第七幕


 第七幕



 やがてUAZ-452四輪駆動車のヘッドライトの灯りに照らし出される格好でもって、奇妙な唸り声の主である一頭の牡鹿が姿を現した。

「何だありゃ?」

 その牡鹿を眼にしたオレクサンドルとペトロ、それにゲンナジーの三人は眼を見張りながら声を上げ、驚きを隠そうともしない。と言うのも、眼の前に姿を現した牡鹿は身の丈10mにも達する、全身が真っ黒にただれた皮膚に覆われた巨大な鹿だったからだ。しかもその鹿は首から上が存在せず、本来ならばそこに在るべき頭部の代わりに幾本もの野太い触手が生え、しかもその触手がじゅるじゅると粘り付くような水音を立てつつぞわぞわと不気味な挙動でもってうごめいている。

「危ねえ!」

 運転席に座るゲンナジーは注意喚起の声を上げながら急ハンドルを切り、彼の愛車の進行方向上に突如として姿を現した巨大な黒い牡鹿との正面衝突を、ぎりぎり間一髪のタイミングでもって回避してみせた。すると牡鹿は踵を返して方向転換し、今度は後方から追い掛ける格好でもって、走り去ろうとするUAZ-452四輪駆動車を追跡し始める。

「何だありゃ? 何だありゃ? 何だありゃ?」

 パニック状態に陥ったゲンナジーは愛車のハンドルを握ってアクセルペダルを踏み込みながら、まるで意味の無い疑問の言葉を連呼した。その一方で後部座席に腰を下ろしたイライダはと言えば、砂埃と水垢がこびり付いたリアガラス越しに牡鹿の姿を観察しつつ、その正体を看破する。

「あれはもしかして……黒牡鹿チョルニーオレンかしら?」

黒牡鹿チョルニーオレン?」

 彼女の隣に座るオレクサンドルが、鸚鵡返しの要領でもってイライダに問い返した。

「ええ、あれは紛れもなく、黒牡鹿チョルニーオレンよ。この辺りの森の奥深くに遥か古代から生息する、東欧ウクライナの原始宗教の崇拝の対象とされた、神話の時代の神の一族の末裔ね」

「神の一族の末裔だって? 俺はこの辺りを何度も何度も行き来したもんだが、この森にそんな化け物が住んでるなんて話は聞いた事が無えぞ!」

 おろおろと混乱するばかりのゲンナジーに、イライダは冷静さと冷徹さを保ったまま説明する。

「そうね、ゲンナジー。あなたが何も知らず、何も見た事が無くとも、それは仕方の無い事ではないかしら? 何故なら崇拝の対象とされなくなったあの牡鹿はとっくの昔にかつての力を失い、今はもう、この森の奥深くで姿を隠しながら眠り続けていた筈なのですから」

「だったらどうして、そんな眠り続けていた筈の化け物が突然目覚めた上に、何の関係も無い筈の俺らを追い掛け回してるんだよ!」

「そうね……もしかしたらあの黒牡鹿チョルニーオレンは、彼の縄張りであるこの森に足を踏み入れたわたくしに反応し、永き眠りから目覚めたのかしら?」

「イライダの嬢ちゃんに反応してるだって? それはまた、どう言う事だ?」

 今度はハンドルを握るゲンナジーに代わって、最後部の座席に腰を下ろすペトロが疑問を呈した。

「崇拝の対象とされなくなった黒牡鹿チョルニーオレンは、森の奥深くで眠り続けながらも、かつての力を取り戻すための機会をうかがっていた筈よ。そんな神の一族の末裔の眼の前に、人ならざる力を有するわたくしの様な存在が姿を現したとしたら、復権のための生贄、もしくは供物として眼を付けられたとしても不思議ではないのではないかしら?」

「つまりなんだ、あのでかくて真っ黒な化け物は俺やこの車じゃなくて、嬢ちゃんの事を追い掛け回してるって訳だな? だったら嬢ちゃん、申し訳ねえが、あんたは今すぐここで降りてくれ!」

 ゲンナジーが恥知らずな要求を口にしたその間も、巨大な黒牡鹿チョルニーオレンは木々を震わせるような唸り声を上げて触手をうごめかせながら、UAZ-452四輪駆動車を追い掛け回す足を止めない。

「あら? そんな薄情者に身をやつさずとも問題ありません事よ、ゲンナジー。あの黒牡鹿チョルニーオレンは森の木々と大地から力を得ているのですから、自分の縄張りの外には一歩も出る事が出来ませんの。ですから追い付かれる前にこの森から抜け出せれば、それで万事解決ではなくて?」

