17.汚部屋と少年と女教師。

「しかしまぁ……相変わらずぼろいよなぁ……」


 目の前にある建物を見上げ、紅音は思わずつぶやいた。


 それもそのはずである。今目の前にあるのは第二特別棟といい、敷地内で一番古い建物なのだ。


 別に、何も最初からそうだったわけではないらしい。


 元をただせば第二特別棟は、他の校舎よりも大分遅れて作られたのだそうだ。


 なんでも、学生の数を増やすにあたって、設備も充実させたほうがいいだろうという判断が当時にはあったようなのだ。


 しかし、時は流れ、当時は真新しかった建物は年季を感じされる趣を漂わせるようになってしまい、しかも他の校舎が100周年事業だとかで建て替えていく際に、一つだけ「まあ今ほとんど使ってねえしいいか」という悲しい判断のもと、放置された挙句、取り合えず耐震工事だけ行われて今に至っているらしい。従って今では一番ぼろっちいのがこの第二特別棟なのだ。


 ちなみに内部は三階建てだが、そのうち上二階はほとんど使われておらず、現在使用されているのは一階部分のみ……もっと正しい表現をするのならば「一階にある宿直室のみ」が機能しているという状態なのだ。


そんなもんだから、ちょっと前には幽霊騒動なんかも起こったのだが、今は完全に解決した……と、思いたい。


 さて。


 こんなところでおんぼろ校舎を眺めて歴史を感じていても仕方がない。紅音がするべきなのは、


 コンコン


冠木かぶらぎ先生いますかぁー」


 暫くして、


「はぁーい……ちょっと待ってて」


 とだけ返事が来る。やがて、中からごそごそっという音と、ガチャっという鍵を開ける音がした後に扉があき、


「お、来たね、不良少年」


「なんですか成績学年ナンバー1を捕まえて人聞きの悪い」


 冠木は、


「まだ授業中でしょ?こんな時間にこんなところ来てるのは不良でしょ、不良」


 と反論する。


 なるほど、もっともだ。今はまだ五時間目の最中なのだ。


 もっとも、紅音を不良少年とするのであれば、それを追い返しもせずに迎え入れてしまう冠木も不良教師で間違いないと思うが、それを言ってしまうと追い出されそうなので言わないでおく。


