許容と距離感

 彼は私に本当の事を言ってくれない。ただ、それが信頼に基づいて言ってくれないと言う訳でもない。だから彼の嘘に何かを求める事を私はしない。いや、できない。

『友情などと呼ばれているものは、結局のところ、ただの結びつきであり、利害の相互処理や親切の交換に過ぎぬ。要するに、自己愛が、何か獲物にありつこうとして、常に待ち構えている取引関係に過ぎぬ』

 ラ・ロシュフコーのこの言葉。彼から借りた本に書いていた言葉の一つ。

 彼が今私の横にいるのはあくまでも衣住食の確立のため。言い方を変えれば私の世話をする為に彼を買っているに等しい。

 そんな彼がくれる評価はいつも高い。だが、自分を好きになる事と、他者からの評価は逆効果。評価し続けてもらえなければ自分を好きでいられなくなる。

 人間は価値観がそれぞれ違う。故にいつまでも高評価を得ることは不可能だ。

 そう思うと私は彼に深く関わらない方がいいのかもしれない。

 私が彼の事を本気になっても私が馬鹿を見るだけだ。

 逃げるのは簡単だ。彼は私の事を追って来ないだろうし、過去についての事を他言するような人間でも無い。

 彼はきっと心の中で初恋に溺れた馬鹿げた大人として、今もあの人との思い出が記憶の中で存在し続けているのだろう。そこに私が入る事も触れる事もできない。過度に関わって嫌われたくない。だから心地よい距離感を保つ。

 どんなに格好で取り繕ってもバレるものはバレてしまう。

 だからこそ、それでも私は彼を求めたい––。

 そう思うと深く追求する事が出来ない。それを無視して近付けば彼との距離は遠くなる。

 だから私は彼の嘘を容認する。今の関係性を続ける為に。

 そんな互いが互いに求める距離感を保つ為に双方何ももう言わない。ただ一緒に帰るべき場所に帰って行く。

 何も言わず、何も交わさずに暗くて長い夜を過ごす。会話のないリビングは実際の面積以上に広く感じ、湯が沸いたという通知音も炊飯器の炊き上がったという通知音も携帯端末の通知音も鳴る度に二人揃って身体をビクつかせる。

 だが、それでも何も言わず、時間が過ぎる。いつも通り美咲が先に風呂に入り、その間に翼が晩御飯を作る。何一ついつもと変わらない状況。何か違うと思っても気にしなければなんとかなる程度の違和感。だが、彼女にとって、彼にとってその違和感がこそばゆいものである事に変わりない。

 約三〇分も経てば彼女は風呂を上がり、寝間着を着てリビングに戻ってくる。テーブルには既に食事が配膳されており、無言で手を合わせて食事を始める。昨日と違う会話の無い食事の始まり。それが、その違和感がスパイスになってこの空気の重さをより感じさせる。

 沈黙した空気は時間に比例して重たくなっていく。身体が重たくなっていくと言う比喩表現があるが、この時は本当に重たかった。食事は進まず、口を開いて声を発する事も彼女の顔を見る事も叶わない。重力が翼を俯かせる。

 そんな均衡を打ち崩すのは毎回彼女だ。

「ご馳走さま」

 特別気を使った訳でもないだろう。ただ、食事の始まりに「いただきます」を言っていないから彼は気を遣わせたと勘違いする。

 重たい空気にただ一言で生じた綻び、もとい突破口に上手く乗り込み、彼女の言葉を拾い上げ、さりげなく会話に繋げる。

「どうだった?」

 こんな時、染み染みと思う。自分のコミュニケーション能力の低さに嫌気がさす。きっと普通は違うことを言って場を和ませて会話の幅を広げていくのだろう。だからそう出来ない自分が今においては最も愚か者に感じた。

「相(愛)も変わらず美味しかったよ〜。もう婿に来て欲しいくらいにねっ!」

 今と昔は違う。だから俺は今の自分を過去の自分を否定してしまうし、一人で過ごした時間を無駄だと、一人でいることを無意味だと考えてしまう。

 場の空気を和ませる事など出来ないし、自分の読みたくない空気は読まざるを得ない。昔とは違う下向きの俺と上向きな彼女の違いを露骨に感じる。彼女の優しさが暖かい。

「そうですね……。もう少し待ってくださいね、必ず答えを出しますから」

 その言葉を聞いて彼女の顔が歪む。きっと求めていた答えと違ったのだろう。求めていたそれが何なのか。それさえ今の俺には分からない。

 そんな俺に同情するように彼女が口を開く。彼女のそれも動きは鈍く、言葉との間に少し長い沈黙が生じる。

「そっか……。それは、残念……だなぁ。

 じゃあ……お姉さんはこれで……失礼するね。おやすみ」

 何度も何度も振り返る。まだ彼女がいるという安心感を求めて。だが、そこに居るのは自分の空想で見えているだけのただの面影でしかない。

 けれど、その行為を止める事をしない。速脈の心臓に気をつかわず、荒くなる息を誤魔化さず、伝う涙を拭わずに未練がましく彼女を追う。そうしなければもう駄目な気がした。どうでもいいような所作でも意味があるように感じ、それを辞めてしまえば彼女にあがなう機会さえ失う。

 そう思っていても彼女の消えたこの部屋の空気に重さが戻り振り返るのにすら困難になっている。それでも視線だけは後ろめたさからか扉の方を向いていた。

 そんな自分に同情して気を落ち着かせる。皿を片付けていつもの通り洗って、洗濯して寝る。残されたのはそれだけなのに長く感じた。

 水に映る自分、鏡に映る自分、それ以外に映る自分。そのどれを取っても泣いていた。歳を重ねれば涙腺が脆くなると聞いた事があるが、それは流石違うと分かっている。そんなに年齢を重ねていない。

 もし優しいサイボーグがいれば「あとは、勇気だけだ!」なんて励ましをくれるのだろうが、サイボーグを持っていなければ友達もいない。勇気も言葉も何も持っていない。そんな愚かな者なのだ。

 考えれば考えるほど沼にハマり、もがけばもがくほど沈んで行く。次第に考える事を諦めて沈むように眠りについた。

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