第5話  クォーツテール編

―ルノアール邸裏庭―

「……で、何もせずに戻ったわけか?」

「………は、はい」

目を反らすシャウロッテをレオバルトが見下す。

もちろん、その理由はイルカを連れて来なかった事にある。

「彼女はルノアール卿に信頼を寄せています。無理矢理引き離すのは…」

キラキラした瞳が焼き付いている。

彼女からそれを奪うのはあまりに酷だ。

「だからといって、ルノアール卿が理解を示すとは限らない。ルノアール卿に否定されてみろ。それこそそいつを傷つける要因になるんじゃないか?」

もちろん、それもよく考えた。

けれどイルカは伝わる事を願っている。

ルノアール卿は優しい者だと信じている彼女はきっと聞き入れない。

どの決断が正しいのか、答えが出るはずもない。

どんな決断をしようと彼女を傷つける事に変わりはないのだから。

「…仕方ない、俺が直接交渉する。お前に任せた俺の判断が間違いだったな」

イラつくレオバルトにシャウロッテは反論できなかった。

下を向き、肩を落とすシャウロッテをレオバルトが気にかける事はない。

彼の視線はすでに館内を見つめている。

潮風が吹く庭で何を感じとったのか。

「……シャウロッテ、肩を落とす時間はない。急ぐぞ」

レオバルトは笑みを浮かべて歩きだした。



―ルノアール邸地下プール―

「っ……くっ……うぁっ……」

コンクリートの壁に押さえつけられたルノアール卿は首を絞められ、満足に呼吸もできない。

「エド、そんなオジサン、さっさと殺しちゃえばいいじゃない」

セルビーンが退屈そうに眺めている。

ルノアール卿の首を絞めるエドワールは口角を吊り上げ、ゆっくりと手の輪を小さくする。

「ルノアール卿、無知とは恐ろしい事ですね。無知でなかったら、彼女を生かす事もなかったのに」

「あ……彼女がっ……ハッ、ハッ、わい…るだぁ…だと……」

「えぇ。彼女は私達の元へ連れて行き、貴方にはここで死んでいただきます」

紳士的な表情を一瞬見せたエドワールだったが、眼だけは変わらない。

セルビーンは少し離れた場所で、楽しそうに一部始終を見ている。

イルカはルノアール卿の危機に狼狽えるばかりで水槽の中からでは何もできない。

トランスで人型となれば、助ける事が出来るかもしれないが、ルノアール卿の言葉が棘のように刺さっていた。

「「獣人?ははは。そんな化け物がこの世に存在していると言うのですか?そんな化け物、すぐさま殺していますよ」」

ルノアール卿は『イルカ』として、彼女を保護し、『イルカ』として自慢してきた。

彼にとって『獣人』とは、化け物であり、非現実的な生き物で、生を許されないものだった。

ルノアール卿を助けたいという思いと、彼に嫌われ殺されるかもしれない恐怖が交差する。

「さぁ、死を感じてください」

考えている間にも手がくい込んでいく。

「「今はイルカでいた方があなたの為にもなりますから」」

狼の言葉が、ようやく理解できた。

人間は『獣人』を嫌うのだ。

ルノアール卿に嫌われたくはない。

しかし、見殺しにすることはできない。

決死の覚悟で、イルカは水面から飛び出した。

輝く光と共に姿を変えたイルカは、エドワールの腕にしがみつく。

「何を!!?離しなさい!」

どんなに強く揺さぶられようと、決してその手を離さない。

ルノアール卿がまるで悪夢を見ているとでも言いたげな表情を向けていても彼女はエドワールの腕にしがみついた。

「あらあら。遊びすぎたのよ。エド」

後ろから、セルビーンの声と同時に叩きつけられたのは彼女の手だ。

しかし、それは人間と言うにはあまりにもかけ離れた姿をしていた。

「おや、セルビーン、トランスは嫌いだと言っていたではありませんか」

エドワールがセルビーンの腕を見てクスクスと笑う。

その手は長い毛に覆われ、鋭い爪がある。

「あたしは山猫よ、獲物を目の前にしてじっとしてなんかいられないのっ」

ぺろりと爪を舐め、叩き落としたイルカを見下げる。

「イルカちゃんはぁ、殺しちゃダメだけどぉ、抵抗するなら虐めていいわよね?」

セルビーンの目に捕えられたイルカは身動きが取れない。

ルノアール卿はエドワールが見張っている。

逃げられない。

振り上げられた手を止める手段さえないと目を閉じた。

しかし、いつまでたっても痛みは感じられない。