「それってつまり……」

「つまりゲンナジー、もっと急ぎなさいと言う事よ。ほら、ちゃんと前を見ながらしっかりハンドルを握って、一刻も早くこの森から脱出しなさいな」

 相変わらずの冷静かつ冷淡な口調でもってそう言ったイライダに急かされながら、運転席のゲンナジーはアクセルペダルをベタ踏み一歩手前まで踏み込み、背後から追って来る黒牡鹿チョルニーオレンを引き離す。そして四人と一羽を乗せたUAZ-452四輪駆動車は赤い森を脱出し、命からがら逃げおおせた。

「やった! 森を抜けたぞ!」

 愛車であるUAZ-452四輪駆動車が赤い森から脱出すると同時に、運転席でハンドルを握るゲンナジーが拳を振り上げながら勝ち誇り、その喜びぶりを隠そうともしない。すると彼も含めたイライダら一行を追い掛け回していた黒牡鹿チョルニーオレンはその足を止め、雑草や雑木が鬱蒼と生い茂る森の出口でもって口惜しそうにいななき、やはりじゅるじゅると言った水音を立てつつ触手をうごめかせる。

「ざまあみろ、化け物め! もう二度とその姿を現すんじゃねえぞ!」

 興奮冷めやらぬゲンナジーはそう言いながら、右手の甲を相手に向けながら中指をぴんと立て、背後の黒牡鹿チョルニーオレンを挑発した。

「ゲンナジー、あなたももういい歳した大人なのだから、そう言った下品なジェスチャーはお止めなさいな」

 イライダはそう言ってゲンナジーを諫め、安堵とも侮蔑ともつかない深い深い溜息を漏らすと同時に、改めて彼に尋ねる。

「それでゲンナジー、もう森を抜け出したのだから、そろそろチェルノブイリ原子力発電所が見えて来る頃かしら?」

「ああ、そうだ。ちょうど左手に見える大きな建造物がチェルノブイリ原子力発電所の一号炉から四号炉と、それを覆う石棺。そしてその石棺をも覆う、つい数年前に完成したばかりの『新安全閉じ込め構造物』だ」

 そう言われたイライダとオレクサンドル、それにペトロの三人は、彼女らが乗るUAZ-452四輪駆動車のサイドガラス越しに北の方角を眺め渡した。すると地平線を埋め尽くすかのように林立する幾つもの鉄塔の向こうに、天を向いてそそり立つ数本の煙突と並んで、一際大きな銀色のドーム型の建造物が見て取れる。

「あれが今の発電所か……」

 パジャマ姿のオレクサンドルがそう言って、ごくりと固唾を飲んだ。

「あの馬鹿でかいドームの中に、爆発した四号炉が在るんだな」

 同じくパジャマ姿のペトロもまた固唾を飲みながらそう言うと、巨大なドーム型の建造物、つまりゲンナジーが言うところの『新安全閉じ込め構造物』を遠目からしげしげと観察する。

「ここから先は、車では近付けないのかしら?」

「そうとも、その通りだ。もうこれ以上、俺みたいなストーカーや、お前らみたいなインフルエンサー気取りの糞ガキどもが車でもって近付くのは難しい。なにせ発電所の周囲はウクライナ軍の兵士がうろうろしてやがって、廃炉作業に関わる業者や関係者か、もしくは特別な許可を得た役人なりジャーナリストでもない限り、敷地の中には入れてくれねえよ」

 赤い森とチェルノブイリ原子力発電所のちょうど中間地点にあたる道すがらで停車させたUAZ-452四輪駆動車から地面に降り立つと、ゲンナジーはそう言いながら、発電所の方角を指差した。そこでイライダら一行もまた降車と同時に彼が指差す方角を見遣れば、確かにゲンナジーの言う通り、ウクライナ軍の兵士と思われる人影が発電所の周囲を巡回している姿が眼に留まる。

「ほらな、俺が言った通り、警備は厳重だろ? だからガキども、お前らも原発の中に足を踏み入れようだなんて大それた気は起こさねえで、ここから眺めるだけで満足しておけよ。な?」

 ゲンナジーはそう言うが、勿論イライダは納得しない。

「あらゲンナジー、そんなに心配なさらずとも結構でしてよ? わたくしの魔術に掛かれば、兵士達に気付かれずに発電所の内部に侵入する事くらい、何の造作も無い事ではなくて?」

 冷徹な表情と口調でもってほくそ笑みながらそう言ったイライダが右手を頭上に高々と掲げ、その指をぱちんと打ち鳴らせば、彼女ら四人と一羽の姿がぼんやりとしていて捉え所の無い、おぼろなそれと化す。

「おいおいおい、一体何なんだこりゃ?」

 己の肉体に生じた変化を目の当たりにしたゲンナジーが、おぼろな姿と化した自らの手足をためめつすがめつ何度も何度も見返しながら、驚嘆と困惑の声を上げた。

「この状態であれば、一切の魔術が施されていない普通の人間の眼ではわたくし達の存在を認識出来ず、たとえ至近距離ですれ違ったとしても発見される事は無い筈でしてよ? ですから後顧の憂い無く、原子力発電所の敷地内へと侵入する事が出来るのではないかしら?」

