第8話 翌朝の出来事

 俺を夢から現実へと引き戻したのは、異様なまでの暑さと喉の渇きだった。


「だぁあああ! 寝苦しい!」


 汗だくでベッドから飛び起きた俺の目の前に広がるのは暗闇。今が昼なのか夜なのかさえわからない。


「そうだった。この家、窓を全部閉め切っていたんだっけ」


 吸血鬼の館だけあって、日光が入らないように家中の窓をすべて内外から打ち付けてあるのだという。おかげで室内は蒸し風呂のように生き場を失った湿気や熱気が充満している。体感温度から察するに四十度を超えているだろうか。


「窓を開けられなくても構わないから、せめて空調くらいは欲しいよなぁ。あと、蛍光灯も」


 今時、照明の殆どを蝋燭に頼っているというのも珍しい。いや、吸血鬼らしいと言えばらしいのだが、かなり不便だ。


 部屋を出ると、隣の部屋から出て来たミーシャと鉢合わせた。どうやら、向こうも今起きたばかりのようだ。ピンクの可愛らしいパジャマの胸元は大胆にはだけており、上下全ての牙が見えるほど大口を開けて欠伸をしている。あれほど狭い棺桶の中で寝ていてどうやったらそこまで着崩れるのか。


「うにゅ……あぁ、え? ……おふぁやう」

「お、おはよう」

「……だれ?」

「誰って、あんたが昨日雇った南雲ですよ。南雲京介」

「……おふぁようごじゃいます」

「お前完全に忘れてただろ。そして今一瞬寝てただろ」


 寝ぼけ眼を擦りながら先頭を行くミーシャに続いて、俺は洗面所へと向かった。ミーシャは俺に新しいハブラシとタオルを渡すと、自分のハブラシを手に取りシャカシャカと鋭い牙を磨き始めた。


「しかし、あれだな。ここの洗面所、鏡が無いんだな」


 俺はさっきから気になっていたことをミーシャに尋ねる。ミーシャは口をコップの水で濯ぐと、花柄の可愛らしいタオルで口元を拭って答えた。


「ああ、そっか。あなたはいるのよね。ちょっと待ってて」


 ミーシャはそう言うと、そそくさと洗面所から出て行き、すぐに戻って来た。彼女の手にはスタンド式の小さな鏡。「今日からこれ使っていいから」とだけ言うとヘアバンドで長い髪を上げて再び鏡のない洗面台へと向き直り、洗顔フォームを手に取って泡立てている。


「ふぅ、さっぱりしたぁ。今日もばっちり完璧!」


 洗顔を終えたミーシャをまじまじと見つめる。本当に雪のように白く、綺麗な肌をしている。思えば、外人さんをこんなに間近で見たのはこれが初めてかも知れない。


「なーんか熱烈な視線を感じると思ったら。なに? すっぴんも可愛くて見惚れちゃってたわけ? まぁ、普段から化粧水だけでメイクなんてしてないんだけどね」


 ミーシャはそう言うと、鼻先同士が触れるかどうかまで顔を近づける。もう一歩、どちらかが踏み込めば互いの唇は容易く触れてしまうということに彼女は気付いているのだろうか。とまどっている俺の反応を見て楽しんでいるのか、ミーシャはじぃっと俺のことを見つめると、悪戯っぽく笑った。


「顔に何かついてましたってオチは無しだからね。だって今洗ったばっかりだもの」


 吐息からはフレッシュな歯磨き粉の香り。顔からは石鹸の良い香りがする。水を弾く柔肌と綺麗な赤い瞳。そして未だ着崩れてはだけた状態の胸元にドギマギしてしまい、俺は直視しないように視線を泳がせるしか出来ない。ミーシャがずいずいっと詰め寄る度に、俺はその分だけ下がる。それを五歩ほど繰り返すと、俺の背は壁にぶつかった。


「……」


 ミーシャは何も言わずに依然と俺の目を見つめている。赤い瞳に俺の顔が鏡のように映っている。ミーシャの表情は先ほどとは違い、何やらむすっとしていた。


「な、なに?」

「……ホレ」

「うをぉぉぉい! なにやってんの!?」


 俺の腕はミーシャが自身のパジャマの上着をめくり上げ、胸を露わにするよりも早くそれを阻止した。こっちの反応が少しでも遅れていたら間違いなく見えていたぞ。おかげで持っていた手鏡を落としてしまったが、幸い割れずに済んだ。


 まったく、昨日の静琉ちゃんといい、なんたって都会の娘たちはこうも簡単に肌を露出させるのだろうか。田舎者の俺をからかっているのか? それとも単に痴女が多い土地柄なのか? 


「なぁんだ。出来るじゃない、いい反応。そのくらい早くお世辞の一言でも出れば良かったんだけどな」


 淋しそうに俯いたミーシャの足元に転がっている手鏡を見て俺は気づいた。何故、この家の洗面台に鏡が無いのかを。


「ミーシャ。お前、鏡に……」


 化粧はしない、と言っていたが、あれは強がりだろう。しないのではなく、出来ないのだ。落とした鏡には、ミーシャの姿が映っていない。つまり、そういうことなのだ。


「ヴァンパイアはね。鏡や水に姿が映らないのよ。だから外しちゃった。もう、あたしには必要ないから」


 自分の顔を見られないことが女にとってどれほど辛く悲しいことかくらい、男の俺にもわかる。だからミーシャは求めたのだろう。今からでも遅くはないだろうか。いや、例え遅かったとしても言ってやるべきだ。たった一言。彼女が求める「可愛いよ」の一言を。


「……あっ」


意を決してミーシャの両肩を掴むと、彼女は小さな声を漏らして潤んだ瞳で俺を見上げた。あれ? なんか急に緊張してきたぞ。というか、今これ肩を掴む必要あったか? この、お互いに何も言わずじっと見つめ合っている間がどーにも……。ええーい、いったれ!


「かっ、かかか、かわ――」

「ぷっ、くくくっ、あははは! 耳まで真っ赤! やっぱりあなた最高よ! ここまでからかい甲斐のある男もなかなかいないわね。あー、おっかしい」


 謀られた。またしても謀られたぞ。俺の純情を踏み躙って何が楽しいのか。ここはガツンと言ってやるべきじゃないか? いくら本当に美人だからってやって良いことと悪いことがある。くそう、なんだよ。笑い過ぎて涙目になってるじゃねぇか。こっちは別の意味で泣きそうだというのに。


「ごめんなさい。ちょっと意地悪が過ぎたわね。でも、さっき肩を掴まれた時、悔しいけど一瞬キュンってしちゃった。このミーシャさんをときめかせるなんてやるじゃない。誇っていいわよ」

「いいさいいさ。どーせ俺なんて」

「悪かったってば。そんなに拗ねないで。あ、そうだ。朝ごはん食べるでしょ? と言っても、もう昼過ぎだけどね。お詫びにあたしが何か作るわ」

「メシなら俺が作るぞ?」

「いいから。食事の支度ぐらい女に任せなさい。あなたは郵便受けから新聞でも取って来てよ。そうしたらリビングで待っていて。すぐ行くから」


 家庭の厨房は女の聖域とは上手く例えたもので、実際にそう言われちゃ料理人は形無しだ。ここはひとつ、ミーシャの好意に甘えさせてもらうとしよう。俺は言われた通り新聞を取りに行く為に外の郵便受けへと向かった。

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