第33話 別れと涙
蝋燭の灯りだけで照らされた廊下を進むミーシャは、一旦その歩みを止めた。先ほどまで聞えていた怒声や叫び、耳障りな聖歌はもう聞こえない。どうやら外の戦闘が終わったようだ。
「死んだら許さないから……」
ミーシャは誰に伝えるともなく呟き、再び前を向いて歩み始める。この先に、何よりも許せない奴がいる。深紅の双眸に怒りを込めてミーシャは礼拝堂の扉を思いっきり蹴破った。
「随分と派手なご登場だな」
教壇を踏み台にし、聖母マリアのステンドグラスを背に立つ男は嫌らしい笑みを浮かべると、そこから飛び降りて言った。
「俺に会いに来たってことは、答えを出したと思っていいんだな?」
「最初に言った通りよ。あたしはテーブルマナーがなっていない人はお断りなの。静琉ちゃんを人質に取ろうとしてたようだけど、残念だったわね」
ミーシャは拳の関節をバキバキと鳴らしながら歩み寄る。しかし、ラウドの表情からは余裕が消えなかった。
「慌てんなよ。トランプにもジョーカーは二枚入ってンだろうが。まだ俺には切ってねぇカードが残ってんだからよ」
ラウドは教壇の裏から縄で縛られた一人の女を引きずり出す。怯えた表情を浮かべた水商売風の女は、どこか見覚えのある面影をしていた。
「この女、誰だと思う? 静琉の母親だよ」
ミーシャの歩みが止まった。
「お願い助けて! ひぃっ!」
震え怯える静琉の母。ラウドの鋭い爪が、彼女の頬をそっと撫でる。薄皮が裂かれ、一筋の傷から血が滲みゆっくり伝った。
「ククク、悪いな。俺はイカサマしてでも欲しいものは手に入れる主義でね。さて、約束の日より早いが答えを聞こうか? その返事次第じゃ、俺はこのカードを切らなきゃいけなくなる。もちろん、言葉通り物理的な意味でだがな」
頬を傷つけた爪を今度は静琉の母の首筋に突き立てる。ラウドの目が「断ればこの女の喉首を掻っ切る」と告げていた。だからミーシャは、固く握った拳を緩めるしかなかった。静琉から母親を奪うわけにはいかない。両親を失ったミーシャには、その悲しさが痛いほどわかるから。そしてもう静琉の泣く顔は見たくなかったから。
「……わかったわ。あなたの言う通りにする」
「おいおい、白けさせンなよ。俺が求めているのはそんな言葉じゃねぇ。わかってんだろ?」
ミーシャにはラウドの求めている台詞が理解出来た。出来れば、例え嘘であってもこんな男には言いたくは無い。それほど女にとっては純粋で尊い言葉だ。しかし、言わねば彼女は殺されてしまう。是非もない。ミーシャは目を閉じて深く呼吸をした。
「……あなただけを愛するわ、ラウド。だからその人を解放して」
「ククク、それでいい。望み通りこの女は解放してやるよ。但し、少しお前にお仕置きをしたらな」
ラウドは鞭を取り出し、手近の椅子を打った。木製の椅子は一発で粉々。生身で受ければ「痛い」で済む代物ではない。
「最高に興奮するだろ? インドで処刑用に作られた鞭でな。こいつで百叩きだ。まず一回!」
撓しなる鞭がミーシャの太股へ当たる。肉は抉れ、血の滴が飛び散る。鞭が直撃した箇所のすぐ側にも細かな傷が出来ていた。ミーシャは我が身を打った鞭を見て、その正体に気付いた。
(棘……!?)