変わりに聞こえた声はセルビーンの悲鳴に近い声だった。

「きゃぁ!何なのよ!あんた!?」

恐る恐る目を開けると、そこに、先程の狼の人間がいた。

「安心してください。あなたを守る為に来ました」

チラリと向けられた目に笑みこそ見せないが、信頼感が漂う。

「信じらんない。あんたあたしの邪魔しないでよぉ!」

飛んでくる腕を軽く払いのけるとセルビーンの腹に蹴りを入れる。

手加減などしていない。

床に落ち、蹲るセルビーンが悔しそうにシャウロッテを睨んだ。

「酷いのね。女の子相手に手加減なしなんて」

すると、シャウロッテは襟元を正しながら

「恐れながら、私は狼です。自然界では敵に雄も雌も関係ないのが一般的かと」

と言った。

一瞬目を丸くしたセルビーンだが、すぐに笑った。

「そぅよね。生きた者勝ちだものね。」

つり上がった目の下に妖しげに浮かぶ赤い弧の中から覗く白い歯は鋭く尖っている。

「だったら、二対一でも、文句ないわよねぇ?そうでしょぉ?エド」

「えぇ、そうですね。セルビーン」

ルノアール卿を捕えていた手を離し、エドワールがシャウロッテの方を向く。

シャウロッテはイルカを守るように構え、睨み付ける。

カツン、カツンと足音が近づく。

まだ、それは遠くだか、確実に近づいている。

ふと、エドワールが笑う。

「セルビーン、ここは引き上げましょう」

その言葉にシャウロッテとセルビーンは驚いた。

二対一で有利な状態にあるというのに逃げるというのだ。

「嫌よ!何を言うの?あたしはこいつを殺さなきゃ気がすまないの!」

フーッフーッと怒りを露にするセルビーンをエドワールが睨む。

それは有無を言わせぬ圧力に思わず一歩下がるセルビーンは、それ以上何も言わなかった。

「彼はブラッセの者でしょう。『あの人』を敵にまわしたくはありません」

一見爽やかな笑みだった。

出口に向かうエドワールをシャウロッテは追うことはしない。

あくまでも目的はイルカの保護だ。

悔しそうにエドワールの後を追うセルビーンは

「次はぐちゃぐちゃにしてやる」

と、吐き捨てた。

去り際に人とすれ違う。

「これは、レオバルト・ブラッセ殿。やはり、あなたの狗でしたか」

「上に言っておけ。今回は単独犯にしてやるとな」

一度も目を合わせることなく離れた二人はそれぞれの顔に笑みを浮かべた。


「シャウロッテ、着せてやれ」

銀のコートを投げ、イルカを指差す。

イルカはトランスをしてから薄いシャツしか身につけていなかった。

涙目のイルカにコートをかけてやり

「慣れれば衣服のトランスも可能になります」

と言った。

事実、シャウロッテのトランスは身に付けているものを全て巻き込める。

そのことを説明しようとしたシャウロッテだが、イルカの顔をみて言葉を止めた。

話など聞ける状態ではなかった。

潤んだ瞳が懸命に見つめているのはルノアール卿のみで、そのルノアール卿はというと、レオバルトに『あれ』は何だと怒鳴っている。

震えた指先がイルカを指していた。

「ルノアール卿、彼女は獣人です。貴方の元においておくわけにはいかなくなりましたので、我々が彼女を引き取らせて頂きます」

「す、直ぐに連れて行ってくれ!あんな…あんな…化け物だったとは…」

イルカがそこに居るにも関わらず口を閉じない。

レオバルトが手を延ばすよりも早く、イルカは自ら立ち上がり

「ルノアールさん、今まで、ありがとうございました。」

と、溢れる涙をそのままに笑ってみせた。

その笑みに、ルノアール卿は言葉を無くし、うつむき

「……気をつけて」

と、こぼした。

ポロポロと涙を流すイルカを連れてシャウロッテは部屋を出る。

その後を目で追うルノアール卿の表情は、娘を見る父親のようだった。

「心配しなくとも、殺しはしませんよ。彼女の意志によりますがね。…何かあったらこちらへ」

一枚のメモ用紙を渡すと足早に立ち去った。

残されたルノアール卿は、水槽に手をあて一人涙を溢した。




―ブラッセ別邸―

「…シャウロッテ、これ、片付けろ」

「っ…は、はい」

投げられた本を受け取り本棚に向かう。

ルノアール卿の一件から一週間が経った。

イルカは本部の施設に連れて行かれたまま何の連絡もない。

その間に小さな以来が二つほど入り、相変わらずレオバルトは睡眠不足だ。