 しかしながらスズメフクロウのプーフを肩に乗せたイライダは、事も無げにそう言うと同時にチェルノブイリ原子力発電所の方角へと足を向け、困惑するばかりのゲンナジーの言葉など一向に意に介さない。

「さっきから魔術がどうとか赤い森に生息する黒牡鹿チョルニーオレンがどうとかって……なあ、お嬢ちゃん。お前は一体、何者なんだ?」

 このゲンナジーの疑問に、彼と同じく朧な姿へと変貌したオレクサンドルが答える。

「あれ? キミには言ってなかったっけ? こう見えても、イライダは時間と空間を自在に操る魔女なんだ。そしてこれは夢の中の出来事だから、何が起こっても不思議じゃないのさ」

「そうそう、イライダの嬢ちゃんの魔術もさっきの黒牡鹿チョルニーオレンも、そして俺やサーシャがこうして若返ったのも、全てはちょっと風変わりな夢の中の出来事に違いねえって訳さ!」

 ペトロもまたゲンナジーの肩を抱きながらそう言って、魔術を操るイライダは魔女であり、また同時に全ては夢の中の出来事なのだと言うオレクサンドルの主張を全面的に支持して止まない。

「全ては夢の中の出来事って……いやいやいや、どう考えたってこれは夢なんかじゃないだろ! オパチチ村もユーリヤ婆さんも、プリピャチも赤い森の黒牡鹿チョルニーオレンも、全ては現実の世界の出来事だった筈だ!」

 ゲンナジーはそう言って魔術と夢を否定するも、前を歩くイライダとスズメフクロウのプーフ、それにオレクサンドルとペトロの三人と一羽は既に発電所目指して歩を進めており、賛同者の居ない彼の言葉は空しく空を切るばかりであった。

「絶対に夢じゃねえ……絶対に、絶対に夢なんかじゃねえ筈だ……」

 自分自身に言い聞かせるような口調でもってぶつぶつと愚痴を漏らしつつ、迷彩服姿のゲンナジーもまたイライダらの後を追って、チェルノブイリ原子力発電所へと続く道を歩き続ける。そしてたっぷり1㎞ばかりも歩き続けた末に、何度かウクライナ軍の兵士や車輛とすれ違いながらも一切気付かれる事無く、イライダら一行は発電所の正面出入口へと辿り着いた。出入り口に設置された鋼鉄製のゲートの向こうを見遣ると、天を突くほど巨大な『新安全閉じ込め構造物』が眼に留まり、月明かりや星明かりを反射しながらきらきらと銀色に輝いている。

「懐かしいな、俺も昔はここで警備員をやってたんだ。あの頃は未だ、この国はソ連の一部でな……」

 そう言うペトロも含む四人と一羽は、その姿をおぼろにする事によって誰にも見咎められないままゲートを乗り越え、イライダに先導されながらチェルノブイリ原子力発電所の敷地内へと足を踏み入れた。

「あれ? おかしいぞ? 確かここにレーニンの銅像があった筈なんだが……まさか、撤去されたんじゃないよな?」

 正面出入り口から続く原子力発電所の前庭に立ったオレクサンドルが、寂しげな眼をしながらそう言うと、かつてそこに在った筈のレーニン像の痕跡を探す。しかし残念な事に、2013年から始まったレーニン像撤去運動の煽りを受けたのか、この地に建立されていた筈のそれもまた撤去の憂き目に遭っていた。

「いいじゃねえか、あんな共産主義と大粛清を扇動した糞野郎の銅像なんて、今の時代には撤去されて然るべきだろうに。ざまあ見やがれ、禿げ頭の独裁者め!」

 若干ながらスターリンと混同している嫌いはあるが、とにもかくにも安煙草を咥えながらレーニンを罵るゲンナジーの言葉に、見掛けは少年だが頭の中身は老人であるオレクサンドルは顔をしかめる。

「何だと、この若造め! お前ごときに何が分かる! レーニンは歴史に名を遺す偉大な革命家であり、我らがソヴィエト連邦を世界を二分する大国にまで成長させた、偉大な指導者だぞ! それに、この原子力発電所の正式名称は『V・I・レーニン記念チェルノブイリ原子力発電所』だ! その発電所にレーニン像が在るのは当然の事だろうに! それを撤去するだなんて、ああ、嘆かわしい!」

「おいおいおい、こいつはまた随分と時代錯誤なガキだな。まるでソヴィエト時代を生き抜いた、頭の固い懐古主義の老人そのものじゃねえか。いいか、糞ガキ。よく聞け。今時はどこの学校が採用している教科書にだって、共産主義は失敗したってはっきりと書いてあるんだぜ? ソ連が呆気無く崩壊したのが、その証拠だ。違うか? ん?」