鞭全体には茨のように無数の棘がついていた。脳が状況を認識したら神経のサーキットを激痛が凄まじいスピードで疾走する。
「ああああああ!!」
歯を食いしばることさえ出来ないほどの痛み。失神しないよう堪えるのがやっとの激痛。両膝をついて蹲るミーシャの背中に容赦なく次の一撃が浴びせられた。
「うわああああ!!」
衣服を裂き、皮膚と肉を裂き、抉れた背からは徐々に骨が顔を出す。ヴァンパイアが持つ再生能力で傷はすぐに癒えるが、すぐにまた新たな傷を負わされる。ひたすらそれの繰り返し。銀製の武器でない以上、決して死にはしない。だが、痛みは残る。いっそ死ねた方が楽とさえ思える苦痛がミーシャを襲った。
「これぞまさしく愛の鞭。俺の愛を全身で存分に味わってくれ。それ、残り五十回!」
永遠に感じる時の中で、苦痛に悶えるミーシャ。九十九回目がようやく終わった頃にはミーシャの体は痙攣を起こし、地面には血溜まりが出来ていた。
「ラウドったらやり過ぎよ。あの娘、死んじゃうんじゃない?」
「死なねぇよ。なんたってコイツも俺と同じヴァンパイアだからな」
静琉の母は縛られていた縄をするりと抜けると、すり寄るようにラウドへ身を寄せる。始めからラウドは静琉の母を殺す気は無かったのだ。嵌められたことに気づいても、もう体を動かせる力は残っていない。意識を保っているのがやっとだった。
「よくここまで耐えたな。安心しろ。もうこの鞭は使わねぇよ。ラストの一発はこいつだ」
ミーシャは戦慄した。ラウドが手にしていたものは小さなナイフ。だが、普通のそれではなく銀製。急所に当たればヴァンパイアを滅するに足るものだった。
「俺の愛でお前を苦痛から救ってやるよ」
ラウドは倒れるミーシャ目掛けてナイフを投げた。ミーシャは近づく死に恐怖し目を瞑る。されど訪れぬ死。ゆっくり目を開けたミーシャは、眼前に映る信じ難い光景に愕然とした。
「あ……ああ……そ、そんな……」
ミーシャは小さな背中を見た。両手をいっぱいに広げ、身を呈して襲い来るナイフからミーシャを守った黒髪の少女。静かに倒れるその体をミーシャは慌てて受け止めた。
「静琉ちゃん。どうして……」
ミーシャを庇った静琉の左胸にはナイフが刺さっていた。刃は根元まで刺さっており、血が止めどなく流れている。この傷では五分ともたないだろう。それは誰より静琉本人がわかっていた。けれど、彼女自身にはそんなことはどうでも良かった。静琉は震える手を目一杯伸ばし、声にならない声で母を呼ぶ。
「お……かあ……さん」
「静琉……」
今際の際で母のぬくもりを求めて伸ばされた娘の手。どんなに離れていようが少女は伸ばさずにはいられなかった。例え届かないとしても、それでも届くと信じて。
「だい……すき……」
懸命に伸ばされていた手がゆっくりと落ちる。ミーシャの腕の中で静琉は眠るように瞳を閉じた。
「静琉!」
我に返ったように肩を抱くラウドの手を払い、急いで駆け寄る母。しかし、何もかもが遅すぎた。
「静琉、母さんよ。お願い、お願いだから目を開けて! 静琉!」
人間とはなんと愚かな生き物だろうか。失って初めてその存在の尊さに気付き、涙する。偽りの愛にほだされて娘を傷つけてきた母親の叫びが懺悔のように聞えた。
「お願いよ。お願いだから目を開けて……」
徐々に熱を失っていく娘の手を泣きながら握り締める母。頬を流れる母の涙が静琉の頬を濡らしていた。なんと優しい子なのだろう。暴力を振るっていた母親失格の自分を最後まで慕い、我が身を盾にしてまで他人を守ろうとした。今までの自分の愚かさと我が子の誇らしい成長ぶりを噛みしめ、ただただ涙を流した。
「チッ、もう少しのとこだったのによォ。せっかく血を吸わねぇで生かしておいたっつーのにこのクソガキが。余計な邪魔しやがって」
「返して! 私の娘を……静琉を返してよ!」
「ああ? テメーも散々殴っといてよく言うぜ。今更母親面とか勘弁してくれよ。そういうの反吐が出るんだよ。そんなに会いたいなら、お前も後を追わせてやるぜ!」
ラウドは再び銃を構え、銃口を静琉ちゃんの母親へと向けて何の躊躇いもなく引き金を引いた。しかし、ラウドの放った銃弾が命中することはなかった。
「はい、残念」
そこには、先ほど外で一戦交えたアンとエルクが立っていた。エルクの手にはアンが持っていた聖剣が握られている。苦手だと言っていたサーベルで銃弾を切り払う技量は流石の一言だ。
「ようやく会えたわね。エルダーの後継者。ここからは私たち聖騎士が相手よ」
「次から次へとめんどくせぇ」
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