保健室の新学期

仕事と新年度

 入学式が終わり、その翌日行われるのが始業式。そこでは入学式とは違って今年度から勤める教師しか自己紹介を行わない。その為、俺自身にこれといった役割がある訳ではない。

 しかし、全学年を通して新年度が始まったこの日から養護教諭である翼には多くの仕事が待っていた。

 養護教諭の主な仕事は大きく分ければ救急処置、学校環境衛生調査、保健指導、健康診断の実施・管理、保健室相談の五つもある。その中でも前者二つは基本的に年中行事のように行われているが、残りの三つは基本的にこの時期に最盛期を迎える。

 そもそもこれら三つはどのようなものかと言うと。

『保健指導』

 病気やケガの予防について、担任と協力し、授業やホームルームなどで指導の事を指す。

 例えば、うちの学校では毎年四月には「健康週間」という週間を設け、新学期開始に合わせて体調不良などで生徒らの船出に影響を与えない事が目的とされている。内容としては風邪の流行る時期の手洗い・うがいの励行を呼びかけるといった平凡な指導を行なっている。

 他にも性教育についても、担任や体育科の教員とチーム・ティーチングで授業をすることもある。特に芸能科は自分の出世のために色々犯す馬鹿が毎年何人かいるので徹底している。

『健康診断の実施・管理』

 学校内の健康診断の計画立案や準備を行い、その結果に応じて食事・睡眠といった生活リズムの習慣などの調査を生徒個人に行っている。

『保健室相談』

 保健室を訪れる生徒の相談に応じ、身体に関することだけでなく、心に関する相談など傾向に指定はなく、どんな些細な悩みでも聴き受けるカウンセラー的な役割を担っている。

 まぁ、実際常用カウンセラーなのだが……。


 要するにいつも行なっている作業に加えてデスクワークが増え、現代人のストレスの原因となるパーソナルコンピューターと睨めっこをする時間が増える。故に元々やる気に満ち満ちていない翼にとってこの時期は有給を使ってでも逃げ出したいくらい気分が沈みっぱなしなのだ。

 しかし、養護教諭が一人しかいない時点でそう易々と有給なんて取れない訳だが……。

 そんな嫌な事からどう逃げようかと無駄な策を考えている間に始業式は終わり、翼の嫌いな時間が目前まで迫っていた。

 新年度早々しかもまだ始まって大して時間も経っていない。なのにため息なんて吐けば、また俺の横にいる彼女から「幸せが逃げるぞ☆」なんて能天気な言葉が決まって返ってくるのは目に見えていた。だから吐きたいため息をぐっと堪えて、いつも以上に気怠そうな表情を浮かべて猫背全開でのそりのそりと保健室に向かった。

「翼くん? 悩みがあるならお姉さんが––」

 聞こえてくるであろう彼女の声は途中で途切れた。いつも通りのテンションの高さを誇るそれを遮ったのは勿論翼ではない。そもそも遮っても無駄だと知っているからそんな無駄な事はしない。

 しかし遮った人物は翼も美咲も知っていて、しかも無駄だと分かっていても目的の為ならどんな手段もとるそんな女子生徒。それも校内では有名なその生徒の方を二人して嫌な顔で目を向けた。

「先生、おはよーございます! 今日も顔が死んでますよ? でもカッコいいです。

 久しぶりですね。私に会えなくて寂しかったですか? 」

 この騒がしい女子生徒を知らない人はこの学校ではいないだろう。彼女の名前は小倉玲奈、芸能科三年でこのマンモス校を纏める生徒会長。そんな大役を担えるカリスマ性を持ち、男女ともに人気……いや、モテる。

 明瞭快活で文武両道、料理の腕も絶品と噂でさらに抜群のプロポーションを持った超絶超人だ。制服は上着にベストを羽織っており、やや黒がかった茶色のパンティーストッキングを着用している。

「寂しい訳がないだろ、と言うかお前はさっさと新入生の案内に行け」

「相変わらずの塩対応ですね。でもそこがまたいいです」

 塩対応を喜ぶなんてコイツはドMなのかなんて初歩的な疑問に駆られる事は去年っきりもう無い。この学校は才能溢れる人間が多いがそれ故に人間性に問題のある奴が多過ぎではないか俺は未だに思う。

 馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったものだが、自分も人のことを言えたモノではないと自覚があるので口に出さない。それにそれを言ってしまったら養護教諭とは言え、翼も教師な訳で職業倫理に反した言動を体罰だと言われ兼ねないのでそんな事は口が滑っても言えない。

「そ、そうよ。仕事はしっかりしましょうね、小倉さん?」

 珍しく勢い負けしていた美咲が少々焦り気味な口調で口を挟んできた。

「あれぇ? 居たんですか中村センセー」

 会話の主導権は完全に小倉が握っている。しかもそれに乗じて煽っているのも翼からすればすぐに分かった。普段の冷静沈着と名高い彼女なら”オトナの余裕“を醸し出して相手にしないのだが、今の彼女は見る限りでは感情的になっていてオトナの余裕どころか煽っている小倉よりも幼稚で余裕がないように見える。

 流石にこんなところで生徒と教師が幼稚な口喧嘩が勃発すれば翼には擁護出来ない。

「オトナを揶揄うものじゃないぞ、小倉。さっさと行ってこい。

 美咲先輩も生徒相手に大人気ないですよ」

「「はぁーい」」

 そんな気の抜けた返事をもってこの口喧嘩は始まることもなく、幕は降ろされた。

 生徒は新入生と生徒会以外この時間は自習を行なっている。

 教師は教職員会議をする筈なのだが……。

 時間を手元の携帯端末で確認するとやはり遅刻していた。

「あ、遅刻した……。じゃあな小倉」

「ちょっ! 待ってくださいよ」

「い、急ぐよ、翼くん! またお父さんに怒られちゃう」

 結局この後遅刻を厳しく言及されたが、なんとか苦し紛れの言い訳を駆使して決まり文句の「今回は不問にしましょう」と言われて落ち着いた。

 俺らを咎める時間も惜しいと言わんばかりにこの会話に区切りを付けると早々と職員会議に進捗した。

 内容としては差していつもと変わる事は言われていないものの「気を引き締めて」とか「時間を意識して」など生徒の模範になるように、そんな言葉が隙あらば口ずさまれた。相変わらずの教頭の頭の堅さに落胆しながら自分には関係ないからとあまり真面目に聞いていなかったらそれが目に止まったらしく激しく叱咤された。

「まぁまぁ、そう怒らないでやってくれよ。君のやり方も正しいが、彼には彼の仕事のやり方がある。

 それに彼の救急処置のお陰で大きな怪我にならなかった生徒が減ったのもまた事実。人にはそれぞれのやり方があり、それを強制すればパワハラと訴えられるぞ。ホッホッホ」

 そんな奇策な笑い声と共に翼に対して皮肉とも擁護とも受け取る事ができる。そんな言葉を言ったのは何度か翼や美咲の口から出ている彼女のお父さん兼この学校の校長の中村一馬だった。

「校長先生、ご無沙汰しております」

 翼にしては珍しく丁寧な口調で誠意がこもっていたように思えた。

「やぁ、翼くん。娘がお世話になっているね。

 ところでいつになったら籍を入れてくれるのかな?」

 不敵な笑みを浮かべながら冗談めかしく言っているが多分本心だろう。それを理解した上で笑って見せるが、これで「一刻も早く孫の顔が見たい」なんて言われたら流石に笑えなくなる。

「校長先生、あまりプライベートな事は辞めて下さい。恥ずかしいですし。

 それに自分の抱える問題が全て解決すれば形のある答えを出しますので、どうかそれまで待ってください」

「真面目だなぁ……。まぁ、いいか。私もまだ現役じゃし、そんなに急いでなんていないから気長に待つさ。そんなことより互いにしがらみを残さないことの方が大切じゃからな」

 感謝の意を込めて深々と頭を下げた翼の姿に美咲以外の教師は皆呆気にとられていた。一方の翼は張り詰めていた体内のガスを抜くように息を吐いてデフォルトの姿に戻った。

「それでは自分は今から保険書の準備を行うのでこれで失礼します」

 そう言うと一礼して自分の仕事場である保健室に向かった。

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