3.AまたはB。あるいはそれ以上。

 くるくる。


 悩んでいた。


 くるくるくるくる。


 悩みまくっていた。


 くるくるくるくるくるくる。


 紅音くおんは一人、思索にふけっていた。


 場所は二年A組の教室。


 時間は五時間目。


 今日の授業は数学だった。


 紅音の机の上には、取り合えず広げてある数学の教科書と、いつもならば問題を解くために開かれていることの多い問題集と、その問題を解く際に用いているノートの三つが、重なるようにして開かれている。


 かなり遠目に見れば、きちんと授業を聞いているように見える絵面だし、やや近くから見れば、授業は聞かずに問題集を用いて自習をしているようにも見える。


 ただ、この日の紅音はそのどちらでもなかった。


 くるくるくるくるくるくるくるくる……


 紅音はただひたすらに手元のシャープペンシルを回転させる。


 何も遊びでやっているのではない。これは彼のちょっとした癖なのだ。


 何か考え事をするときにはいつも、手元にあるものをなんとなしにいじってしまう傾向がある。


 ちなみにこれは、自分でも意識しているのだが、かといってやめられるものではなく、今日もまた、思考の海をさまよう旅路の、欠かせないお供となっている。


(どうしたものか……)


 ため息はつかない。


 ただ、ため息をつきたくなる状況なのは確かだ。


 どうしてこんなことになってしまったのか。


 話はほんの数十分前にさかのぼる。



              ◇



「私、なんか悪いことしたか?」


 引きつった顔で紅音に問いかける冠木かぶらぎ


 その気持ちは分からないでもない。


 なにせ、彼女や紅音からしてみれば、一連の流れは、


 

 女性生徒A(仮)が突然大声を上げる

 ↓

 女子生徒A(仮)がものすごい勢いで謝りだす

 ↓

 そのまま有無を言わせずに逃亡



 と、言うものだ。ここだけを切り取ると、何かしてしまったような感じがしないでもない。例えば昼間っから盛りあってるところを目撃された、とか。


 ただ、


「それは無いと思いますよ」


「そ、そうか?」


 そう。


 なにせ、女子生徒A(仮)が目撃したのは、なんのことはない。紅音と冠木が普通に話しているところだ。


 もちろん、冠木の服装が雑なことを考えると、教師として認識されなかった可能性はある。ただ、それでも、二人の姿はごくごく普通の男女に映るはずだ。そう、普通ならば。


「ただ、勘違いをした可能性はありますね」


「勘違い?」


 首肯。


「ええ。ほら、彼女早口で男女の機微がなんとかって言ってたでしょ?」


「言ってたっけ?」


「多分。早口だったんで細かいニュアンスは間違ってるかもしれないですが、概ねそんなことを言ってたと思います」


 言葉を切って、


「つまり、つまりですよ。彼女の頭の中では、俺と先生が恋人同士だとして認識されてた可能性があるってことです」


 冠木は目をぱちぱちさせ、


「……マジ?」


「マジです。大マジです」


「や、だって、教師だし、私」


「別に教師と生徒の恋愛が成立しないわけじゃないでしょう。それに、その方が目撃した方からしたら「見てはいけないものを見てしまった感」が強いと思いますよ。それに、先生の服装を考えると学生として見られた可能性はあります」


 そう。


 そこに一つの「勘違い」が発生する原因がある。


 冠木の服装は基本的に実に雑だ。


 体育教師でもないのに、ジャージのまま学校内をうろうろしていることも多く。見た目が若いこともあって、遠目からだと正直教師には見えにくい。


 そして。


「でも、ほら。今日は珍しくスーツなんだよ?」


 冠木は両手を広げて着ている服を見せつける。しかし、


「でも、それ、白衣に隠れて見えないですよね?」


「あ」


 運が悪いことに、今日の彼女は白衣を羽織っていた。本人の弁によれば「養護教諭だって医療関係者の一種でしょ?だから白衣じゃなきゃ」とのことらしいのだが、そのくせ気分次第で羽織ってたり羽織ってなかったりするその上着は、彼女の服装を隠すのにちょうどいい働きをしてしまっているのだ。


 つまり、


「近くに寄ってみれば分かることですけど、遠目から見たら「白衣を着た女子生徒と、制服姿の男子生徒が、ちょっといい雰囲気になっていた」と取られてもそこまで不思議ではないってことです」


 と、いうことなのだ。


 ただ、それでも冠木は納得がいかないらしく。


「そんなことある?だってここ学生相談室だよ?」


「……それをいっちゃうと俺らってなんなんだろうねって話になりません?」


「あー……」


 そう。


 残念なことにここ、学生相談室はあまり生徒の利用率が高くないらしい。


 考えてみれば分かることだ。そもそも学校生活の悩みなど、多くは生徒同士の関係によるものだ。


 したがって、そこで悩んでいる人間が「大人に頼る」などという飛び道具を使うことをよしとするかというと、かなりの確率でノーなのだ。


 そもそもこういう場所を、なにも気にせずに用いれるような人間は、端から学生生活に悩みなど抱えないか、よほど心臓に毛が生えまくっているかのどっちかなのだ。


「ま、そういうことです。学生が使えて、ある程度人目にはつかなくて、それでいて、タダで使えて、ずっといても誰からも文句の言われない場所。流石に盛ったりは出来ないでしょうけど、それ以外のことだったら概ね何も言わないでしょ?」


 冠木はなんだか随分と動揺した様子で、


「そ、そりゃ、そうだけど……え、そういう認識なの?」


 紅音はけろっと、


「さあ?」


「さあ?って……」


「そりゃ、知りませんって。そういうのはそれこそあおいにでも聞いてください。あいつなら詳しいと思いますしね。ただ、俺が知ってる限りではなかったですよ」


「そ、そうか」


「ただ、それをさっきの子がどう判断したかは分からないですけどね」


「そ、そうか……」


 冠木の言葉は文字にしてみれば大して変わらなかったが、その意味合いは大分違うように見えた。まあ、取り合えず納得したのならいいだろう。


 紅音は強引に、


「ってことで、俺はそろそろ教室に戻ります。それ辛いやつ。ちゃんと食べてくださいよ?」


 話を切ろうとする。


 本当は、さっきまで別の話をしていたことを覚えている。それがそこそこ重要な話だったこともまた、分かっている。


 ただ、それはこれ以上踏み込むと、紅音にとっては不利益しかない話だ。


 打ち切れるのならば強引に打ち切る。良いタイミングで妨害が入ってくれたものだと紅音はしみじみと感謝を、


「待って」


 させてくれなかった。

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