 そう言って挑発するゲンナジーに言い返す事も出来ず、オレクサンドルは地団太を踏むばかりだ。

「どうしたのオレクサンドル、そんな所で悔しがってないで、早くわたくし達を案内してちょうだいな。なにせここに居る四人の中でこの原子力発電所の内部構造に一番詳しいのはあなたなのですから、そのあなたがぐずぐずしていたら、いつまで経っても前に進めないじゃないの」

「……ああ、分かったよ。こっちだ、こっち」

 イライダに命令されたオレクサンドルはイライダら一行を先導しながら歩き始め、チェルノブイリ原子力発電所の敷地内の、東の外れに建つ建物へと足を向ける。

「オレクサンドル、これは何のための施設なのかしら?」

 東の外れの建物の内部に足を踏み入れながら、イライダが尋ねた。

「ここは、僕らが『管理棟』と呼んでいた建物の内部だよ、イライダ。原子力発電所で働く職員はここで作業用の白衣と帽子に着替え、放射能漏れの有無を確認するために、出勤時も退勤時も全身の放射線量を測定するんだ」

 そう言ったオレクサンドルの言葉通り、管理棟の内部を西の方角へと歩き続けると、やがて広々とした更衣室と共にずらりと並ぶ放射線測定器が姿を現した。立ったまま全身の放射線量を測定出来るそれらの機器は管理棟の通路を塞ぎ、測定を拒否した者はそれ以上先に進めず、どうやら原発内部へと足を踏み入れる人々を選別するためのゲートの役割も果たしているらしい。

「まずここで白衣と帽子に着替えなきゃならないんだけど……これは僕らが見ている夢の中の出来事なんだし、そんな面倒な事はしなくても大丈夫か!」

 開き直るような口調でもってそう言ったオレクサンドルに、イライダもまた賛同する。

「あら? オレクサンドルったら、あなたもいい加減、この状況に慣れて来たようね。確かにあなたの仰る通り、全てが夢の中の出来事だとするならば、わざわざ白衣に着替える必要なんてありませんもの。それにほんのちょっと発電所内を見学するだけなら放射線の影響も微々たるものでしょうし、そもそもわたくし、あんなダサくて野暮ったい恰好は願い下げでしてよ」

 そう言ったイライダはゲートに足を向けるが、魔術や夢と言った事象に対して懐疑的なゲンナジーだけは、どうにも不安を隠せない。

「なあ、本当にこの先に進んじまっても大丈夫なもんなのか? 立入禁止区域内をうろうろしているストーカーの俺がこんな事を言うのもなんだが、防護服どころか白衣すら着ないで原発内に足を踏み入れたりなんかして、取り返しがつかないほど被曝しちまったら誰が責任取ってくれんの?」

「大丈夫だよ、ゲンナジー。この管理棟や各原子炉の制御室コントロールルーム内の空気は清浄だし、仮に人体に有害な規定値以上の放射線が検知されたとしたら、即座に警報が鳴り響く仕掛けになっているんだ。むしろ危険なのは爆発した炉心から放出された大量の核燃料、つまり高濃度の放射性物質が雨や灰に混じって降り注いで濃縮された、戸外の森の腐葉土や川の底の泥の方さ」

「マジかよ。俺らストーカーや帰還者サマショールの爺さん婆さんが普段からうろうろしている森や川よりも、原発の中の方が安全だってのか?」

 オレクサンドルの解説を耳にしたゲンナジーはそう言うと、半信半疑ながらもイライダの後に続き、放射線測定器を兼ねたゲートを急ぎ足でもって通過した。そして廊下を渡った先の重い鋼鉄製の扉を潜ってみれば、眼の覚めるような光景がイライダら一行を待ち受ける。

「あら、凄いじゃない」

 イライダは努めて冷静さを保ったままそう言うと、彼女にしては珍しく、小さくはっと息を呑んだ。なにせ扉の先には壁一面が黄金色に輝く細長い廊下が、まるで絵画の世界に於ける一転透視図法の模式図の様に地平線に向かって延々と続いていたのだから、彼女が驚くのも無理は無い。

「ここが有名な、一号炉から四号炉までの原子炉建屋を横断する『金の廊下』だ。まあ大袈裟に金とは言っても、実際のところは、只のアルミメッキに過ぎないんだけどね。まあとにかく、この細長くて真っ直ぐな廊下は、ここから800mばかりも続くから、覚悟しておいてくれ」

 ややもすれば自慢げな口調でもって解説するオレクサンドルを先頭に、廊下の最奥に位置する四号炉を目指しながら、イライダら四人と一羽は『金の廊下』を直進し始めた。廊下の壁面の所々に設置されている、中に何が入っているのかも分からない収納ボックスの数々もまた、黄金色に輝くアルミメッキが施されている。そして一号炉の制御室コントロールルームを兼ねた中央制御室セントラルコントロールルームの前を通過し、二号炉の制御室コントロールルームの前もまた通過すると、やがて三号炉の冷却ポンプ室前へと至った。

