黒焦げと謝罪

 家に帰る道中でスーパーマーケットに寄り、美咲がご所望だった“好物”の素材を買い揃える。

 家に帰れば俺は台所に立つ。今時男が立つなんて珍しくもないが、俺の場合は少し特殊だ。俺は家なき子だ。正確に言うと少し違うが、そこはどうでもいい。今は雇い先でもある美咲の中村家に居候している。

 美咲の父は「何も気にしなくていい」と言ってくれたが、流石にそんな訳にもいかずに家事全般を含む美咲の面倒を見ることになった。

 彼女にはこれと言って欠点はない。けれど、致命的に家事ができない。料理は愚か、洗濯も掃除も出来ない。この家に最初来た時も彼女の部屋の汚さに驚いた。

「俺が料理している間に風呂入っていてくれていいですよ」

「一緒に––」

「入りません」

「じゃあ、料理するなら––」

「俺はご飯を作ります」

「それならビールを二人分冷やしておいて。たまには付き合いなさい」

「それなら……わかりました」

 ありふれていて(?)、日常的(?)な会話を興じて再び料理に目を向ける。

 野菜を盛り付け、冷蔵庫に直し、スイートコーンをミキサーにかけ、お湯で伸ばして味を整え、湯煎する。そして肉を彼女好みのレアにする為に火を入れる。


 誰かが俺のことを、俺の帰りを待っていてくれる。それはとても嬉しいことだ。でも、それと同時にとても辛い事なのだ。

 だから、『中村美咲』とそんなありふれた家族になるのを戸惑うくらい、とても理想の魅力的な女性だ。

 美咲先輩は優しくて、いつも笑顔で、綺麗で、純粋で、毎日俺の帰りを待ってくれている。だからこそ、何も出来ない俺自身が一番この状況を望んでいないのかもしれない……。

 そんな考えは何も生まないとわかっていても考えてしまう。心は後悔で埋まり、黒く染まってしまう。ついでに言うと心が黒く染まっている間にレアにする筈の肉も焦げて黒くなっていた。

 焦がしてしまった肉の表面を包丁で器用に削ぎ落とし、もう一度フライパンに戻して表面に色をつける。失敗した方の肉を自分の皿に盛り、そうでない方を美咲の皿に盛る。サラダを冷蔵庫から取り出し、ドレッシングをかける。コーンスープの湯煎を止め、容器に注ぐ。出来上がった料理をテーブルに運び、配膳も終わると美咲が寝間着を羽織ってリビングに戻って来た。大方配膳が終わるまで待っていたのだろう。

「本当に好物ばかりだね! と、ところでこのパジャマどうかな……?」

 少し照れながら聞いてくる美咲に翼は解答に困っていた。単純に感想だけを聞いているという事では勿論ないだろう。春物の寝間着にしては明らかに薄く、一般的な寝間着と言われても信じないレースとシフォンで意匠された可愛い系のランジェリー。

 普段から着ているシャツとショートパンツの自然体が醸し出す無防備感もいいが、これはこれで違った色気があって男心を擽ってくる。これはもしかしなくても誘っているのだろう。だが、その誘いに対しての返答はすぐには出なかった。

 こんな時、磨り減らない為にはどうしたらいいだろうか。俺は彼女と近付き過ぎたのかもう他人を突き放すように冷酷になれない。だからいつも自分を磨り減らして答えを厳選する。

 それが彼女の求めるものかどうかは保証しかねるが、あくまで俺は俺なりに彼女の事を大事に思っている。それ故に伝え方に戸惑う。

「TPOを弁えたらいいんだよね……?」

 言葉に詰まる翼に子供が玩具を強請るようにグイグイと距離を詰めてくる。だが、その言葉に勢いはなく、恥じらいが見て取れた。そんな姿を見て彼女が半端な知識(性に対する)を膨らませ、赤面していることが容易に想像でき、彼女の顔を見ると無論そうなっていた。

 きっと彼女も頑張ったのだろう。無言の時間が過ぎると赤く染まりきった頬を隠す様に手を当て、急によそよそしくなっていく。彼女の目を盗んで食卓の下に目線を移すとやはり震えていた。

 彼女の気持ちは本当に嬉しい。だが、その気持ちに応える解答を翼はまだ持っていなかった。誰に言われようともこれは自分の問題であり、そう簡単に割り切れるものではない。どんなに嬉しくても、どんなに楽しくてもそれはきっと“初めて”には勝てない。

 確か学習処女理論だっただろうか。

 今まで経験したことのない事を、教えてくれる人を好きになり易いという心理傾向の事を指し、学校の先生を好きになってしまう事や、新入社員が仕事を教えてくれる先輩や上司を好きになるのは、この理論で説明が付く。

