嘘と本質

 そんな事を知りもしない彼は試験対策を懇願してきた生徒に引っ張りだこにされている。昔の自分からは想像も出来ない光景だ。

 だが、悪くはないと思っている。そんな表情の彼。

 一年生から三年生の数学。科目に分けるだけでも数学AB、数学ⅠⅡⅢと五科目になる。それらが統一性なく無秩序に質問として飛んでくる。それに対応するなんてただの養護教諭のできる事ではない。

 公式から教えなければいけない超ド基礎からセンター試験の過去問から引っ張ってきた応用プリントまで幅も難易度もバラバラだ。実際脳筋連中が多いので基礎の方が多いし、試験日までそんなに時間もないので半ば詰め込むように教える。赤点を取らないように。それが彼らの望む対策だ。だから異常に教え込む必要もないので少し気を抜ける。

「私のもちゃんと教えて」

 ただ一人この脳筋連中と比べれば異次元の難易度の問題に取り組むのが小倉だ。それを教えるのは骨が折れる。それに故意的に違う傾向の問題ばかり質問してくる辺り彼女の“二人きり”が実現できてない事に少しへそを曲げているのだろう。だが、そうも言ってられない。

 隣では現代文、古典、英語を教えている美咲先輩。暇あれば俺にちょっかいを出してくる。それも小倉に視線を送りながら。

 彼女も似たようなシュチュエーションだ。心情の読み取り方や文法事項のよく出るものなど頻出のものを教えている。本職だけあって進行速度が早い。

 それでも二人は教科書を見ることもなく、質問に答える。問題の書かれている用紙、ノートに解き方を覚えさせる。論理的な説明は一切せずに詰め込む。小中学生の算数、数学なら分かりやすい公式の覚え方があるが、高校生の数学なんて分からない奴に説明しても理解できないだろう。ましてや確率だのベクトルだの微分だの細かな式を必要とするものなんてガサツな脳筋には初見では難しい。だからその場凌ぎしかできない。本職に比べられると手も足も出ない。

 しかし、その説明は彼が心配するほど粗末なものではなく、最後には皆口を揃えてお礼を言って帰っていった。理解できたかは分からないが、最初の大問くらいは解けるようにはなっただろう。

「あー、ちゃんと復習しろよ。もう数学は教えないからな」

 そう言って帰っていく生徒を送り出す。時刻は気が付けば部活が行われている時と同じ午後八時少し前。そろそろ警備員達が学校の見回りを始める時間に差し掛かる。なので、集中している所悪いが、彼女にも声をかける。

「小倉、もう下校時間だ。俺も美咲先輩も帰る。だから帰るぞ」

「はーい。そうします」

 そう言って解いている途中の問題から手を引き、ノートと問題集をバックの中に入れ、使っていたテーブルの上に散乱した消しゴムのカスを一ヶ所に集めてゴミ箱の中に落とす。

「先生、今日もありがとうございました。あんまり構って貰えませんでしたけど、勉強は捗りました」

「そうか、勉強は捗ったか……」

 妙な所にアクセントが入り、勉強が捗った事と勉強以外は捗らなかった事を彼女から訴えられている。

 彼女の真意を間違った解釈をすることなく、だが、当然疑念を抱く。保健室で一体全体他に何を捗らせる気だったのだろうか。少し心配思しながら彼女を見送る道中、ふと気になった事があった。

