偶然と必然
季節は梅雨。春と夏の間を彩る湿気と幸せの月。
幸せにも種類がある誰も望まない幸せだってある。誰もが望む幸せなんて存在しない。
人は他人と比較してやっと幸せと言う名の優越感を感じる事ができる。個々人で幸せなんて感じられるほど人間の欲求は清らかじゃない。
一方の人間が幸せになればもう一方、もしくはその他大勢が不幸になるなんて珍しくもない。古来から、人間は醜い争いを経て自分の望む物を得て来た。それは恋においても同様なのだ。自身が他の誰かよりも優れている部分を有効に使って好きな人を振り向かせる。競い合い、奪い合う。残念なことにそれが現実だ。
そうやって勝ち取る幸せもある。けれど、この幸せは誰も喜ばない。
人生なんてそんなもんだろう、なんて俺なんかが言ってもしょうがない。ここの生徒と差して年齢も変わらない。それでも知識量はきっと優れている。
『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』
かの有名な喜劇王チャールズ・チャップリンの言葉だ。
彼女の人生は長い。平均年齢的にも多分俺なんかよりも十年は長く生きる。十年一昔と言うのだから俺より彼女は一昔も長生きするのだ。ならば今悲劇でもきっといつか喜劇に変わってくれる。
––そんな日が来るといいな。
「さぁ、話を聴こうか。大切な……」
彼女は何かを悟ったように顔を下に向けて震えている。それでも何度か深呼吸をして彼女は逃げずに顔を上げた。
きっと今、何か冷たい言葉の一つでも囁けば彼女を支える何かは折れて、今からのこの時間の後に悲嘆する事もないだろう。
でも、そんな事は言えなかった。彼女が泣きそうな顔を俺に向けていて俺はその顔を見つめる。何度も見てきた彼女の見た事のない表情。そしてその口が開くのをじっと待っていた。
小刻みに行う小さな呼吸も、力を込めて目一杯握るその小さな拳も、儚くて寂しい青春の一ページ。そんな薄っぺらな思い出になってくれた方がいい。失敗や成功と一緒に笑える話になってくれたらこれは成功だ。明確に目指す場所は分かっている。それでもそんな俺の望む展開に今からの時間がなる気がしなかった。
彼女の呼吸は次第に落ち着きを見せ、約束が果たされる時間がやってくる。長くて辛いこの時間が始まろうとしている。
「先生好きです。先生が望む女性になります。だから、だから……。
こんな私ですが、付き合ってください。しあ、わせに、幸せにしますから」
始まった。今まで幾度となく断ってきた告白。それらのどれとも違う。どうしてかなんて分からない。いや、分かっている。深く関わり過ぎた。
だから今まで共に過ごした時間が作用している事も理解している。だからせめて冷たく切り離すように断る。嫌われ役になれているし、相手は悲しみよりも怒りに溺れる。だから今も昔も変わらず、冷たい言葉を返す。悲しみの連鎖を生まない為に俺が避雷針になる。それが俺にできる事だから。
「ごめん。その気持ちには答えられない。そもそも俺は教師だ。生徒の小倉と付き合う事は立場的にありえない。だからもう––」
冷たく突き放す予定の言葉には全く冷気が感じられず、それどころか言葉のキレもない。そんな中途半端な言葉は呆気なく小倉に遮られた。
「じゃあ、高校を卒業したら、付き合ってくれるんですか? それとも今ここで私がこの学校をやめればいいですか?
