保健室と既視感

 放課後ずっと好きだった人と一緒にいれた。きっと彼は私の事なんて憶えていないだろう。彼の頭の中は未だにあの人で埋め尽くされているだろう。

 しかし、私もこの想いを長く抱き続けている。いつか会いたい、彼が振り向くような魅力的な異性になりたいと思っていた。

 けれど現実は残酷だった。去年新任の養護教諭としてこの学校に来た彼。この状況だけならば多分私も喜べただろう。だけど、彼は変わっていた。冷酷で誰かに寄り添うことなんてしない彼はもうそこには居なかった。悲嘆の色に染まった顔を人に寄り添うことでその顔を見られないようにしている。ずっと想い続けた私は気が付いてしまった。今の彼に誰も近づくことは出来ない。それは物理的な距離ではなく、心理的な距離。忘れようとしていたこの現実も今日思い出してしまった。本当なら楽しくて嬉しい時間の筈なのに作業が終わった瞬間から時間の経過が遅く感じる。

 ––心の距離なんてどうしろって言うのかな……。


「今日はありがとうな。お茶でも出すよ」

 作業が終わり、放課後も終わり、今日が終わる。しかし、胸の中に生じた靄に終わりはなく、俺を苦しめる。

 彼女の顔を見れば靄が広がる。今までなんともなかったのに彼女の笑顔を見て不意に感じた既視感。それを境に心が苦しいと感じた。

「いいですよ。珍しく働いたんですからここは私に任せてください。

 それに私の煎れるお茶は最高なんですよ」

 下手くそな嘘をついて彼との距離を離す。気持ちの整理なんて付いていた。いや、付けて来た筈なのにいざとなった時、どうしようもなく心が痛い。

 単なる失恋でもない。諦めることも実ることもできない。そんな恋を私はしている。そう痛感させられた。

 心が掻き乱される感覚がずっとある。そんな虚無感に駆られながらぼうっと窓を眺めていると、翼がパーテーションの薄い壁を叩いていた。

 薄い微笑が心なしか寂しげなものに見えたせいで、この重たい雰囲気を打破する気の利いた冗談も考えつかなかった。何か言えればよかったのだろうが、どうにもそんな雰囲気でもない。

 未だに屋内グラウンドでは騒がしくらい音が溢れていた。だが、彼と私にある空気は固形のように凝っていて、それが雑音を遮り、私だけが外界から遮断されたと錯覚してしまうくらい何も聞こえなかった。お茶が沸き、向かいのソファに座るその瞬間でさえ、革が撓んだ音とお茶を煎れる音しかしない。彼のお礼すら正確に聞き取れず、不安はより一層深まった。

 湯気の立つお茶を飲んだ筈なのに冷たく感じた。きっと彼女が気を利かせて言ってくれた冗談もこの不安のせいで確かめることも叶わない。美味しい何て感じる余裕もなかった。

 俺だけを囲う空気が、心の中の靄が俺にそう感じさせる。

 静かな空気下の中で話し出すにはそれなりの勇気を要し、それを振り絞っても何も言えない。そんな情けない俺を差し置いてこの静まりを打ち壊したのはやはり俺ではなかった。

「先生、ありがとうございます。じゃあ、また明日来ます……ね」

 含みを感じさせる彼女の発言は言葉だけではなく、実際の行動でも……。小走りで翼から逃げるように保健室から出て行った。

 そんな彼女を追いかける度胸も気概もなく、重くて遠い一歩は踏み出せずに廊下から聞こえる反響音は消えていった。

 日が暮れてもう立派な夜。帰宅時間に差し迫る中、室内の電気を消して鍵を施錠すると四階の職員室に向かう。エレベーターに入り、四と書かれたボタンを押して狭い直方体の空間、その一面の壁にもたれかかる。

 思考は制御できるキャパシティを超え、理解できない範疇で未だに思考は増え続ける。拒んでも思い出してしまう。頭の中の思考回路は次第に熱を発するように胸が熱くなっていく。

 エレベーターが目的の階層に着く時に鳴り響く“チン”という甲高い音のお陰で我に戻ることができた。エレベーターから降りるとゆっくりと職員室に向かう。

 まだ電気が付いている職員室には美咲先輩が居た。彼女は俺の顔を見るなり笑いながら「帰ろっか」と言い、弄っていたパソコンを畳んだ。

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