第4話 スピード雇用

「ほー、これまた立派な台所だな」


 店舗側の調理場はもちろんだが、居住側の台所もレストランの厨房を思わせるくらい立派だった。大きな屋敷は伊達ではないということか。


 しかし、立派なキッチンだが何も無い。調理器具はフライパンや鍋が数点あるくらいで、一人暮らしの男性の方がまだ色々充実しているのではないだろうか。汚れが殆んど無いシンクの様子から察するに、ここは随分前から使われていないようだ。


 これほどの広さも然る事ながら、一般家庭に業務用冷蔵庫を設置してあるなんて驚きだ。専属の料理人でも雇っていたのだろうか。なんというブルジョアな生活ぶりだろう。過去がどうであれ、今現在の調理器具の少なさとキッチン全体の廃れた有様を見れば、立派な冷蔵庫の中身はあまり期待出来そうにない。空っぽか消費期限の切れた食材で溢れているかのどちらかだろう。希望が入っていなさそうなパンドラの箱を開ける勇気など俺には無い。


 俺は自分のリュックの中から虎の子である野菜数種類と骨付きのスモークチキンを取り出す。今日の夕食にと思っていたが、仕方あるまい。女性にひもじい思いをさせるのは何より男として忍びない。俺は自前のまな板と包丁を取り出し用意した材料を手早く捌いていく。鍋の中でオリーブオイルを適量引き、チキンを軽く炒め、食べやすい大きさにカットした野菜と水を入れてやわらかくなるまでじっくり煮込んでいく。野菜の旨味と骨付きチキンから取れる出汁だけでも充分に美味い。後は、塩と少しの香辛料で味を整えればフランスの代表的なスープ料理、ポトフの完成だ。


「うっし、後は盛りつけてドライパセリを散らすだけだな。皿、皿っと……おっと、こいつは予想外だ。食器が見当たらないぞ」


 失敗したな。予め食器棚の中を確認しておくべきだった。ちょっと品が無いが、いっそ鍋ごと出すか? いや、ひょっとすると店の厨房になら何か入れ物があるのではないだろうか。俺は鍋を持ったまま彼女を作業場である厨房へと向かい、手頃な皿を見つけてスープを盛りつけた。


「今度こそ完成。んじゃまあ、持って行きましょうかねって……お? なんだこれ」


 俺の目に留まったもの。それは足元に転がる赤い液体の入ったペットボトルだった。えっ、まさか血じゃないだろうなコレ。俺はペットボトルを拾い上げ、恐る恐るフタを開けて匂いを嗅いだ。微かに香るトマトの香りと鳥獣類で取ったフォンのような香り。数種類のハーブを混ぜたような独特の香りがする。自家製のクラマト(ハマグリのエキスが入ったトマトジュース)のようなものだろうか。なんにせよ、彼女が愛飲しているものに違いないだろう。一緒に持って行ってやりますか。


「入るよー」


 再び二階へと戻った俺は、ドアを数回ノックして入室する。部屋の真ん中に置かれた棺桶の中で目を瞑っている少女は、寝息が聞こえなければまるで本当に死んでいるように見えた。


「おーい、食事ですよー」


 彼女はゆっくりと目を開け、俺の顔を一瞥しただけで何も言わない。相当衰弱しているのがわかった。


「あ、そうだ。こんなの拾ったんだけど、君の――」


 さっき拾ったペットボトルを見せると、死んだ魚のように濁っていた彼女の瞳が鋭く光った。そこから先はまさに電光石火。俺が言い切るより早く彼女は飲み口の部分をフタが付いたまま手刀で切り落とすとすぐさま俺の手からそれをふんだくり、中身を一気に飲み干した。先ほどサーベルを向けられた時、これと同じ速さで突かれていたらと思うとゾッとする。


「ぷっはー! ふっかーつ!」


 彼女は謎の赤い液体を豪快に飲み干し、白い袖で赤くなった口元を拭った。まるで居酒屋でよく見るオッサンのようなリアクションだな。まあ、元気になったなら何よりだ。


「ひょっとして、あなたが介抱してくれたの?」

「大したことはしていないんだけど、まあ、一応そうなるのかな」


「そっか。また助けられちゃったわね。ありが――あっ! そういえば、あなたこのドリンク勝手に飲んでないでしょうね?」


 彼女の言うドリンクとは、たった今飲み干していた赤くてドロドロした不気味な液体の事だろうか。


「いや、飲んでないけど」

「よかったぁー。コレ、あたしが血の渇望を抑える為に飲んでいる特製ドリンクなの。トマトをベースに牛や鳥なんかの生レバーと五つ葉のクローバー、マンドラゴラやトリカブトなんかの毒草をミキサーで混ぜたものだから人間が飲んだら苦しみ悶えて五分も経たない内に絶命よ」