「ん? よく見ると、僕がここで働いていた頃とは床のタイルの模様が違うぞ。事故後に張り替えたのかな?」

 そう言ったオレクサンドルが三号炉の冷却ポンプ室の前を通過したところで、彼らが歩いて来た『金の廊下』突き当たりの壁面に半ば埋め込まれるような格好でもって、イライダは奇妙なモニュメントを発見した。

「何かしら、これ?」

 それは石造りの十字架と祭壇を模した墓であり、墓標にはキリル文字でもって『ヴァレリー・ホデムチュク』との墓碑銘が刻まれ、祭壇には多くの生花や造花などが所狭しと供えられている。

「これは事故後に建立された、ヴァレリー・ホデムチュクの墓だよ、イライダ。ここチェルノブイリ原子力発電所の四号炉のポンプのオペレーターだった彼は事故当時、原子炉の炉心の真下で作業をしていて瓦礫の下敷きになったため、今も尚、遺体を回収する事が出来ないでいるんだ。本当に可哀想な奴だよ、ヴァレリーは。彼は口数は少ないが気のいい男で、三交代制の夜勤が終わると、よく一緒にウォトカを飲みにレストランまで足を運んだものさ」

 寂しげな表情と口調でもってそう言ったオレクサンドルは墓前でひざまずき、その生死を確認する事すら出来ないかつての同僚の冥福を祈りながら、ウクライナ正教の所作でもって十字を切った。

「生前のホデムチュクとは特に面識は無かったが、職場の同僚の一人として、俺も祈っておくか」

 かつてこの原子力発電所の警備員だったと言うペトロもまたそう言いながらひざまずき、オレクサンドルに倣って十字を切る。彼ら二人とは異なり、故人とは何の縁もゆかりも無いイライダとゲンナジーの二人はひざまずきこそしなかったものの、眼を瞑りながら小さく頭を垂れて追悼と哀悼の意思を示した。イライダの肩に乗ったスズメフクロウのプーフも、女主人の真似をして眼を瞑ってほうと鳴く。

「さて、いよいよ爆発した四号炉の制御室コントロールルームと、それを覆う石棺の中に足を踏み入れるぞ」

 ややもすれば緊張気味な面持ちのオレクサンドルはそう言って居住まいを正し、再び固唾を飲むと、全長800mにも及ぶ『金の廊下』の最奥に位置する鋼鉄製の扉をそっと押し開けた。実に35年間もの永きに渡って、ごく限られた来訪者しか迎え入れて来なかった扉の蝶番が僅かに軋み、きいきいと言った不快な金属音を奏でる。すると彼ら四人と一羽の眼前に、特にこれと言って感動的な演出が施される事も無いまま、事故を起こした四号炉の制御室コントロールルームがその姿を現した。

「ああ、本当に懐かしいな。ここは少しも変わってないように見え……いや、そうでもないか。いくら締め切っていても、どうやら埃だけは降り積もるらしい」

 そう言いながら制御室コントロールルームの中へと足を踏み入れ、数え切れないほどの計器類やボタン類が所狭しと取り付けられた制御盤コンソールに触れたオレクサンドルの指に、真っ黒な埃汚れがこびり付く。

「これらのボタンを押したり押さなかったりしながら、この部屋から原子炉を制御していたのね。そうでしょう、オレクサンドル?」

「そうだよイライダ、その通りだ。そしてあの事故が起きたまさにその瞬間、国家に奉仕する一人の電気技師として、僕はあの場所に立っていたんだ」

 オレクサンドルはそう言ってイライダの問い掛けに返答すると、びっしりと壁一面に並ぶ色とりどりの計器類を感慨深げに眺めながら、制御室コントロールルームの一角を指差した。どうやらその一角こそが、かつてこの原子力発電所に勤めていたオレクサンドルの、この部屋に於ける定位置だったらしい。

「ちょっと待てよ、糞ガキ。さっきから黙って聞いてやってりゃあ、まるでお前、当時を見て来たような口ぶりじゃねえか」

 彼とペトロの二人が魔術によって若返った老人である事を知らない、もしくは理解出来ないゲンナジーはそう言うと、見掛け上は十五歳程度にしか見えないオレクサンドルの肩を小突いた。

「見て来たような、じゃない。僕は実際に、あの日あの時、この場所で全てを目撃していたんだ」

「おいおいおい、馬鹿言ってんじゃねえって。お前みたいなちんこの毛も生え揃ってないインフルエンサー気取りの糞ガキが、35年前の事故当時に生きていた訳ねえだろう? いくら俺が無学無教養で無知蒙昧なストーカーだからって、その程度の事が理解出来ないとでも思ってんのか? ん?」

