二日酔いと俯瞰

 今日は色々あった。この大変な一日が終わった事に歓喜しながら眠気に負け、意識が遠のいていく。

 もう三時間もしない内に日が昇り始め、朝食の準備が始まる。大変で面倒だけれど、こんな日常も悪くわないと思っている。

 寝る事はいい。健康的な側面でもいいが、寝る時はどんなに長く感じる時間でもどんなに短いと感じる時間でも平等に過ぎてくれる。体感的な問題だから個人差はあるだろうが、俺にはそう感じる。夢だって見れるし。

 昔は朝があまり好きじゃなかった。朝、目が覚めると何故か涙が頬伝いに零れ落ちる事が時々あった。一時期は病んでいるのかと思ったが、別にそういう訳でも無かった。だが、そんな目覚めはあの時から続いている。見ていた夢を思い出すこともできず、大事なものに手が届く直前。それを確かめるところでいつも目が覚める。

 そして時計を見るとセットしたアラームが鳴る約三〇分前。時刻は午前五時ちょっと過ぎ。

 欠伸も背伸びもせず、普段と同じ猫背のまま部屋を出て階段を降りる。昨日……いや、時刻的には今日飲んだお酒は残っておらず、倦怠感は感じられない。

 いつもそうだ。何かを忘れようとして飲む酒も嗜みとして飲む酒も俺を酔わせるには至らない。酔いたい、忘れたいと思う自分の後ろには冷静で冷めているもう一人の自分がいて、常に周りの他人と自分を比べて俯瞰してしまう。どうしても途中で興ざめし、美味しいとも感じなくなる。

 それを感じても無視して身体の限界量を越えるまで飲んでも結局は酔えず、呑まれるだけ。飲んだ酒を吐く事は出来ても弱音を吐いて忘れる事は出来ない。スッキリすることはなく、常に気持ち悪いまま。

 身体は酔っていても心が酔えない。気持ちよく酔う事が出来ず、飲んでも楽しむ事は出来ない。

 そんな事が酒を飲んだ翌日は決まって頭を過る。

 どうして……なんて事はとっくに考えるのを辞めた。半分は諦めている。残りの半分は期待だ。

 だが、期待が自己解決を拒否した事に等しいことも、他人行儀になっている事も分かっている。もし、そんな俺の乾ききった心に、期待に応えてくれる人が出てきたらその人に好意を、興味を抱くのだろうか。あの人のように、あの時のように……。

 日も出ていないこの時間はどんなに暗くてもいい。だから自虐で感傷的になるのもいい。今は昔とは違う。孤独の怖さ、辛さを知っている。もう孤高なんてたいそうな人間でもない、ただの新任の養護教諭だ。

 感傷的になれば他人の前で感情を絞り出すことができる。

 だけどこの感傷的な時間は俺の中にある数少ないあの人との記憶が終わらせる。

『点と点が繋がって線になるみたいに、踏み締めた一歩がいつか道になるみたいに。それと同じように出会いが思い出になり、別れになる。そうなればいつか感情が言葉になって、歪な君らしい形を成す。

 進むしかない限られた時間の中で、不器用にも生きたって証が増えていく。だから自分を自分に駄目だと傷を付けるな』

 力強くて心に滲みる大好きな言葉。初めて気遣いの暖かさを知ったその言葉が脳内に現れ、感傷に浸る事すらはばかりを憶える。

 そんな無様なルーティンに終わりを刻み、キッチンに立つ。

 メニューは昨日のコーンスープが残っているので、コーンスープとそれとよく合うバタートーストとする。

 コーンスープは昨日同様に焦げないように湯煎し、温まり始めたらトーストにバターを贅沢に沢山塗りトースターの中に入れてセットする。

 出来上がる少し前になれば寝起きの美咲がリビングに降りてくる。ただ、昨日までと違うところがあるならば二日酔いを示唆するように頭を押さえている事くらいだ。

 だけどそんな彼女の事を羨ましいと思う。

 そんな事を思っているなどと思わせる素振りを見せる事は無く、毎回のように無愛想なポーカーフェイスで彼女を迎え、出来上がった朝食を食卓に並べる。

 この日は珍しく美咲の父、中村一馬もリビングに顔を出した。家は別々だが、たまに翼と美咲を心配して顔を覗かせる。一馬は「そんなじゃない」と笑って否定するが、これと言って何か起きた翌日に顔を覗かせる事が多い気がする。優しいお父さんだと思った。羨ましいとも思った。翼は家族とあまりいい思い出はない。母も父も嫌いな方だったし、一応居る姉は年齢差のせいで家に居なかったので何を喋ったかすら覚えていない。だから決していい関係だったなんて言えないし、それを改善する事も今更できない。それでもGW手前には有給を取って顔を出さないといけない。それしかもうできる事はないから。

「翼くん、悪いが私の分も貰えるかね」

 椅子に腰を下ろそうとした時に少し申し訳なさそうに言われた。

「じゃあ、自分の分を食べていてください。今日もお忙しい中来てくださったのでしょうし」

 でも、それすら心地よい。本当の父との思い出がない翼にとってこんな会話も新鮮だった。

「いやぁ、参ったな」

 そう言いながら翼の言葉に従い、席に着いた。

「あ、お父さん車でしょう? じゃあさ、私と翼くんも乗っけて行ってよ」

「あぁ、いいぞ」

 短くそう答えるとカリッ、ふわぁ、ジュワッのバタートースト二枚を二つに割る。半分くらいにしたトーストを口一杯に頬張り、広がる風味と咀嚼音を楽しむ。残りはコーンスープに浸して深い味わいを楽しむ。名前だけならそんな豪華でもないし、ありふれているだろうが、手間をかければそれに比例して料理は美味しくなる。

 朝食を終えると食後のコーヒーを嗜み、家を出る時間を余裕を持って待つ。そんなリビングはコーヒーの香りと甘いコーンスープの匂いがした。

 そうして時刻はやってくる。今日もまた大変な一日が始まる。四月は仕事が多い。

 それは未だ彼を憂鬱に引きずるが、それと同じくらいに心を軽くする。

 身支度を済ませて家を出る時そう思えた。

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