寝込むと決め込んだのか、シャウロッテに本を渡した後は顔を腕で隠して動かない。

それを察して部屋から出ようとシャウロッテがノブに手をかけた。

〈バンッ〉

「よぅ!お二人さん、元気だったか?」

勢いよく開けられたドアの先にいたのは豪快に笑うリオンだ。

「ん?レオ、お前一人か?」

「シャウロッテならそこだ」

指差した先に目を向ければ、リオンが開けたドアに挟まれたシャウロッテがいた。

景気づけにと勢いをつけた扉が直撃したようだ。

顔を押さえてうずくまっている。

「お前、タイミングが悪いんだよ」

腰に手をあてて、悪びれる様子のないリオンに返す言葉がない。

レオバルトもリオンを責める気力が無かった。

「で?用件は何だ?出来る限り手短にしろ」

よほど疲れているのか顔を向けることすらしない。

リオンもそれを承知で来ているらしく、シャウロッテをたたせると勝手に話を始めた。

「この前のルノアール卿の一件で保護した獣人なんだが、特に危険でもねぇし、人間には友好的と判断された。

そこでだ、シャウロッテ同様にブラッセで従者として働かせる事にした。

その方が社会の仕組みやトランスも覚えが早いからな」

二人の脳裏に浮かぶ金糸の少女の最後は声を上げて泣いていた。

ルノアール卿の事を断ち切ったのか、他に希望をみたのか。

何れにせよ、生きていると言うことは、それを彼女が選択したということだ。

「そうか。…で?その報告だけなのか?」

疲れのみられる顔がようやくリオンに向けられるとリオンは尖った犬歯を見せて笑うのだ。

「彼女の意向で、お前の下につける事になった」

扉の外からピョンと中に入って来たのは紛れもなく、あの時のイルカだった。

薄いピンクのワンピースを着た、長い金髪の少女だ。

「アイリン・クォークスです」

その時の笑みは、初めてトランスをしたあの時と同様の輝いた笑顔だった。


―数日前―

ブラッセが所有する施設の中で、一人うつむくイルカの少女は、人として生きるのか、イルカとして生きるのか選択に悩んでいた。

水槽から出て、いろんな人に会った。

施設の人は優しいし、狼の彼が言った言葉ははっきりと覚えている。

しかし、ルノアール卿の表情も焼き付いている。

食欲もない。

時間があれば泣いているくらいだ。

この日も一人で泣いていた。

「よう、嬢ちゃん。面会だぞ」

リオンと名乗るその人は、ガラスの窓から豪快な笑顔を覗かせた。

少女が赤い目を上げると、そこに確かにいたのだ。

優しかったルノアール卿が。

「…この間は、すまなかったね。突然の事に動転していたんだ

許しておくれ」

そっと窓に手を触れるルノアール卿がそこにいる。

検査が終わるまで開かないその窓に少女は駆け寄った。

「ルノアールさん…」

「イルカであっても、獣人であっても、私の自慢の子に変わりはないのにね」

切ない表情を向けるルノアール卿の手に、少女は自らの手を重ねた。

直接触れる事はできないが、それでも十分だった。

「また会えただけでも、私は嬉しいです」

少女は久しぶりに笑った気がした。

たった数日、離れただけなのに、もう、何年も会っていない気分だった。

「よく、お聞き。私は直接お前を世話することは出来ない。

それでも、私はお前に生きて欲しい。

幸せになって欲しいんだ」

切実な想いが伝わる。

真剣に話を聞く少女が何度も頷くのをみて微笑むと

「もし、人として生きるのなら

私から、名前を贈らせてくれないか?


『アイリン…クォークス』


クォーツテールで出逢った、愛しいお前に」

ポロポロと涙が溢れる。

涙が溢れて、仕方がないのに、胸の中が一杯になる感覚を少女は感じていた。

「また、会える日を、楽しみにしています」

リオンが時計に目を向けて、ルノアール卿に声をかける。

面会の時間は限られていた。

「ルノアールさん。私、使うよ!その名前、使うから!」

教えられた敬語を止めて、少女、アイリンは叫ぶ。

ルノアール卿はアイリンに向かって優しく微笑むと、施設を後にしたのだった。

「……アイリン・クォークス……」

ギュッと胸を抱き締めたアイリンは決意した。

人として生きようと。

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