「早く入って。こんなところあんまり見られたらまずいでしょ」


 何がまずいのだろうか。紅音の体面か。冠木の体面か。それとも両方か。


 とはいえ、言っていることは確かだ。紅音は素直に従い、部屋の中へと歩みを進め、


「うっわ…………」


 絶句。


 覚悟はしていた。


 いや、していた“つもり”だったのだろう。


 部屋の中は、それはまあ酷い惨状だった。


 流石にそれなりに広い部屋なので、足の踏み場もないということはない。


 ないが、その代わりに視線のやり場に困る。頼むからそこら中に下着をそのまま放置するのはやめていただきたい。


 しかも洗濯して、畳んだものだけならまだしも、どうも脱ぎ捨ててそのままっぽいものもあるのだ。


 それらの上や隣には本や、プリントや、ゲームソフトや、未開封のカップ麺や、酒の肴が、雑に放置されていた。


一応、衛生面には気を使っているのか、開いたままの酒瓶が置いてあったり、食べたあとのカップ麺が放置されているということはない。


 ないのだが、流しの部分にはしっかりと皿が積みあがっていた。


 遠目から見る限りだと汚れてはいないので、一応洗ったけど拭くのが面倒なので積み上げてあると見た。


 その奥には冷蔵庫もあるのだが、中に何が入っているのかはあまり考えたくはない。この部屋が高校の敷地内にあるとか軽く奇跡でしょ、これ。


 後から部屋に入って来た冠木は自慢げに、


「どう?ちょっと片づけたんだけど」


「あん?」


「あの、そんな「何言ってんだこいつ頭おかしいんじゃねえの」みたいな目で見るのやめて」


「いやぁ」


 これはなるだろう。


 片づけた?これで?悪いのは頭と目のどっちなんだ。


 ただ、よーく見てみると、部屋の隅っこに籠があって、そこには周りと比べると当社比では綺麗に積み上げられたクリアファイル類があった。


 なるほど、あそこか。


 この部屋にもとうとうクリアファイルで片づけるという機能が実装されたんだな。


 ただ、


「そりゃ、前よりはほんのちょっとましになってますけど、ほんとにほんのちょっとですからね?多分あおいなら三十分でやりますよ、このくらいの整理」


 そんな言葉に冠木はやや驚きながら、


「え、どこか分かったんだ?」


 あんたが自慢してきたんだろうが。


 という言葉はぐっと飲み込んで、


「まあ、一応」


 該当箇所を指さし、


「あそこのかごでしょ?100均かなんかで買ってきたんですか?」


 そんな私的に冠木は、


「うん、それはそうだけど……え、凄くない?今まで誰も気が付かなかったのに」


 何故そんなものを自慢しようと思った。と、いうか、この状態の部屋を紅音以外にも見せてるのかよ。そっちの方が驚きだぞ。


 冠木は感心しながら、


「やっぱり少年は観察眼が鋭いな。うんうん」


 なんだか満足そうだった。まあ、本人が良いならいいだろう。


「んで、そんな観察眼の優れた少年は、なんの報告をしてくれるのかな?」


 急旋回。葵ほどではないけど、この人はこの人で話がいったりきたりするな……


 紅音は簡潔に、


「それなら簡単です。先生の依頼が終わったって話です」


「終わった……?依頼……?」


 何故そんな顔をする。なんのことです?って付け加えたくなるだろう。


 やがて冠木は記憶を取り戻したのか「ああ!」と手を叩いて、


「そうか、月見里やまなしの。え、終わったって、友達、出来たのか?」


 どうだろうか。


 出来たと言えば、言えるかもしれない。


 少なくとも、葵は月見里が友達かと問われたら、否定することはないだろう。彼女はそういう人間だ。


 だから、後は月見里さえ問題なければ、友達が作れたと言っていい。従って依頼は成功だ。ただ、


「このままなら問題なく出来るってところでしょうか」


 それはあくまで紅音からの視点だ。葵がいつでもオールオーケーだったとして、月見里が踏み込み切るには、もう少し、時間がかかってしまうかもしれない。


 もし、そうだとすれば当然、葵の仲介ももう少し後の話になってしまうに違いない。


 従って、現時点で言えるのは「このままなら問題ないという状況にまできた」ということだけだ。


 だからそのままを伝える。


 しかし、それを聞いた冠木の第一声は、


「え、少年は月見里のことを嫌いなのか?」


「…………はい?」


 意味が分からなかった。流石の冠木も話を端折りすぎたと思ったらしく、


「あーいや、ちょっと言い方が悪かった。これだと意味が分からんよな」


 その通りだ。良かった。冠木がどこか遠くへ行ってしまったのかと思った、


 そんな彼女は腕を組んで少し考えたのち、


「その辺、座っててくれ、今コーヒー淹れてくる」


 とだけ言い残して、部屋の奥へと消えていく。


 紅音はあたりを見回しながら、


「いや、その辺に座れるところなんか……」


 あった。


 ちょうどいい座椅子があるじゃないか。


 恐らくは冠木が使っているのだろう。


 ちなみにその近くには一体いつから引きっぱなしなのかも分からない、万年床と思われる布団があった。一応掛布団が畳んであるだけマシといったところか。


 そんな光景を眺めながら、座椅子に腰かけて待っていると、


「それを選ぶあたりが、少年らしいよねぇ」


 苦笑いした冠木がそこにはいた。手にはグラスコップが二つ。どうやらアイスコーヒーのようだった。


「そんなものがこの部屋にあったなんて。そう思わざるを得ないのだった」


「出てる出てる。聞こえちゃいけないモノローグがはみ出てるよ、少年」


 おっといけない。あまりにも衝撃的だったもので、


「ほい」


 そんな言葉もつっこみ一つで流し、片方のグラスを手渡してくる。


「ども」


「ガムシロとかいる?」


「ガムシロ三つの、ポーション一つで」


 冠木は苦笑いし、


「相変わらずだねぇ、ほれ。受け取れ甘党」


 ポケットから出したガムシロップたちを投げてよこす。複数あるものだからバラバラと散らばるが、そんなことは全く気にしていないらしい。


 そんな彼女は布団の上にどっかりと陣取り、


「で、だ。あ、飲みながらでいいよ。で、だよ。少年。単刀直入に聞くよ?君は月見のことをどう思っているんだい?」


「!?」


「うわっ!?」


 危ない。思わず吹きそうになった。ただ、それを我慢して飲み込んだせいで、気管に入ってしまった。紅音は何度も咳払いし、漸く落ち着いたのち、


「ごほん……え、今なんて?」


 冠木は大分ビビりながら、


「いや……月見里のことをどう思ってるのかなって……」


 どう思っているか。


 そのフレーズは、取りようによっては恋愛的な意味を含むように見える。


 が、今回に関しては恐らくそうではない。


 分かっているのだ。


 ただ、突然振られると、そうはいかないものなのだ。人間の脳というのは不意打ちに弱い。


 紅音はコーヒーと手近にあったテーブルに置いて、


「どう思ってると言われても困りますけど……まあ、全力で後ろ向きですよね」


「ほう」


「なんていうかな……色々頭は回るんですよ。回るんですけど、その思考回路が全部「自分が悪い」を前提にしてるんですよ。だから「迷惑をかけたらどうしよう」とか「自分が何かしちゃったんじゃないか」っていう思考が先行する。実際はそんなことなくても、です。だからなんじゃないですかね。友達が出来ないのも。話しかけて、反応してもらえなかったら、自分は嫌われてるんじゃないか、迷惑なんじゃないかって思っちゃう。で、話しかけること自体をやめちゃう。なんか、そんな感じに見えましたね……って、どうしたんですか?」