答えてください」
当然の反論。生徒と教師。その関係でなくなれば、この断りは意味を成さない。だから、言葉に詰まりながらも答えた。
「俺は生徒の時、お前と同じ事をした。当時保健室に勤めていた養護教諭の先生に言い寄った。成功もしたし、幸せだった。きっとあれが人生において初めての恋人だった。
でもそれは、最悪の形で終わりを告げた。
当時の俺は子供だったから軽はずみだったのだと思う。色々な事があって現実逃避気味だった俺は仕事で優しくしてくれたあの人をすぐに好きになった。教師の先生の家なんかに行って色んな事もして、充実もしていた。所詮は俺だけは……だったんだけどな。
あの人は違うことに気付きもしなかった。あの人は俺の前では無理やり笑って楽しく見せていた。子供もいて、その子供も可愛くて、多分順当に育っていたらお前くらいだよ、小倉。
教師が生徒を誑かした。きっと現実はそうなる。事実がどうであれ、職業倫理を犯したあの人と責任を取れない未成年の俺では立場が違いすぎる。あの人はそんな重荷に耐えられなかったのだろう。
だから突然俺の前から姿を消した。大学を卒業してその先生の後を追って海外の医療チームに無償で行って、そんな時だった。日本からの国際電話がかかって来た。内容は今でも覚えている。
先生が死んだのだよ。
しばらくは荒れていた。丁寧が売りだった日本人にとって、それは痛手だった。中南米の患者を救えないなんて日もあった。そんな精神状態で何もできない事を理由に逃げるように日本に帰った。
貯金を使いまくり、気を紛らわすように酒とギャンブルに現を抜かしていた。
そんな生活も貯金が尽きて出来なくなった。何もする気は起きず、途方に暮れていた時にある人が救いの手を差し伸べてくれた。その人のおかげで今こうしてここに居る。最初はやる気なんて無かったのに生徒と少ない関わりを持っていくうちに楽しくなっていた、愛着を抱いていた。お前もその一人だ。
だから分かって欲しいとは言わない。でもそれが今の答えなのだ。多分俺は今年中にこの職を辞める。
あの人の事を忘れないと俺は進めない。そんな戒めを感じているから今は養護教諭としてここに居座り続けている、変われないでいる。だから養護教諭の東雲翼からの答えじゃ満足できないなら待ってくれ。
世界の何処に居たって見つけて説得してみせるから」
幻滅されただろうか、嫌われただろうか。話す予定のない事まで話してしまった上に、覚悟していたこの決意さえ揺らいでしまう。全くもって情けない人間だ。
それでも違う覚悟は、決意はできた。あの人の事を忘れて彼女らの好意答える。今まで散々避けて逃げてきた。だから世界中から探し出すくらいはする覚悟だ。その決意が今更ながら固まった。
「いいですよ。待ちます。絶対見つけて下さいよ! 絶対に、絶対にですよ!」
「あぁ、絶対の絶対に、だ。だから次出す答えには頷いて欲しい」
頷いて欲しいなんて言い訳だ。自己満足だ。でも今ここでそれを承諾してくれれば頑張れる。そんな気がした。
そして俺は知っている。そういう時の彼女は俺の求める答えをくれるのだという事を……。
「全くしょうがないですね。先生の言葉なら何でも信じますよ。
でも一つだけ言いたいことがあります。先生はその保健室の先生と過ごした時間は嫌でしたか?」
予想通りで予想外。それが俺の知っている小倉玲奈という生徒だ。
だから本心で答えることができる。
「そんな筈ないだろう。幸せだったよ」
「そうですか……」
彼女の顔が今一度下を向く。そして涙ぐみながら言葉を続けた。
「じゃあ忘れないでください。先生が母と過ごした日々を幸せと言い切れるその思い出を。きっと母も私と同意見の筈ですから」
相変わらず俺は何にも知らない様だ。知っているつもりで、分かっているつもりで、それが積もり積もって今に至っているのだ。何も成長を感じさせずに、こうして目を丸くする。
本当に簡単で少し考えればわかるだろう。あの人の名前は田中愛美。旧姓は確か小倉だった……。
「ふはははは」
「どうしちゃったの先生?」
「いや、どうしてこんな簡単なことに気づけなかったのだろうな。それだけ切羽詰まっていたのだろうな」
言葉を一度切って瞳に溜まった涙を拭き取る。その涙の根源が哀しさなのか、嬉しさなのか、そんな事を明らかにするのは二人の間では野暮という奴だ。知っているから、分かっているから。安心して何も言わずに次の言葉を待つ。
そして今一度口を開き、感謝を言葉にして綴る。
「ありがとう。あの人……君のお母さんのことは忘れない。だから待っていて欲しい。絶対に迎えに行くから」
そこで会話は終った。真っ暗な沈黙が再び校舎全体を包み込む。揺蕩う雲から時折顔を見せる月光。今まで夜に感じていた嫌悪感は不思議とすでに感じられず、心は晴れていた。
闇夜が続いていたとしてもいずれ明かりが闇夜を差す。望む望まずに関わらず太陽が出れば月が隠れ、月が出れば太陽は隠れる。
ならば、たまの朧月夜もまた一興なのかもしれない。
そんなことが思えるくらいには晴れていた。たかだか夜が怖くなくなった。それだけなのにこうまで気持ちが昂ぶるとは思いもよらず、嬉しくも哀しい誤算だった。
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