 ゲンナジーは小馬鹿にするような口調でもってそう言いながら、より一層の力を込めてオレクサンドルの肩を小突きつつ、大口を開けてげらげらと笑う。どうやら彼は、オレクサンドルが冗談を言い続けているものと思い込んでいるらしい。

「なあ、イライダのお嬢ちゃん」

「ん? 何ですの、ペトロ?」

 やがてゴリラを髣髴ほうふつとさせる風貌のペトロが、制御盤コンソールの裏側に取り付けられたガスマスクと酸素ボンベを物珍しげに観察していたイライダに、彼とオレクサンドルの二人を代表して尋ねる。

「プリピャチのアパートメントの俺の部屋でやってみせたように、このチェルノブイリ原子力発電所の四号炉、もしくはこの制御室コントロールルームの中だけでも、時間を巻き戻す事は出来ないかい?」

「あら? その程度の事でしたら、何の造作も無い事じゃなくて?」

 涼やかな口調でもって事も無げにそう言ったイライダは、これで何度目になるのか右手を頭上に掲げると、その指先をぱちんと打ち鳴らした。すると彼女らが足を踏み入れた制御室コントロールルームとその周囲の空間の時間が巻き戻り、制御盤コンソールの上に降り積もっていた埃が見る間に消え失せたかと思えば、計器類やボタン類のバックライトが次々に点灯し始める。

「それで、どのくらい時間を巻き戻せば良いのかしら?」

 魔術を行使する少女を固唾を飲んで見守っていたオレクサンドルとペトロに、イライダが尋ねた。すると今度は二人を代表して、オレクサンドルが要請する。

「そんなの、決まってるさ。忘れたくても忘れられない、今からちょうど35年前の、1986年4月26日の午前1時23分だ。つまり、ここチェルノブイリ原子力発電所の四号炉が爆発し、周囲一帯におびただしい量の放射能が降り注いだまさにその瞬間に時間を合わせてくれるかい、イライダ?」

「ええ、よろしくてよ。でしたら二人とも、少々お待ちなさいな」

 そう言ったイライダは、容姿端麗かつ眉目秀麗なその顔に小皺を寄せつつ意識を集中させ、時間の巻き戻し加減を微調整しているように見受けられた。すると時間が巻き戻るに従って、かつて爆発事故が起きた際にこの制御室コントロールルームに居合わせた数人の作業員達の幻が姿を現し、壁掛け時計の針が1時23分を指し示す。

「ふう」

 やがて指定された日時でもって時間を巻き戻すのを止めたイライダは、頭上に掲げていた右手を静かに下ろし、小さな溜息を漏らした。

「これでよろしくて、オレクサンドル?」

 イライダが尋ねると、若きオレクサンドルは制御室コントロールルームの一角に立つ白衣と帽子姿の青年の幻を物珍しげに凝視しながら、奥歯に物が挟まったような口調でもって答える。

「ああ、うん、ありがとうイライダ。しかし何だ、いくら夢の中の出来事とは言え、若い頃の自分をこうして外から眺めるのは不思議な気分だな」

 そう言ったオレクサンドルが凝視する端正な顔立ちの青年こそが、どうやら電気技師の一人としてチェルノブイリ原子力発電所に勤めていた頃の、おそらく三十歳前後の彼自身の姿らしい。

「でしたら、時間の流れを元の速さに戻そうかしら?」

 そう言ったイライダが再び指を打ち鳴らすと、巻き戻されたまま止まっていた時間が等倍速でもって再生され始め、幻の作業員達がかつての姿を取り戻した制御室コントロールルーム内を右往左往し始めた。そして彼ら作業員達の顔には一様に緊迫した表情が浮かび、その額や首筋には、じっとりと脂汗が滲んでいる。

「ねえ、オレクサンドル。一体何が起きているのか、わたくしに教えてくださらない?」

 イライダがそう言って、幻の作業員達に勝るとも劣らないほど緊迫した表情のオレクサンドルに尋ねた。

「……あの日、保守点検のために機関停止させる予定だった四号炉は、出力を低下させてもタービンの慣性回転だけで冷却装置を稼働させられるだけの電力が賄えるかどうかの試験も同時進行で行っていたんだ」

 在りし日の出来事を脳裏に思い浮かべているのか、遠い眼をしながらそう言って言葉を失うオレクサンドル。するとそんな彼の肩をとんとんと叩いたペトロが、制御室コントロールルームの中央付近に立つ複数の男達の内の一人を指差し、オレクサンドルに耳打ちする。