「小倉、お前何処の大学受ける気だ?」

「あれ〜、気になっちゃいますかぁ〜? でも、まだ教えられません。その時が来たらしっかり話しますからそれまで勉強に付き合って下さいね!」

 最後にウインクがあったならば間違いなく堕ちていただろう、とか時折思うが、それはあくまでも客観的に見た場合だ。

 それに対象は俺ではない。だが、どうしてか彼女は俺がそう思うと必ずウインクをしてくる。今回もそうであると思った。

 だが、今日は違った。初めて偶然が重ならなかった。今日が偶々しなかったかもしれないし、今までが奇跡的偶然でそうなっていただけかもしれない。

 でも、どうしてか俺はそれが嫌だった。理由なんて説明できないが、そう思った。

 そしてあの時の、あの日の事が脳内でフラッシュバックした。

「––ィ、センセィ、もう先生ってば!」

「あぁ、悪い。どうせ駄目だと言っても来るだろーが。行きたいところがあるなら協力してやる」

 考え込んで、黙り込んでいた。嫌なもの……いや、思い出したくないものを思い出したらしい俺は彼女の応答を求める声に反応して彼女を送る。

 そしてほんの一、二時間前まで騒がしかった保健室の扉を施錠する。既に保健室の外で待っていた美咲先輩と目配せをして歩き出す。

 心はまた忘れようとしてやっと記憶の片隅に追いやったあの日の事、今こうしている要因たる記憶が色々な感情と共に脳内でごった返していた。

 外に出ると空は真っ暗だった。雲に隠れて月も星々も顔を見せてくれない。

「またか……」

 横にいる彼女に聴こえない小さな声で息と一緒に吐いた。夏に近づくにつれて日の入り時刻は遅くなるが、八時を過ぎると日は落ちきり、夜が一気に更けていく。夜が更けると日が昇るまで夜は闇に満ちていく。何もかもを呑み込みそうなそんな夜は決まって不安になる。

 道には電信柱に備え付けられている。蛍光灯も点灯しているので四方八方が暗くて見えない訳でもない。そもそも暗いから不安になるなんて幼稚な理由ならまだ克服の兆しがある。

 この暗い夜は今の自分の心の靄を連想させる。どんな色を混ぜても結局は黒くなる。感情も一緒だ。どんなに明るい感情も混ざるに連れて黒くなり、いつかはこの夜空のように真っ暗になる。自分の心が抱える哀しさもこの暗い空に比例しているように思えて仕方がない。

 だから心に靄がかかっている時は決まってこの空が少しでも星々や月の光で明るくなっていて欲しい。そんな願いが成就する事に期待し、希望を抱いて空を見る。

 だが、空を見る時は決まって漆黒の重たい夜。春も夏も秋も冬も、そして今も……。

 そんな自分の求めていない暗い空を見て不安は高まる一方だ。この空は自分の心を連想させる。

 どんな事が起きても一切顔に出さない。それは昔からの癖。誰にも愛されない、煩わしいとも思われるのだから迷惑をかけないようにしようと思った幼い頃の拗らせた思い。だから今回も顔には全く不安の色は見て取れないだろう。だが、行動は違ったようだ。不安から逃げるように無意識のうちに足早になっていた。

「翼くん、大丈夫?」

 心配の言葉、眼差しと一緒に手が握られる。そしてやっと自分の現状を理解した。

「なんでもないです」

 咄嗟に出た言葉はもちろん嘘。

 心配されたくない。

 そんな目で見て欲しくない。

 嘘を吐いた理由はいつも複数存在する。

「嘘、翼くん歩くのが速くなってるし、手もなんだか冷たいよ?

 ねぇ、本当のことを言って」

 そして嘘がバレても本当の事は中々言い出せない。それでも次の言葉は大きく分ければ二分される。本当の事を言うか、嘘を重ねるか……。

「参った、な……。

 でも、本当に少し考え事をしていただけです。明日もこれが続くのだと思うと鳥肌が立つなって」

 どんなに些細な嘘でも嘘を吐くには理由がある。だから大抵嘘がバレた時、次の言葉に選ばれる選択肢は大抵嘘を重ねる方が多いだろう。

「そう? ならいいけど」

「嘘を吐いてすいません」

 一度嘘を吐けば、嘘を重ねてしまう。最初の嘘がどんなに些細な嘘でも重ねれば重ねるだけ大きくも重たくもなる。そうして嘘を吐き続ければその内、それに苦しめられる日が来る。そんな事が分かっていてもそうしてしまう。

『私利私欲は、あらゆる言葉を喋り、あらゆる役柄を演ずる。無私無欲の役までも』

 そう唱えたのは確かラ・ロシュフコーだったか。

 自分が“今”傷付かない為に嘘を吐いてこの場を凌ぐ。きっと状況に応じてなら優しくていい人も、爽やかで性格良好なイケメンも演じられるだろう。

 この世に性格の良い人間なんてそうそういない。しかも容姿が良くて性格がいいなんてもう人間じゃない。人間は不完全な生き物だ。だから嘘を吐いてしまうのは仕方がない。俺の持論だけど。

 そんな自分を慰める為だけの持論を胸の中に留め、今度は意識して歩く。彼女を横目で見ながら横を一緒に歩く。

 もし本当の事を彼女に言ったらどう思うだろうか、そんな疑問を抱き、すぐに揉み消す。

 あらゆる役柄を演じるのは彼だけではない。全人類に言える事だ。彼女の行動にもそれは該当する。それは彼女の意識の有無に関わらない。無垢な優しさなんて存在しない。

 心のどこかでは同情していたり、助ける自分に酔っている。どんなにいい人でも本質は覆せない。善意にも悪意にも本質的には私利私欲から来ている。

 だから彼女の善意に触れるのは嘘を吐いて傷付くよりも怖いのだ。

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