 あの人は俺の知らない感情を教えてくれた。だからあの人は俺にとって特別な人なんだ。

 だが、どんなに想っていても叶わないものがある。だから諦めないといけない。

 だけど、その諦めが何年経ってもついてくれない。

 ごく簡単な物理的解決はごく簡単な心理的側面から否定されるのだから……。

「ごめんなさい……もう、少し待って、ください」

 整理の付かない俺はこうして今回も何度も何度も繰り返し言う内に言い訳と化しているこの言葉をまた言ってしまう。こうして彼女の真剣な気持ちを蔑ろにしたのはもう何度目だろうか。

 忘れる事も割り切る事もできない優柔不断さ。それはきっとあの時から俺の身に絡まっている。だから未だにあの人に縋り、彼女に依存しているのだ。

 靄のかかった心は晴れる事なく、時間の経過に比例して濃くなる一方だ。そのせいだろうか、間違っても進むと決めていたのに進む道すら見えず、間違いを恐れて一歩も進めないでいた。

 あの時から一歩も進まず、ただ、靄が晴れるのを待ち続けた。その結果がこれだ。停滞した俺が得たものは何もなく、ただ、大切なモノを失っていくだけ。自分の成長の為に何かを切り捨てたのでなく、自分が傷付かない為に何かを切り捨てた。

 だからだろうか、最近の彼女は眩しく見えて、それと同時に遠い存在の様に感じる。俺と彼女の距離はどんどん開いていく。進まなくちゃいけないのにできない。

 形のある言葉。そんなモノ言える日が来るのだろうか。

 不安から始まる苦悶、苦痛、苦悩、絶望、無謀、失望、未練、後悔。

 そんな負の感情が脆い心を追撃する。

「本当に、ゴメン……」

 自分の弱さが滲み出た弱々しい言葉は暗かった。

 ゴメンは彼女に向けられたモノではなく、ただ翼から無意識に放たれたモノ。それ故に暖かいリビングの空気を凍りつかせるだけのリアルさがあり、哀しさがあった。

 ––皆それぞれの過去を持って背負って存在している…… 。

 彼女はすぐに何かを言うことは出来なかった。慰めや意見表明そのどれを彼にすればいいのか、分からない。嫉妬に任せて自分に泣いてくれない彼を責めたてるべきなのか、それともそんなどうしようもない彼を抱擁し、慰めてあげるべきなのか。

 どちらが正解で、どちらが不正解なのか。まず、正解か不正解なんて概念があるのか。そんな事を考える。

 その最中はずっと無意識に顔が変わっていた。哀しみに顔を歪めたり、嫉妬に眉を顰めたり……。

 そして結果的に彼女が言ったのはいつもと同じだった。

「いいよ、泣かなくても。君が決めたことに私は何も言わない。信じて待ってるから。だって私はお姉さんなんだもの」

 彼女だって辛いのだろう。目元はほんのり赤く擦った跡があり、声も震えている。俺なんかの為にまた自分を偽ってくれる。優しく微笑んで絶妙の距離を保とうとしてくれる。

 互いに縋り合い、互いに共感を得る。孤独に囚われず、安心感を得られる。そんな心地いい関係。今はそれでいい。だけどきっと答えは出す。彼女の為でもあの人の為でもなく、他ならぬ俺の為に。

「ありがと、美咲先輩」

「どーいたしまして」

 互いに焦ったり、偽ったり、哀しんだり、妬いたりと、コロコロ表情を変え、そんな今宵、彼女は最後に微笑を浮かべた。少しぎこちない作り笑顔。それがこの話を打ち切るサインのように思えて、俺も口元を緩めて頷いてみせる。

 何を感じたのだろうと思っても、それを突き詰める程に、突き崩す程に、突き放す程に幼くはない。一緒に住む事になって差して長くもない期間だが、これまで同じ時間を共有してきて、お互いにとって一番心地よい距離や場所を探すことが段々うまくなってきているようなそんな気がする。

 ––俺は弱く、彼女はそれを包んでくれる。そんな暖かいと感じられる距離感。

 そう思いながら彼女の方を見る。

 ––私は弱く、彼はそれを埋めてくれる。そんな楽しいと感じられる距離感。

 そう思いながら彼の方を見る。

 そして何も言わず今日という日は終わり、互いが互いにやる事を定めてそれを実行する。

 グラスに注がれたビールを飲み干し、酔った様子を見せずにリビングを出た。そんな彼女を傍らに飲んだお酒を分別する。缶ビールは中を水で一度洗い、潰して缶用の袋に入れ、グラスは割れない様に丁寧に洗う。

 洗い物を済ませると、エアコンの電源を切り、換気をする。リビングを消灯すると、自室経由で浴場に向かった。

 風呂に入る前に自分の洗濯物と彼女の洗濯物に分け、更に下着と服とに分ける。自分が入る前に彼女の洗濯物を洗濯する。自分の洗濯物を後にすれば残り湯が使えるからだ。

 そんなこんなで洗濯物を干し終わってベッドに就いたのは深夜二時過ぎだった。ベッドに入ると死んだ様に眠った。

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