「見ろよサーシャ、ディアトロフだ」

 ペトロがディアトロフと呼んだ男は、眉をしかめて口髭を生やした、見るからに高慢で気難しそうな顔立ちの中年男性だった。

「あら? この方は、どなたかしら?」

 口髭を生やしたディアトロフの幻の顔を物珍しげに覗き込みながらイライダが尋ねると、言葉を失っていたオレクサンドルがようやく口を開き、解説する。

「この男は、アナトリー・ディアトロフ。事故当時のチェルノブイリ原子力発電所の副主任技師長であり、さっき説明した試験の責任者で、爆発事故を引き起こした張本人だよ」

 ややもすれば不機嫌そうな口調でもってそう言ったオレクサンドルは、比較的温厚で礼儀正しい彼にしては珍しく、ディアトロフの幻をキッと睨み据えながら小さな舌打ちを漏らした。どうやらこの副主任技師長であった男に対して、オレクサンドルはオレクサンドルなりに、腹に据えかねているものがあるらしい。そして彼が睨み据えるディアトロフの幻は、同じ制御室コントロールルーム内に居る白衣姿の若い青年に向かって、何やら怒鳴り続けている。

「彼は、何を怒鳴っているのかしら? 慙愧に堪えない事ですけれども、母を亡くした今のわたくしの魔術だけでは、空間が記憶している音声までは復元出来ませんの」

 そう言ったイライダの言葉通り、プリピャチのアパートメントでもチェルノブイリ原子力発電所でも、彼女が時間を巻き戻した事によって姿を現した幻はぱくぱくと口を動かすばかりで声を発する事は無い。

「怒鳴られているのはアキーモフ副技師長と言って、原子炉内の制御棒を操作していた作業員だよ。そして事故直前、異常を察知した彼がいくら試験の中止を進言してもディアトロフは聞き入れず、むしろアキーモフを無能呼ばわりして罵り続けていたのをよく覚えている」

 オレクサンドルはそう言うと、ディアトロフ副主任技師長から叱責される度に顔色を蒼褪めさせるアキーモフ副技師長の幻に、この上無い同情の眼を向ける。

「そもそもこの試験は前日の昼間に行われる予定であって、夜勤のアキーモフは、本来ならばこの場に立ち会っている筈ではなかったんだ。それなのに、月末までに生産ノルマを達成しなければならない近郊の工場などが日中の電力量の不足を危惧した結果、予定を変更して夜間に試験が行われたのさ。事前に何も知らされていない、アキーモフの様な不慣れな作業員の手によってね」

 溜息交じりにそう言ったオレクサンドルが、アキーモフ副技師長の眼の前で赤く明滅する、ニキシー管で出来たデジタルメーターを指差した。

「ほら、見てごらんイライダ。ここに表示されているのが、四号炉の出力だよ」

 確かに彼の言う通り、そこには原子炉の出力と思われる数字が表示され、ニキシー管特有の赤橙色に輝いている。

「試験が行われる筈だった日中も低出力を維持し続けた結果、四号炉の炉心にはキセノンと言う物質が蓄積し、キセノンオーバーライドと言う現象によって出力が回復し辛くなっていたんだ。そんな状態で更に出力を下げたものだから、原子炉は殆どエンスト状態に陥り、予定よりも遥かに低い出力から回復しなくなってしまう」

「それで、彼らはどうしたのかしら?」

「焦ったディアトロフは出力を回復させるために、四号炉の原子炉内から、核分裂反応を抑制している制御棒を引き抜けとアキーモフに命じた。それがどれだけ危険な事か分かるかい、イライダ? 稼働中の原子炉から制御棒を完全に引き抜くだなんて、はっきり言って狂気の沙汰だ。しかもチェルノブイリ原子力発電所が採用している原子炉は『黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉』、略して『RMBK型原子炉』と呼ばれるもので、これは原子爆弾の原料となるプルトニウムを製造するための黒鉛炉が原型となっており、恐ろしい事に原子炉を完全に覆って封じ込めるような格納容器がそもそも最初から存在しない。原子炉の一部が、無防備な外界に対して剥き出しなんだ」

「おいおいおい、マジかよ! ……いや、俺も原子炉について詳しい訳じゃねえが、そんな聞くからにヤバそうな原子炉でもって核実験が行われていたってんなら、そりゃあ爆発もする筈だぜ!」

 オレクサンドルとイライダとの会話に割って入るような格好でもって、大袈裟な身振りを交えつつ、ゲンナジーがそう言って天を仰いだ。

「いや、そうじゃないぞゲンナジー。発電用の原子炉で行われる試験や実験の類は、俗に言う核実験とは全くの別物なんだが……まあとにかく、ディアトロフの命令でもって、アキーモフが制御棒を引き抜いてしまったんだ」

