カノン
岩田八千代
第1話
季節は巡り、秋。街の銀杏が鮮やかな黄色に染まり、春に桜を咲かせていた木々は燃えるような赤色に染まる。
屋外の空気は乾いていたが、日光が当たり過ごしやすい気候だった。夏の命を燃やすような暑さは薄れ、これから徐々に寒くなっていくという絶望に向かって季節は巡る。
木村(きむら)愛歌(あいか)は今のこの時期が好きだった。愛歌は春生まれだが、春はあまり好きではなかった。雪国は春になると道路の雪が解けてグチャグチャになってすごく歩きづらい。進学して雪のない土地で暮らすようになったが、春のあのソワソワする感覚はあまり好きではなかった。
北国に出てきて驚いたことは、本州は秋になったら金木犀の香りがすることだ。北海道には金木犀はない。静かな夜にどこで咲いているか分からない金木犀が香るのを嗅ぐと、まるで異世界に迷い込んだのではないか、と思えた。
それまで金木犀は芳香剤の香りしか知らなかった。自然の金木犀の香りはもっと上品でそれでいてガツンと香る。
その日の夜は自分の部屋に居てもレポートが全然はかどらなかったので、近所の喫茶店に行くことにした。レポートが行き詰ったことへのリフレッシュの意味合いが強いかもしれない。前に行った、コーヒーが美味しくて雰囲気のいいお店。昭和からやっています、といった佇まいでお店のマスターは人のよさそうなお爺さんだ。愛歌は週に一回くらいのペースで通っている。
今日はあの人はいるだろうか、という仄かな期待を込めてドアを開ける。
「いやっしゃい」
「こんにちは」
マスターはニコニコして、
「いつもの?」
と聞いてくる。
「はい、ブレンドコーヒーひとつお願いします」
「はいよ」
座席をサッと見回した。このお店はコーヒーが有名だから、結構コアなお客さんが来ていたりする。
今日は、サラリーマン風の男性がひとり週刊誌を読んでいただけだった。愛歌は当てが外れた気分がしたが、気を取り直してお冷を一口飲んだ。
愛歌にはお目当てのお客さんがいる。その人を見るのが好きだった。
リンゴーン。
「いらっしゃい」
ドアのベルを鳴らして入ってきた女性にハッとする。お目当ての人だったからだ。
その女性はべらぼうに綺麗な人で、短髪の黒髪が横顔のシャープさを引き立てている。この人が髪を伸ばしてもきっと似合うだろう。でも短髪も素敵だ。
服装も男性的なマニッシュな雰囲気を醸し出しているが、どこか垢ぬけていて妙にセクシーなのだ。
愛歌はこの名前も知らない女性をこっそり見つめることが好きだった。自分が同性愛者かどうかまでは分からない。普通に男性を好きになることもあるし、まだ決められないと思っている。
それにこの女性を見つめる気持ちは恋というよりは、ガラスケースの中の美しい人形を見つめる感覚に近い。綺麗なものを愛でる。その時間が至福だった。
女性が注文を頼んだ後スマホを見ているのを盗み見する。自分も髪を短くしてみたいと思うが、髪質が剛毛だから維持が大変そうという思いがあって踏ん切りが付けられない。中途半端に短くすると爆発して大変そうだ。
読書しているふりをしながら短髪の女性を見つめる。愛歌にとって幸せな習慣だった。
アルバイトの帰りに書店に寄って本を買う。今日は好きなコミックスの発売日だから楽しみでワクワクしている。入口ですれ違った人を見てハッとした。
(似てる……)
いつもの喫茶店で愛でている短髪の女性とすごく似ている男性とすれ違った。あの似方は尋常じゃない。血縁関係があるとしか思えない。
「あの……!」
「はい?」
男性は怪訝そうに振り返った。お前誰? とでも言いだけな顔をしていた。愛歌は考えなしで声を掛けたことを後悔した。
「いえ。すみません。知っている人に似ていたもので」
「それってナンパすか?」
「ナンパ?!」
「冗談すよ」
男性がクッと笑った。あの女性が笑った顔を見たことがなかったので笑ったらこんな感じになるのかな、と思ったらときめいた。
「じゃ」
とだけ言って男性は去って行った。愛歌はもっと話してみたいと思ったが、それ以上話しかけることができなかった。
大体知らない男性と話せる話題なんてないじゃないか。自分に言い聞かせるも、離れがたい気持ちがするのも偽らざる思いだった。
次の週、いつもの喫茶店で例の女性の横顔を眺めながら、話しかけてみたいなという欲が初めて湧いた。でもその行為は美しい名画に話しかける感覚に近い。
