることも新鮮で、隣には一体どんな人が住んでいるのだろうかと思った。母は新居に入ると、冷蔵庫やテレビの位置を確認したり、今日持ってきた貴重品や化粧品を整理したりしていた。新しい家に引っ越したらまずは近所の人にあいさつをするものだと少年は常識としていたが、一向に母は家から出ようとしない。だからと言って母に近所の人にあいさつに行こうと言ったら、子供のくせにえらそうにとか言われそうな気がしたので、少年は黙って自分の部屋に行った。結局、少年一家は近所の顔も知ることなく新生活を始めようとしていた。

新居は二部屋あった。一つはリビングと母の部屋を兼ねている一番広い部屋だ。一番広いと言っても六畳ほどしかない。もう一つは少年の部屋だ。こちらは四畳しかなく、勉強机とベッドを置いたらこれ以上家具を増やすことは難しい。母は持ち物が少ないのでリビングのタンスの一番上の段にすべてがおさまった。母はもともとアクセサリーや衣類をたくさん持っていた。しかし、新居を手狭にしないために引っ越し前にほとんどを処分してしまっていた。

少年はランドセルを勉強机のそばに置いた。そして手提げカバンのなかから薄いアルバムを取り出した。まだ小学校は卒業していないので、卒業アルバムではなく、これまでの思い出の写真を個人的にまとめているアルバムだ。少年はそっと開いた。写真の一枚一枚を感慨深そうに眺めた。笑顔で友達とピースサインをしている自分が写っていた。ページをめくるたびに少年の目からは何かがこみあげてきた。一番最後の写真は、去年の社会科見学の写真だった。担任の先生や友達と自分が写っている。少年はそれ以上写真を見るのはやめて、アルバムを閉じた。アルバムはまだ写真を入れるスペースはあったが、もうこれ以上写真が増えることはないだろうと少年は思って、勉強机の引き出しの奥の方にしまった。

 思い出に少しの間浸ったあと、少年は部屋に置かれている段ボール箱の中身を整理した。段ボール箱には新しいノートや漫画が几帳面に入れられていた。少年は、新しい学校で使うノートを大事そうに机に備え付けられている本棚に並べた。漫画はあまり目立たないように表紙を下にしてノートと同じ本棚に置いた。漫画は立てかけたノートが倒れないようにするためのブックエンドを兼ねていた。

 少年はあらかた荷物の整理を終えた。長い時間車に乗っていたこともあって少し疲れていた。少年はベッドの上に横になって目を閉じた。少し眠ろうと思った。しかし、食欲を刺激する香りがキッチンから漂ってきて少年の眠気はどこかに去ってしまった。少年が立ち上がったとき、「ごはんよ」と母の疲れた声がリビングの方から聞こえた。

 二人はリビングで向かい合ってカレーを食べていた。こたつテーブルは引っ越しのついでに新しく購入したばかりだったので傷一つない新品だった。引っ越し前に使っていたテーブルは少年が幼稚園の頃に油性ペンでいたずら書きしたあとが薄く残っていたり、アニメのキャラクターのシールが脚に貼られたりしていた。母は、新しいテーブルに満足していたが、少年はなんだか寂しい気持ちになった。食事のテーブルが新しくなってうれしくもあったのだが、これまで食事のたびに見ていた自分のいたずらの痕跡が新しいテーブルにはなくて、今までの思い出がなかったことにされたような気がしたのだ。

 母はすぐに食べ終わり「先にお風呂に入ってるわね。あんたも早く入りなさいよ」と言って食器を洗い終えると、すぐに浴室に行った。少年はカレーが好物だったので喜んで食べた。少年一家は全員カレーが好きだった。母の作ったカレーは特に二日目がおいしくて、少年は父と残ったカレーを取り合っていた。少年と父は何度もおかわりをするので、母が多めにカレーを作っても二日目の朝にはなくなっていた。今日の母もいつもと同じ量のカレーを作ったが、おかわりをするのは少年だけだった。

 少年も食器を洗ってから入浴した。湯船に浸かりながらこれからの生活を子供なりに考えた。新しい家に来る前、これからはお父さんとは別々に暮らすのよと母に言われていたので、少年はまず第一にお金のことが心配だった。今まではお父さんが働いてたから僕は学校に行けたしごはんも食べられた。でも、今はもうお父さんは一緒に住んでいない。だからこれから食べていけなくなるんじゃないか。そう考えて、少年は温かい湯船のなかで暗くて冷めた気分になった。

 いや、大丈夫だ。おばあちゃんがいるじゃないか。困ったときはおばあちゃんに頼ればいい。この町には口うるさいが面倒見のいい祖母が住んでいることを少年は思い出した。この町には僕とお母さんのふたりぼっちじゃないぞ、おばあちゃんが助けてくれる。お母さんもそのうち働きに出るだろうと少年は思った。明日からも食べていけるとわかってやっと少年は心まで温まることができた。明日の朝はカレーの残りがある。

 少年は入浴後、冷蔵庫で冷やしてあった牛乳を飲んだ。母が気を利かせて買っておいてくれたのだろう。入浴後に牛乳を飲むのは少年の習慣だった。リビングには日が差していてまぶしかった。太陽が傾き始めていた。少年たちが新居に到着したときはまだ昼の三時頃だった。地球のどこにいても日は落ちて、落ちたかと思えばまた昇る。どこにいても時は同じように流れる。楽しいことをしていたら時間はすぐにたつし、逆に嫌なことをしているときはなかなか時間がたたない。少年は不思議に思った。いつもと同じようにお風呂から上がって牛乳を飲んだ。いつもと同じことをしたのだ。しかし、父のいない新しい家で飲む牛乳は、今までのものとは全くの別物のような気がした。また、今自分が過ごしている時間も、父と一緒に生活していた時間とは切り離された別の時間を生きているのではないかと思った。

 「今僕がいるこの世界は何だろう。お父さんは僕がいる世界にいるのかな」

 少年は心のなかでつぶやいた。

 三月中、少年は荷物の整理や部屋の掃除を手伝った。母はまだ働きに出ていない。少年は心配になって母に仕事のことを尋ねたことがあったが、母は子供に心配されたことに腹が立って「仕事は来月からするから」と怒鳴った。それからは少年は仕事のことを母に聞くことをやめた。仕事を始めることがわかっただけで十分なので、それ以上母を怒らせるようなことはやめた。少年は少なくても一週間に一回は祖母の家に遊びに行った。祖母と一緒に庭に植えている花の世話をしたり、テレビを見たりして過ごしていた。祖母は一人暮らしなので、孫が近くに引っ越してくれたことも遊びに来てくれることも大変喜んだ。

 少年は祖母の家までの道がわからなかった。だから最初は母に祖母の家までの道案内を頼んだ。少年は教えられた道をすっかり覚えてしまって、二回目からは一人で迷わずに行けるようになっていた。

 少年は始業式までの間、祖母の家で手伝いをするか自宅でテレビを見て過ごしていた。母は外に遊びに連れて行ってくれなかったし、一緒に遊ぶ友達もいなかったのだ。一か月間同じことの繰り返しで退屈だった。退屈なときも時間がたつのが遅いものだ。それでも、確実に時は流れて前に進んでいる。少年は新しい学校での始業式を迎えた。

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