 そんなものを一気飲みしても顔色一つ変えないところを見ると、やはり人間ではないのだろう。どっからどうみても普通の十代の女子にしか見えない。吸血鬼なんて伝説や寓話の中だけの存在だと思っていたのだが、流石は都会。田舎モンの俺にはまだまだわからない事が多いようだ。


「ねえ、ずっと気になっていたんだけど、それスープ?」


 そう言うと、彼女は俺が持っている皿を覗き込んだ。


「ああ、これね。お腹空いたって言っていたから作ったんだけど……まあ、いいさ。今日の俺の夕飯にでもするよ」

「ちょうだい」

「え? でも」

「あたしの為に作ってくれたんでしょ? あなたの料理、食べてみたいわ」


 俺の目を真っ直ぐ見つめる赤い瞳。優しい微笑みに不覚にもドキッとしてしまった。彼女は皿を受取ると、スプーンですくって一口飲んだ。


「……温かい。人が作った料理を食べたのは何年ぶりかしら」


 彼女はスープを見つめ、どこか悲しそうに呟いた。それっきり、彼女に二口目は無かった。


「口に合わなかった?」

「ううん、そうじゃないの。ただ、あたしは何を食べても味がわからないの。感じる味覚といえば、きっと血の味だけ。それ以外は砂を食べているような感覚に襲われるの。でも、このスープがとっても美味しいという事は伝わったわ。だから、今日ほど味覚が無いのが辛いと思った日は無いかな」


 項垂うなだれた姿は、まるで泣いているように見えた。俺にはわからない孤独を抱えた人外の少女。その心は、人間のそれと何も変わりは無かった。


「ごめんなさい。なんかしんみりしちゃったわね。そういえば、まだ自己紹介をしていなかったわね。あたしはこの洋菓子店〝Le Baiser(ル ベーゼ)〟オーナー兼パティシエールのミーシャよ。あなたは?」

「俺は南雲京介なぐもきょうすけ。生まれは滋賀県の片田舎。昔で言うところの甲賀忍の里にあたる場所になるかな。まあ、さっきもチラっと見せちゃったんだけど、今時流行らない忍者の末裔さ。今は故郷を離れて料理人を目指して修行中。一年くらい前に上京して色んな店で働いてきたんだけど、どうにも長続きしなくてね」


 俺は今までの経緯を話した。忍者の頃の癖が抜けきらず色んな店で失敗を繰り返し、つい五時間ほど前まで働いていた店をもクビになった事。今現在行くあてもなく途方に暮れているという事。


「ねえ、京介。そういう事ならしばらくこの店でウェイターとして働いてみない? 飲食店勤務だったのなら接客の経験はあるんでしょう?」

「そりゃ、あるけど……」


「見ての通り、ここは一人で住むには広すぎるわ。空部屋ならいくつもあるから住み込みでもいいわよ。次の仕事が見つかる間だけでも構わないのだけれど、どうかしら? あ、別に取って食おうってわけじゃないからその辺は安心してちょうだい」

「しばらく野宿を覚悟していたから、そう言ってもらえると正直助かる」


 何度か言葉を交わして何となくわかった事だが、吸血鬼といっても千差万別で、皆が皆、世に語り継がれているような極悪非道の化け物というわけではないらしい。どうも俺には彼女が今巷を騒がせている殺人吸血鬼とは違うように思えた。飢えで倒れたのなら、俺が彼女を抱えている時、直接俺の首筋に噛みついて血を吸えばいい。あれほど俊敏な動きなら忍の俺でも簡単にやられていただろう。それなのに彼女はそれを行わなかった。血を吸わない吸血鬼が、どうして人を殺める必要があろうか。


「契約成立ね。じゃあ早速今日から働いてもらおうかしら。あと四十分で開店時間だから、とりあえず一階に行きましょうか。っと、その前に――」


彼女の後に続いて一階へ下りるとロッカールームと書かれた部屋へと案内された。


「そこの棚に制服と靴があるから、自分のサイズに合ったやつを選んでちょうだい。着替えたらホールに来てね。色々説明しなきゃいけない事があるから」


 闇に溶けるような黒いシャツ、ベスト、スラックス。上下とも黒尽くめ。まるでオシャレな忍装束だ。色があるとしたら、この赤地に白いラインの入ったネクタイと腰に付けた銀のウォレットチェーンぐらいだろうか。大きな姿見で身嗜みを確認し、オーナーの待つホールへと向かった。


「うん、いいじゃない。あなた身長もそこそこあるから様になってるわね」 


 店主からOKを頂き、開店までの三十分で必要最低限の事を教えてもらった。基本はミーシャも接客でホールに立っているらしいから、わからない事があれば聞いてくれと言ってくれた。一人よりはだいぶ心強い。まだ女子高生くらいにしか見えないのに、随分としっかりしている。


「ジャスト六時。洋菓子店パティスリール・ベーゼ、開店よ」


 彼女が指を鳴らすと、店内の到る所に置いてあったキャンドル全てに火が灯り薄暗かった店内は一瞬で明るくなった。いったいどういう仕掛けなのだろうか。

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