変な人認定されたら立ち直れないかもしれない。
今日も彼女は美しい。
ある日大学のキャンパスでお昼ご飯を食べに食堂まで歩いているときに、見たことのある顔を見かけた。あのクリソツ男性だ。同じ大学だったんだ。
「あの……!」
「あんた、どこかで」
「前にすれ違いましたね」
「あー、あの変な女」
変な女?! ダイレクトすぎるだろう。
「一人ですか? これからお昼ですか? ご一緒してもいいですか?」
「あ、ああ。別にいいよ」
私の押しに根負けしたのか男性は承諾してくれた。
男性は食堂でカレーセットを頼むとカレーに醤油をかけた。
「学食のカレーって醤油かけると蕎麦屋のカレーみたいになるんだよな」
「そうなんですね」
男性がカレーを勢いよくかき込むと、水を飲みながら、
「で、あんたは誰なの?」
「私ですか? 私はこの大学の教育学部一年の木村愛歌、ここの学生です」
「そりゃどうも。俺は工学部。って、ここの学生だろうことは俺でも予想はつく。そうじゃなくて、なんで俺に構うんだ?」
それは、気になる人とあなたがそっくりだからですよ、と言いたかったが何から説明していいか分からず黙ってしまった。
「だんまりか。なんか俺に一目ぼれしたとかそんなんじゃなさそうだしな」
するどいな、男性。
「お名前は?」
「川谷(かわたに)昴(すばる)」
「川谷さんってご兄弟いますか?」
「昴でいいよ。なんでそんなこと聞くんだ?」
「それは……、お姉さんとかいます?」
昴さんの質問を無視して勇気を出して尋ねると、昴さんは苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙ってしまった。
「いたらあんたと何か関係があるのかよ」
「えっ」
あると言いたいが、残念ながら現時点ではほぼない。見ているだけだから。
「俺もう行くから」
昴さんは不機嫌そうに出て行ってしまった。
賑やかな食堂に取り残された私は、繋がれそうな糸が断ち切れたような心細い感覚に陥った。
昴さんはお姉さん(もしかしたら妹?)と仲が良くないのかもしれない。そんなことをモヤモヤと考えていると、声を掛けられた。
「愛歌―!」
「どしたのいっちゃん」
いっちゃんは穂村育(ほむらいく)という、身長が小さい可愛い女の子で同じ学部の学生だ。
「愛歌今日部室行く?」
「どうしようかな、今日バイトある日だから寄らないと思う」
私たちは女子テニス部に所属している。高校の部活よりはずっと緩い、いかにも大学のテニス部だ。
「私そろそろ佳緒先輩に会わなと窒息しちゃいそうだよ」
佳緒先輩というのは三年の文学部の和泉佳緒先輩で、色白で華奢な綺麗な先輩のことである。
「佳緒先輩の匂いがかぎたいー!」
いっちゃんは佳緒先輩のことが大好きなのだった。
「それ人がいるところで言っちゃダメ、ただの変態になるから」
「愛歌は好きな人いないの? 好きな人ができると世界が一変するよ」
「そうだね、いっちゃん見てると楽しそうだね」
私がこのとき思い浮かべたのは、喫茶店の君だか昴くんだか分からなかった。浮かんだ横顔はシャープで切れ長な目だった。
次の日にあの喫茶店へ行った。ニ十分くらいしたらあの女性が訪れた。
私は一生分の勇気を出して話しかけた。
「あの、こんにちは」
「ああ、こんにちは」
勇気を振り絞る。
「隣、いいですか?」
「いいよ」
女性はにこりともしないから本当にいいのか判断付かなかったが、言葉を額面通りに受け取って座ることにした。
「あなた、ここにたまにいるわよね」
認知されていた?! 驚いていると、
「そんなに驚かなくても」
どうやら顔に出ていたらしい。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「平島ベガ」
「ベガさん」
女性の名前を噛みしめる。
「あなたは?」
「木村愛歌です」
「あの、平島さんは」
「ベガでいいよ。何?」
「ベガさんはお兄さんか弟はいますか?」
「うん、いるよ。弟だけど、生意気なのが」
「ホントですか? 私その人知っているかもしれないです」
言いながら気が付いた。あれ、名字が違う。
「小学校の頃に親が離婚して離れたんだけどね。どこで会ったの?」
「同じ大学です」
私はほぼ確信した。昴くんはベガさんと姉弟だ。表情があまりにも似ている。切れ長の目がこちらを見ている目線の角度も、前髪をかき上げる仕草もよく似ている。
