第11話 遂に限界を突破

 私が、就職した1990年には東西ドイツが統一された。また、アメリカがパナマに侵攻していた。そして会社は、一風変わっていた。社長は、京大卒のバリバリの元左翼だった。また、専務は母体となっていたシンクタンクの組合長で、あだ名がターミネーターであった。彼は、どんなに夜遅く残業しても、朝5時に起きてランニングをしていた。さらに、常務は病気を抱えていたが、長時間労働の鬼であった。


 そして、すべての研究員全員に経営権が与えられ、会社を運営するスタイルが取られており、経理はガラス張り三役も選挙で決められていた。


 私の最初の仕事は、大阪市経済局が発行する「大阪経済のあらまし」という、大阪の経済の現状と動向について、各種統計資料などを加工するものであった。


 私は、1991年に湾岸戦争が起こった入所二年目から、他にも数本、プロジェクトに関わったため、仕事が増えて残業も増えてきた。どうしても明日までに仕上げなければならないレポートの締め切りがあり焦る。頭が覚醒して夜眠れなくなってきた。


 1992年には、 ゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任。ソビエト連邦の崩壊。その後、ロシア連邦になった。私は、そのころに一人暮らしを始めた。食事は、栄養をつけなくてはならないと考え肉を腹いっぱい食っていた。そして、いつも眠かった。これは、栄養を吸収するため、腸に血液が集中し脳に行く分が不足するためなのだが、その知識がなかった。


 そういう訳で、会社で昼はうつらうつらしていたが、皆深夜まで、働いていたので、怒られることはなかった。ただ、私は毎日遅刻し、社長を怒らせていた。何を考えていたのか分からないが、どうしても遅刻してしまう。また、上司に同行し、彼がクライアントである役人にレポートの説明をしていたときは、完全に寝ていた。そして、クライアントを怒らせた。


 恋人とは、疎遠になっていた。彼女は仕事で東京に出張で行く事が多く、また、私は残業が多く、一緒に会うことが難しくなっていた。また、前述したとおり私には、腰の問題があり、長時間のデスクワークを主とする仕事は、最初から間違えていたなと思い始めていた。

 

 同時に、学生時代に行ったアメリカの影響が大きく、向こうで新しい生活を始めることをしきりに考え始めるようになった。もう、30分に一回とかの頻度である。1992年には、ロドニー・キング事件における白人警官への無罪評決をきっかけにロサンゼルス暴動が起こった。また、コリアン・タウンへの襲撃もあったが、それでもアメリカへ行きたいと思っていた。私は、アメリカを冒険したかったのである。


 そんな中で、大量に回ってくる仕事をうまく気を合わせて受け流す方法が合気道にあるのではないかと考えるようになった。大学の時に見たスティーブン・セガールの刑事ニコで披露される衝撃的な技、入り身投げも会得しなければならないと思っていた。


 こうして、私は、週二回、大阪合気会に通い始めた。水曜日は、夜、大阪府立体育館で、土曜日は、午前、島之内の体育館で稽古があった。師範は、田中先生と本澤先生。稽古をしてみて分かったのは、合気道というものは思った以上に体力を使うということであった。


 会社で残業し、合気道を稽古する。私は、限界に挑戦することを試していた。稽古では、受け身をとって立ち上がる時に、星が見えた。ただ結論から言うと、仕事をうまく気を合わせて受け流す方法は見つからなかった。今から思えば、さっさと辞めればよかったのだが、所員全員に経営権が与えられており運命共同体のような雰囲気がある中で私はもがいていた。


 結局、合気道道場には二年通った。仕事が立て込み、完全に限界で大阪合気会に断りの電話を入れた。この直後から、私はガチのうつに悩まされるようになった。会社はビルの9階にあったが、窓から地面を見て「飛び降りたいなあ」と思うようになっていた。


 その度に、イカン、イカン、早くこの会社を辞めて、アメリカに行かなくてはと考えるようになった。私が、ノイローゼになっているのを見た社長が、精神科に行くことを勧めた。一度だけ、行って抗鬱剤を試したが効かないので止めた。


 1994年には、日本のクロス・オーバーのカシオペアの25枚目のアルバム、ANSWERSが発売された。それを聞いて、彼らはこんな素晴らしい音楽を演奏している、それにくらべて一体俺はなんなんだ、この差は、どこから来るんだと思っていた。どうすれば、彼らのようになれるのかという方法さえ分からなかった。今なら、音楽教室に通えば、糸口は見つかるかもしれないと思うが…。


 1995年に阪神淡路大震災が起こった。私は、豊中市の曽根駅付近に住んでいたが、アパートがかなり揺れて、これは死んだなと思った。私は、ボランティアに行きたかった。そして、運営会議でそのことを話そうとすると、社長が「俺は、ボランティアに行く!」と先に宣言した。


 おお、さすが社長だなと思っていたら、他の所員が、おいおいと止めた。私は、相変わらずノリの悪い所員らだなと落胆した。社長がダメだというので、私も、結局、田原とで西宮に住む大学のクラスメートに食料を届けに行くだけとなった。


 さらに1995年はオウム真理教が、教団に批判的な人物を数回殺害しようとした。そこで、自分たちの教団に強制捜査が入るのを恐れ、クーデターを起こすために、地下鉄サリン事件を起こした。私の従妹は、一本電車が遅ければ巻き添えを食って死ぬところだった。昼食時にうどん屋さんでこのニュースをテレビで一緒に見ていた上司が、最近は、嫌なことばかり起こるね、と言っていたのを思い出す。


 このころ、この調査・研究のプロジェクトを多数抱えていた私は、深夜残業が常態化していた。思い出すのは、事務所で一人になりサンタナのCDをガンガンかけて、「なんで、俺がこんな仕事せなアカンのじゃー!」と大声で叫び資料を地面に叩きつけ、朝の四時にレポートを書き上げ、役所の守衛さんに渡して帰ったことだ。


 問題は、私の腰である。とにかく辛い。この状態が生まて以来、続いている訳だが、やはりこの会社に入りデスクワークが長時間になったことが大変なストレスになった。そして、うつが行きつくところまで行って、今度は反転してしまい軽躁の世界へと入ってしまった。


 私は、限界に挑戦して一線を突破しまったのである。


 一般に、躁状態は、ハイテンションになり、眠らなくても活発に活動し、次々にアイデアが浮かび、大きな買い物やギャンブルなどで散財し、本人には病気の自覚はないと言われる。


 躁うつ病は、遺伝もあるがストレスからもくる。私の場合、近親者にはいないので、完全にストレスだ。私は、買い物はしなかったが、突発的にアメリカのボストンに友人を訪ねに行って旅費に使った。発症当時、私は30歳になっていた。


 ただ、私には躁鬱の知識がなかった。だから、ハイになっていることが病気だと分かっていなかった。また、この病気は完治がないため、精神障害者としてカテゴライズされる。


 ただ、現在、精神障害者は、「メンヘラ」と呼ばれるようにもなり、やや市民権を得つつあるが、それでも風当たりは厳しくSNSなどでは、「基地外」と書き込まれたりしている。情けない奴らだ。なぜ「気違い」と書けないのか。しかも、「基地外」と書けば差別用語ではないと考えている。バカの極みだ。精神障害者が恐れられるのは、どこで何をしでかすか分からないというものだが、実は精神障害者の犯罪率は、一般人より低いのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る