第9話 もちろんアダ名に決まってます
「うおっ、今日はまた一段と暑いなー」
昨晩の雨は過ぎ去り、外は雲ひとつない晴天には太陽が輝いていた。日光を浴びながらぐっと体を伸ばす。暗がりにずっといたので強烈な明るさは些か目に堪えたが、やはり気持ちが良いものだ。一日の始まりはこうでなくてはいけない。
新聞受けから新聞を取り出し、見出しを軽くチェックする。内閣支持率の低迷、世界規模の異常気象、そして例の吸血鬼連続殺人事件。どれも暗いニュースばかりだ。まったく、これからの日本はどうなってしまうのか。陰鬱な気分を抱えたまま母家の一階に戻ると、パンケーキとコーヒーの香りとが俺を出迎えた。
「あ、京介。ちょうど今用意が出来たところよ。飲み物はコーヒーで良かったかしら?」
「お、おう。ありがとう。いただくよ」
エプロン姿のミーシャは、さながら主人の朝食の支度をする新妻といったところだろうか。俺は改めて、女性とひとつ屋根の下で生活をしているのだと実感した。なるほど、良いものだ。
パンケーキと目玉焼き、コーヒーの香りに包まれて、俺はミーシャと二人だけで食卓を囲んだ。ミーシャは固形物の食事を取らない。口にするものと言えば、専らトマトをベースに作った疑似血液ドリンクぐらいだ。彼女はテーブルに頬杖をついたまま、ペットボトルに入った液体をストローで吸いながら、テレビのニュース特番を見ていた。
『本日は通常の予定を変更致しまして、今巷を震撼させている吸血鬼事件とその残忍な犯人像について迫りたいと思います』
テレビの中では、元警視監の肩書を持つコメンテーターの中年男性が、ホワイトボードを使い事件の犯人像を分析している。ミーシャはそれを見て、不機嫌そうにペットボトルを机に叩きつけた。
「ったく、どこの誰かは知らないけど良い御身分よね。あたしがどれだけ苦労して血を吸わないように努力していると思ってんのよ」
「気になっていたんだけどさ。なんで血を吸わないんだ?」
俺が持っていた素朴な疑問をミーシャへと投げ掛ける。すると、ミーシャは怒気を孕んだ目でこちらを睨んだかと思えば、すぐに瞳を悲しい色に変えて答えた。
「あたしがあたしである為の、最後の意地よ」
物憂げな様子のミーシャを見て、これ以上何かを聞くのは躊躇われた。だから俺は口を噤んだのだが、BGMがテレビから流れるニュースの音声だけで互いに無言というのは些か気が重い。無言の重圧が肺に詰まるようで息苦しかった。俺がリモコンに手を伸ばしたのは、部屋の換気に近い行為だったのかも知れない。今はニュースを見るよりもお昼のバラエティーや愛憎でドロドロの連続ドラマを見ていた方がよっぽど精神にはいい。重苦しい空気を吹き飛ばすべく、俺はリモコンに手を伸ばした。他チャンネルのボタンを押す寸前でそれを止めたのは、チャイムの音だった。
「あら? こんな真っ昼間に誰かしら」
「あ、じゃあ俺が見て来るよ」
俺はミーシャをリビングに残し、母家の玄関へと向かった。勢いとはいえ、まるで逃げ出したみたいで悪い気がして若干心苦しい。でも実際には大きく間違ってはいないので、俺は心の中でミーシャに頭を下げる。気の利いた言葉のひとつでも言えれば良かったな。
裏口に辿り着いた俺は覗き穴で訪れた人物を確認する。すると、そこには宅配業者が一人。正確に言えばこの家の人間ではないのでミーシャが出るべきなのだろうが、今更戻るのもばつが悪い。俺はこのまま家人としてドアを開けて対応することにした。
「はい、何かご用ですか?」
「あ、毎度ありがとうございます。神裏さんにお届け物です」
「カミウラ? えっと、どっか余所と間違えていませんか?」
「あれっ? 本当ですか? 確かいつもは神裏さんという若い女性がいらっしゃったと思ったのですけど……違ったかな?」
宅配業者の男性は、郵便物に記された住所と地図を照らし合わせて確認しているが、どうやらここに住んでいる住民は神裏という名で間違いないらしい。しばらくすると、日光避けの外套を纏ったミーシャがやってきた。昼過ぎとはいえ、まだ日は高い。ドアの隙間から入ってくる光でもやはり危険なのだろう。
「遅いじゃない。何やってるのよ、京介。って、あら。配達屋さんじゃない」
「あ、神裏さん。よかったぁ。てっきりどこかへ引っ越されたかと思っちゃいましたよ」
「驚かせちゃってごめんなさいね。彼、昨日からうちに住み込みで働いてもらっている人だから、あまりこの家の事に関して詳しくなくって」
「ああ、そうなんですか」
という事は、神裏とはミーシャの名字か。偽名で住民登録をしているって事は無いだろうし、多分間違いないだろう。という事は、日系のハーフだろうか。
「いつも通りサインでいいかしら?」
「ええ。お願いします」
宅配業者はミーシャからサインを受け取り、代わりに控えの伝票を渡して小走りに去って行った。入り組んだ住宅街は大型車を停めておけるスペースが限られるので何かと大変なのだろう。駐禁切られてないと良いですね。
「キャー、遂に届いたわぁ! 待っていたのよコレ」
大きな荷物を抱き抱え、ご満悦そうに微笑むミーシャ。吸血鬼を熱中させるほどの物とは一体なんなのだろうか。医療用の輸血パックぐらいしか俺には想像出来ない。
「随分ご機嫌だな。何を買ったんだ?」
「ふふん、見て驚きなさい! あのイタリアの有名ブランド〝フォルミカ・ロッソ〟にオーダーメイドしてもらったこの世に二つとない珠玉の逸品よ!」
ダンボールから出てきたのは、胸にバラのブローチが施された、とても気品漂う真紅のドレスだった。見るからに高そうだ。少なく見積もっても数十万はくだらないだろう。なんとなくだが、そんな気がした。愛おしそうにドレスを抱き締め、子供のようにくるくると回るミーシャ。吸血鬼と言えど、やはりそこは女の子。オシャレの一つもしたいのだろう。
「うーん、肌触りも最っ高~。流石は三百万もしただけあるわね」
「さんびゃく……高っ!?」
服一着で百万以上の買い物だなんてどこのセレブだよ。少し触らせて貰おうと思っていたが、そんな値段の品に俺の指紋なんかつけていいはずがない。ヘタに触れて汚そうものなら、例え噛みつかれても文句は言えないぞ。というか、そんな金あるなら遠慮なく乾燥機付き洗濯機を買えば良いじゃないの。
「ところでさ、ミーシャって神裏って名字だったんだな。てっきり外国生まれかと思ってたよ。まさかハーフだったなんて少し意外だったな」
「は? あたし生粋の日本人よ」
「いや、だってミーシャって名前はどう考えても日本生まれの名前じゃないだろう」
「そんなのアダ名に決まってるでしょ」
ピンクレディーの歌詞みたいにしれっとそんな事を言われても、その外見はとても日本人には見えない。どう見てもヨーロッパ圏の方じゃないか。もしかして、またからかわれているのか?
「あたしのフルネームは
「うん、聞いてないね」
出会って二日目で俺はようやく雇い主の本名を知りました。
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