「あの子とは喧嘩別れみたいな形になっちゃったから、どうにかしたいとは思っていたのよね」
私のお節介魂がむくむくと沸いてきた。
「あの! 良かったらお膳立てしますか?」
「え?」
私は昴くんとベガさんを引き合わせる計画を立てることにした。ベガさんは会いたがっているけれど、昴くんはあまり会いたいとは思っていないような口ぶりだった。さて、どうするか……。
特に何も思いつかないまま朝になってしまった。仕方がないから大学へ行く。
「どうしたものかな」
こうなったら当たって砕けろだ。なるようになるさ。口ずさむ鼻歌が引かれ者の小唄になりませんように……。
大学構内は狭いようで広い。お昼時にこの間会った第二食堂まで行って昴さんに会えるかどうかは賭けだったが、今日もいてくれた。運が良いの悪いのかは分からない。
「こんにちは」
「ウっス」
昴くんは特に何も言わずに隣に座った。話が早い。
「会ってもらいたい人がいるんだけど」
「それって俺の姉貴か?」
「おそらくは」
昴くんは難しそうな顔をしながらカレーを食べていた。
「よっぽどカレーが好きなんだね」
「食堂で美味いのこれくらいだろう」
「そうかな」
普通に他のメニューも美味しいと思うけど。
昴くんはカレーを食べ終えて水を一気に飲み干した後、
「別に会ってもいいぜ」
「え? ホントにいいの?」
「いい加減俺もけじめつけたいと思っていたしな」
まるで遠くを見るような目だった。愛歌には見えない過去を視ているのだろう。
その少し寂しそうな横顔は、ベガさんと本当によく似ていた。
私は昴くんをあの喫茶店に連れて行った。ベガさんと会う約束はしていなかったが、きっと来るという予感はしていた。それは動物的な勘だ。
三十分くらいコーヒーを飲んだりして時間をつぶしていたら、いつものようにベガさんが来た。
昴くんとベガさんは対峙するように向かい合った。
「座っていい?」
「いいよ」
姉弟の会話ってこんなに素っ気ないものだろうか。
私が立ち上がり場を去ろうとしたが、
「ここにいて」
と昴くんに言われたので、いることにした。それでも私の場のそぐわなさに戦々恐々としてしまう。
二人は長いこと沈黙していた。水を飲む喉の音まで聞こえてきそうだった。
「昴、元気だったの?」
沈黙を破ったのはベガさんだった。
「ああ」
「そう」
また沈黙。
「父さんはどうしてる?」
「父さんは相変わらずだよ。相変わらずの仕事人間。でも元気にしている」
「そう。良かった。母さんも元気よ」
私はいろいろ訊きたかったが、口をはさむのを憚られた。完全に余所者だからだ。
「あの時は、ごめんね」
「もういいよ。昔のことだし」
「でも……」
「もういいって」
二人の姉弟の間に過去に何があったのかは分からない。あとで聞こうと思う。
「でも会えてよかった……と思う」
昴くんが想いを伝える。
「一生会えないかもって思っていたから」
「そうだね。良かった」
二人は優しく笑い合っていた。
晩秋の頃、すっかり冬の気配が街に漂っていた。
昴くんとの帰り道、
「子どもの頃姉貴と喧嘩したんだ」
ぽつぽつと話す。
「俺とクラスの女子との関係を揶揄われて、俺がキレてそのまま喧嘩別れみたいになってて」
「そうだったんだ」
「ずっと気がかりだったってのはあったんだ。どうしているか気になってたし」
「会えて良かったね」
「まあな」
昴くんが少し申し訳なさそうに、
「なんか巻き込んですまなかったな。正直俺だけじゃ会う勇気なかった」
「そうなの?」
「姉貴と会ってなさ過ぎて、どんな顔したらいいか分からなかったと思う」
「そう。少しは役に立てたなら、良かった」
「ああ。ありがとな」
昴くんが素直に感謝を述べるのは照れ臭かった。でも昴くんも照れ臭そうにしているので、私たちは互いに照れていた。
「で、昴とは会っているの?」
ベガさんは頬杖をついて面白そうにこちらを見ている。
「使っている食堂が一緒で、たまに顔を合わせる程度です」
「そうなの」
ベガさんとはいつもの喫茶店でたまに会って話をするようになった。遠くから見つめていた日々からはすごく進歩したと思う。
ベガさんはフリーのライターをしているらしい。喫茶店に来ているのも仕事の気分転換だとのことだ。いつもメイクをバッチリキメているので家でする仕事だとは想像がつかなかった。人とは意外なものだと思う。