 気が付くと、口をぽかーんと開けたままの冠木がそこにはいた。取り合えずアフターデスソースでも流し込んでみたくなる絵面だな。


 そんなスイッチオフみたいな状態だった冠木だが、漸く再起動し、


「え、めっちゃよく見てるじゃん。なんで?好きなの?」


 何故そうなる。紅音は淡々と、


「違いますよ。ただ、見てるとそんな感じに見えたってだけです。これでも一応人の気持ちとか、ちゃんと考えてるんですよ?無視することが多いだけで」


「うわっ、タチわりぃー……」


「なんとでも言ってください。ともかく、そういう感じなんで、一度仲良くさえなってしまえば、後はトントン拍子だと思いますよ。実際、中学校の友達はいるみたいですし、高校になったから急に友達が出来なくなるってこともないでしょう。ようは、きっかけなんですよ、きっかけ」


 そんな語りを冠木は一言で、


「そんだけ分かってるなら、西園寺さいおんじが友達になってやればいいのに」


 またか。


 またそれか。


 どうしてみんな揃いも揃って紅音と月見里を友達にしたがるんだ。


 紅音は再び同じ理屈を取り出す。


「だからそれは相手のことをよく知ってからでないと」


「でも少年は月見里のことをよく知ってる。私でも気が付かないようなところにも気が付いてる。それじゃ駄目なのか?」


「そ、それは」


 困る。


 何が困るのかと言えば、冠木がいつになく真剣な表情をしているからだ。


 沈黙が支配する。


 先ほどからずっとついていたと思われるテレビが、コーヒーのグラスに向かって芸能人の不倫問題について語りつくしている。コップに入っていた氷がからりと音を立てる。


 紅音は絞り出すように、


「……俺は、確かに月見里のことを“分析”にかけました。でもそれはあくまで“分析”ですよ?事実じゃないです」


 嘘だ。


 自分の分析に疑いなど持ったことは無かったはずである。


「それに、もしそれが事実だったとしても、相手がいるものです。月見里は俺のことをまだ知らない。知っているのなんてせいぜい成績がいいくらいですよ。それは判断材料としては乏しい」


 嘘だ。


 月見里は人をよく観察する。


 そして頭が回るのだ。


 さっき自分で言ったではないか。それならば、彼女は、他の人間よりもはるかに西園寺紅音という人間を理解して、それでもなお友達になろうとしているのではないか?


「そんな判断材料で友達になっちゃ駄目ですよ。特に俺ですよ?葵じゃないんですよ、俺は。俺が友達になろうって思って、月見里がいいっていっても、それで万事解決じゃないんです」


 言い切る。


 再びの沈黙。


 テレビは相変わらず聞く耳も持たないグラス相手に明日から暫くは天気が崩れるぞと忠告をしている。


 冠木は一つ息を吐いて、


「分かった」


 分かってない。分かってないはずである。これだけの付き合いだ。その顔が納得した色に変わっていないことくらい分かる。


 ただ、それを指摘するのは明らかに墓穴を掘ることになる。紅音だって、目に見えた地雷原に飛び込んでいくほど馬鹿ではない。


 冠木はパンと手を叩いて、


「少年は甘いもの好きだよな?」


 一瞬何が言いたいのか分からなかった。冠木は再び部屋の奥へと行き、積みあがっていた箱の一番上を取って戻ってきて、


「これ、食べるか?」


 バウムクーヘンだった。しかも結構いいやつだ。


「これ、源五郎げんごろうのじゃないですか。どうしたんですか?」


 説明しよう。源五郎とはバウムクーヘン専門店としてオープンしたもので、最近はプリンをはじめとした様々な洋菓子を展開しているブランドだ。ここのバウムクーヘンは大変美味なのだが、いかんせん高校生が「ちょっとおやつに」と買うレベルではない値段をしているので、なかなか手が出せないのだ。冠木は得意げに、


「ふふん。お歳暮のお返しでね。カタログにあったから、注文してみたの。期限が半年っていうから、ついつい放置しちゃってたんだけど、整理してるときに思い出してさ」


 お歳暮なんて概念がこの人のあったのか。そっちの方が驚きだ。


 それはともかく、


「いいですね、ちょっと分けてくださいよ」


「いいよ。ただし!一つ条件があるけどね」


 条件。


 なんだろう。彼女が出してくる条件なんてろくなものでないことが多すぎる。紅音は思わず身構えるが、


「そんなとんでもないことじゃないって。ほら、あちらをご覧ください」


 そう言って指し示されたのは流し。と、なれば答えなど一つである。


「洗い物がさ、たまっちゃってて。やってくれると嬉しいなぁ……なーんて」


 人差し指同士をつんつんする。どうやら洗い終わったお皿の奥に隠れていたらしい。やっぱりこの人をここに住まわせておくのは駄目じゃなかろうか。

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