8-8 あるべき型

 世暦せいれき1914年12月25日


 出兵が決まり、その準備に励む第十一独立遊撃大隊だったが、表情の曇りは比較的薄かったと言える。


 オリヴィエ要塞攻防戦でもロストック中尉を始め多くの仲間が死んでいったが、彼等の上官には《霧の軍師》と《剣鬼》という従うになる名指揮官達がトップと二番手として存在している。祖国が攻撃されているという未曾有の状況でありながらも、「今回も何とかしてくれるだろう」という楽観主義が生まれていたのだ。


 それに何より、出兵のお陰で副隊長の地獄の訓練フルコースを平らげさせられずに済んだのが大きい。一部では逆に歓喜の声が上がっていた程である。


 当然、リーズスティーンツ地方に生家がある者達は完全なる楽観主義に身を委ねる事は出来なった。それでも、他の部隊に居た場合に比べれば楽天的に捉えられた事だろう。


 そんな風に、兵士達が武器を運び、磨き、道具を整え、荷物を確認したりする中、最も表情を沈ませていたのが、官舎で書類仕事に追われるエルヴィンであった。



「そうだよね、あるよね、出兵だもんね……」



 目前に鎮座する分厚い書類の束に嘆息をこぼしたエルヴィン。右を見れば、(今回の昇進は無かった)副官代理のプフォルツハイム伍長が書類の片付けを手伝ってくれたが、(此方こちらは昇進した)ビーレフェルト曹長が戦傷で居ない事により処理能力の低下してしまっていた。つまり、彼への負担が倍増していたのだ。


 「アンナが居れば、もう少し楽が出来るんだけど……」と、また寂しさが湧き出し、溜め息と共に言葉にしそうになった時、白でかき混ぜられた黒い飲み物が入ったカップが、彼の手元に置かれた。



「大隊長、大丈夫ですか……?」



 横から現れた獣人の少女シャルの可愛らしく心配そうに見詰めてくる瞳に、エルヴィンは頬杖をつきながらニコリッと笑みを浮かべる。



「大丈夫だよ。ただ単に嫌な事を押し付けられてえてるだけさ」


「そうだメールス一等兵。大隊長殿は面倒臭いだけだ。心配する必要はない」



 プフォルツハイム伍長の容赦無い物言いに、エルヴィンの顔が頬杖からずり落ちた。



「伍長……私に対して容赦が無くなってきたよね……」


「そりゃあ……毎度、仕事を小官達に押し付けて脱走してたら、敬う気は失せますよ」


「……君、最近アンナの毒舌が板に付いてきたよね? 余り彼女と接してない筈なのに……」


「大隊長と過ごすうちに自然と身に付いたんですよ。なるほど……フェルデン中尉の容赦の無さも納得だ」


「不味い……仕事強制装置が増えた」



 壮年で歳上の副官代理に言い負かされ、表情を沈めるエルヴィン。プフォルツハイム伍長は彼と大分歳に開きがあるのだが、歳下なのに目障り、という感じはない。プフォルツハイム伍長自身の性格も勿論あるが、エルヴィンが威張らず、容赦無い会話も許容してくれるので、妙な堅苦しさが無く、無駄に敬う必要も無いから嫌う理由も薄いのだ。


 そんな歳も階級も感じさせない、チョピリ辛いが穏やな空気に、シャルは少し楽しそうにクスリッと笑いをこぼしていた。



「そういえば大隊長……フェルデン中尉はいつ戻ってくるんですかね?」



 プフォルツハイム伍長の質問に、エルヴィンは考える様に天井を見上げた。



「ん? そうだね……年明け六日後の出兵までには戻ってくると思う。戻るっていう手紙も届いたしね」


「そうですか……と、なると、小官もそろそろ御役御免ですかね」



 プフォルツハイム伍長の発言に、シャルがピクリッと反応する。



「御役、御免……」



 何かに縋るようにシャルはトレーを抱き締め、その様子に気付かずにエルヴィンは眉をひそめる。



「なんで、アンナが戻ると伍長が御役御免になるんだい?」


「小官はフェルデン中尉の代わりに副官となった訳ですから……本当の副官が戻れば役職は解かれる筈ですよ」


「まぁ……そうか……」



 呑気に考え込むエルヴィンの横で、シャルは何か言いたげに口を開くが声が発せられる事はなかった。


 彼女もアンナの代わりとして此処ここに居させて貰っている。ならば、プフォルツハイム伍長と同じく、従者代理とはいえ、本来の人物が戻る以上、エルヴィンの隣に居る理由は無い。