「私ね、もうすぐ結婚するの」
「そうなんですか。おめでとうございます!」
「だから弟と再会できてよかった」
ベガさんがはにかむ。少し幼い印象を与える笑顔だった。
「あなたは好きな人いないの?」
「好きな人ですか……」
つい最近までベガさんが好きでしたとは言いづらい。好きなのかどうかも分からないし。
愛歌は恋愛とは海外の旅行パンフレットを眺めるみたいだと思っていた。いつか行ってみたいけど、それは今じゃない遠い未来。
恋愛に憧れはあるけれど、それは今来るものじゃないという思いが強かった。
「昴とかいいと思うんだけどな」
「昴くんですか? たしかにカッコいいですしいい人だとは思いますけれど」
「じゃあ考えてみて?」
クスクス笑うベガさんは悪だくみを企む子どものようだった。
毎週火曜と木曜は第二食堂で昴くんと一緒にお昼ご飯を食べるのが習慣になっていた。お互いポツポツと近況報告したり、ベガさんの話をしたり、そんな感じだ。
(ベガさんがあんなこと言うから意識しちゃうな……)
「なに人の顔じろじろ見てるんだよ」
「そうかな、見てた? ごめん」
「いや、謝ってほしいんじゃないんだけど」
昴くんはいつものカレーを食べ終えると、
「なあ、今度出掛けないか?」
「え?」
「ダメか?」
昴くんは照れくさいのか横を向いて尋ねてくる。
「うん、楽しみにしてる」
とだけ答えるのが精いっぱいだった。
私が好きなのはベガさんなのか、昴くんなのか。まだ判然としない。二人とも、とにかく顔が好みだ。あと、話すときの声も好きだ。少し低いトーンで、ぶっきらぼうでいてそれでいて優しい声。
「どんなところに行くのが好きなんだ?」
「そうだね……、書店とか図書館とか、あとは喫茶店」
「喫茶店が好きなの? カフェとかじゃなくて?」
「なんか喫茶店のほうが落ち着くの」
「オッサンぽいな。オッサン女子だな」
「うるせー」
昴くんを蹴る真似をする。昴くんはおかしそうに笑う。
「映画とかどう?」
「映画館か。最近行ってないから行きたいな」
「俺看たい映画あるんだけどどうかな?」
「内容によるかな」
私たちは出掛ける予定を話しながら家路についた。
いざ、約束の日。
私は出来得る限りお洒落をして待ち合わせ場所の駅前に向かった。すれ違う男性にこっちを見られると、自分の格好が変なのではないかと不安になる。
ほどなくして昴くんも来た。
「待った?」
「全然」
「今日、可愛いな」
「え?」
昴くんはそういうことを絶対言わないタイプだと思っていたので面食らった。言った昴くんは耳まで赤くしている。
「じゃ、行くか」
「うん」
隣を歩くのはいつもと変わらないのに、なんだか今日は恥ずかしいような気持ちになる。
「もっと前見てちゃんと歩きな」
「分かってるよ」
映画館でポップコーンとコーラを買って、座席について彼の横顔をこっそり見る。綺麗な横顔だ。映画の光に照らさせて、余計に彫が深く見える。隣が気になって映画の内容はあまり頭に入ってこなかった。
「犯人意外と簡単だったな」
「そうだね」
私たちはいつもとは違う喫茶店に来ていた。映画館から近い昭和以前からありそうな古い喫茶店で(そんなことはないと思うけれど)、昴くんと私はコーヒーを飲んでいる。
「ネットによると、原作と犯人違うらしいから原作も読んでみようかと思う」
今日の昴くんは饒舌な気がする。いつもそんなに喋らないのに意外と話すタイプなのかもしれない。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。楽しそうだなあと思って」
「まあ、お前と出掛けられるからちょっと浮かれてた」
「へ」
「屁じゃねえよ」
もしかすると。もしかしなくても昴くんは私のことが好きなのかもしれない。駆け引きなど入れずにストレートに気持ちを伝えてくるところが心憎いと思う。私も回りくどいタイプよりは好きなタイプだ。
胸にある人の顔が横切った。
それは気のせいだと自分に言い聞かせる。
好意を持たれているのなら、そっちのほうがいいじゃないか。
人は誰にだって幸せになる権利がある。私にだってある。
昴くんの笑っている顔をずっと見ていたい。それは偽らざる気持ちだった。
カノン 岩田八千代 @ulalume3939
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