 だけど、彼女としては、もっと彼の隣に居たかった。役割を解かれるのが嫌だった。


 でも、それを阻止する口実は無い。この想いはただのワガママなのだから。


 想いだけが先走り、口をパクパクさせながら現実に抑制され、声が発せずに居るシャルの横で、エルヴィンはまた何事も無いかの様に笑みを浮かべて口を開く。



「アンナが戻って来るからって、副官代理という名目が無くなるだけで、その役割を与えない訳じゃないよ? むしろ、今後も手伝ってくれると助かる。私の仕事が減るからね」


「ウゲッ、仕事を押し付ける気満々ですか……」



 顔をしかめるプフォルツハイム伍長とは裏腹に、シャルの表情はこの時バァアッと明るくなった。



「私も、また大隊長の所を訪ねても良いですか⁉︎」


「ん? 駄目な理由があるのかい?」



 口元の緩みを抑えられず、シャルの表情にあでやかな笑顔が浮かべられる。



「じゃあ、暇が出来たら必ず訪ねますね? その時は美味しいカフェオレを淹れますから!」


「ありがとう……ん? いや、私が飲んでいるのは!」


「ミルクと砂糖をタップリ入れたコーヒー、ですよね。わかりました、ミルクと砂糖をタップリ入れた美味しいコーヒーを淹れますね?」



 笑顔のままクスリッと笑うシャルに、エルヴィンは、なんか子供相手の大人の対応をされた様で、気恥ずかしく頭を掻いた。



「さて、大隊長……そろそろ手を動かしましょうかね



 プフォルツハイム伍長に後ろ髪を引かれ、現実にエルヴィンは引き戻された。



「伍長……切り替えるのが早いよ。そんな柔軟に対応する能力は私には無い。だから、少し休もうと思う」


「始めて三十分も経過していませんよ。何より、時間に比例した処理数が低いんですが? まだ数枚じゃないですか」


「数枚で私の能力は限界に達してしまったんだ。つまりは疲れたんだ。このままでは満足な仕事が出来ないだろう。よって、休むべきではないだろうか?」



 こうなるとテコでも動かないエルヴィン。少なくとも、プフォルツハイム伍長ではどうしようもなく、嘆息をこぼして受諾するしかなかった。



「少し休んだらちゃんとして下さいよ?」


「わかってるよ」



 空返事なのを自己の認識内に留めさせ、机に足を置き、軍帽を顔に掛け、眠ろうと背もたれに背を預けたエルヴィン。明らかに最低小一時間はサボる気満々である。


 それにはプフォルツハイム伍長はまた呆れ、シャルもポカァンと彼の姿を眺めるだけだったが、部屋の扉が開かれた事で、二人は其方そちらを振り向き、思考はその人物へと向けられた。


 その人物は、此方こちらを見て驚くプフォルツハイム伍長とシャルに言葉を発するのを制止させると、ゆっくりとエルヴィンの横へと歩き、彼の椅子を蹴って、その背中を床へと激突させる。



「痛って!」



 思わず声を出して起き上がり、軍帽を床に落とし、背中をさすったエルヴィンは、この原因を作り出した横の人物を見上げた。



「休むのを許可しておいて暴力で訴えるって、流石に酷過ぎないかい? 伍長……」



 見上げた先に見えた顔。それは当然、プフォルツハイム伍長の少し老けが入ったものではなく、精巧さと洗練さにおいて輝かしく、芸術的で若々しい可憐な少女のものであった。



「相変わらずですね、貴方は……少し直っているかもと期待したんですけど」



 呆れた後、クスリッと笑いをこぼした少女。エルヴィンの右腕にして従者にして副官である森人エルフの幼馴染、アンナ・フェルデンがエルヴィンの目の前に立っていたのである。



「フェルデン中尉!」



 アンナの下に人懐っこく尻尾を振ったシャルが駆け寄った。



「元気になられて良かったです! もう身体は大丈夫なんですか?」


「ええ、大丈夫ですよ? この通り完治してます。この人がまたダラけていないか心配で、オチオチ休んでも要られませんしね。それに……」



 アンナの口元がシャルの耳元へと近付けられる。



「貴女には負けたくありませんから……」



 離れ、ちょっと不敵に笑みを浮かべるアンナに、シャルも精一杯のそれで返す。



「これから、アンナさんって呼んでも良いですか? 私の事もシャルって呼んで頂いて構いませんので」


「分かりました、シャル。これからも宜しくお願いします」



 見えない火花が散っている様子に、鈍感なエルヴィンは全く気付く様子はなかったが、プフォルツハイム伍長はありありと見えていたらしく口元をひきつらせていた。


 そんな伍長へ、アンナがいつもの礼儀正しい仕草と表情へと戻して振り返る。



「プフォルツハイム伍長も私の代わりを引き受けて下さりありがとうございました。さぞ大変だったでしょう」


「まぁ……大隊長が仕事から逃げるたびに引き戻さなきゃなりませんからね。中尉の苦労がようやく理解出来ましたよ」


「君達……再会早々、私への毒を吐かないでくれよ……」



 肩を落としたエルヴィンだったが、先程からの困惑と戸惑いを決着させる様に頭を掻くと、姿勢を正し、優しい笑みを浮かべ、彼女に会ったらまず言いたかった言葉を、絶好のタイミングを逸しながらも告げる。



「少し伝えるのが遅くなってしまったけど……お帰り、アンナ」


「はい……ただいまです、エルヴィン」



 笑み向けるエルヴィンとそれを笑顔で返すアンナ。この時、彼に空いていた穴は綺麗に塞がり、彼女にしても本来居るべき場所に戻れた事になる。


 ようやく、あるべき型に戻ったのだな、と、後に仲間達は歓迎を持って森人エルフの副官を出迎えるのだった。

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