「そのアキーモフとか言う作業員が制御棒を引き抜いた結果として、原子炉の出力は回復したのかしら?」

 このイライダの問いに、オレクサンドルが答える。

「ああ、目論見通り、出力は回復したさ。そして予定されていた、停止されたタービンの慣性回転だけで冷却装置を稼働させられるだけの電力が賄えるかどうかと言う試験は開始された。すると今度は、原子炉の出力が上昇し続けて、止まらなくなったのさ。そりゃそうだ、タービンが停止されて冷却水が原子炉内に行き渡らなくなったし、制御棒が全て引き抜かれてしまっているのだから、炉心の熱量の上昇を阻害するものは何も無いのだからね」

「だとしたら、このディアトロフと言う男はさぞ狼狽した事でしょうね」

「そうとも、ディアトロフは酷く狼狽した。そして原子炉の出力が上昇し続ける原因は一体何なんだと、彼の命令に従っただけのアキーモフを激しく叱責し、追求し始める。ほら、今まさに、そのアキーモフを追及している真っ最中だ」

 そう言ったオレクサンドルの指摘通り、時間を巻き戻した結果として現れた幻のディアトロフがアキーモフを怒声交じりに追求し、追及された幻のアキーモフはどんどんテンパり始め、どうにもこうにも制御室コントロールルーム内は収拾がつかない。

「そして遂に、運命の時が訪れる」

 オレクサンドルがそう言った直後、ディアトロフとアキーモフ、そして彼らの傍に居たもう一人の男が一斉に席を立ち、制御盤コンソールの一カ所に三人が集まった。

「ディアトロフ、それにアキーモフ、そしてアキーモフの同僚のトプトゥーノフの三人の内の誰かが『AZ5』と呼ばれる赤いボタン、つまり原子炉の緊急停止ボタンを押したんだ。すると炉心で進行する核分裂反応を抑制するために、全ての制御棒が原子炉内に緊急挿入される。だが結果として、これが最悪の事態を招いてしまってね」

 すると次の瞬間、幻の四号炉の制御室コントロールルームががたがたと激しく揺れ始め、同じく幻のディアトロフやアキーモフ、それにトプトゥーノフらと言ったその場に居合わせた作業員達がはっと息を呑む。

「これが、RMBK型原子炉の構造的欠陥だ。原子炉の熱量が上昇している状態で制御棒を挿入すると大量の水蒸気が発生し、この水蒸気によって炉心の冷却が阻害され、核分裂反応が止まるどころかむしろ促進されてしまう。そして暴走した原子炉内の圧力に耐え切れなくなった炉心の上蓋が吹き飛んだ直後、堰を切って流入した水素と酸素に反応した制御棒の黒鉛グラファイトが大爆発を引き起こした。つまり、爆発は二度起きたんだ」

 二度にも渡る衝撃と、その衝撃に起因する激しい揺れが収まった制御室コントロールルーム内で、狼狽するばかりのディアトロフやアキーモフ、それにトプトゥーノフら作業員達は互いの顔を見合わせながら右往左往するばかりだ。そして原子炉の爆発から数分後、蜂の巣をつついたような騒ぎの制御室コントロールルーム内に数名の作業員達が飛び込んで来て何事かを報告するも、報告されたディアトロフはそれらの作業員達を怒鳴り付ける。

「原子炉が爆発し、おびただしい量の放射能を撒き散らしながら炉心が跡形も無く吹き飛んだと何度報告されても、ディアトロフはその報告を信じようとはしなかった。それどころか報告した部下達を嘘吐きの無能呼ばわりした挙句、疑義を呈するアキーモフやトプトゥーノフらに、直接現場を見に行って報告し直すよう命じたんだ」

「見に行くとは言っても、原子炉は爆発してしまっているのでしょう?」

 このイライダの問いに対して、オレクサンドルはかぶりを振って天を仰ぎながら返答する。

「ああ、そうさ。だから原子炉の様子を見に行ったアキーモフやトプトゥーノフは、爆発事故が起きたまさにその現場で致死量を遥かに超える放射線を浴び、急性放射線障害で意識を失ってしまった。他の数名の作業員達も消火活動に駆け付けた地元の消防士達も、同様の症状でもって救急搬送されたものの、治療の甲斐も無くモスクワの第六病院で息を引き取ったよ。そして彼らの遺体はあまりにも汚染が激しかったがために、鉛でコーティングされた特別製の棺に納められ、モスクワ郊外のミチンスコエの墓地の外れに埋葬された。墓穴にコンクリートを流し込んで、未来永劫放射能が流出しないようにしてね。なんでも聞いた話によれば、酷い放射線焼けやリンパ腫によって彼らの手足は二倍の大きさにまで腫れ上がり、遺体に靴も靴下も履かせる事が出来なかったらしい」

「まったく、ディアトロフの野郎が自分で原子炉を見に行っていれば、少なくとも作業員の何人かは死なずに済んだのによ」

 オレクサンドルの話を聞いていたペトロはそう言うと、舌打ちと共にぺっと唾を吐き捨てた。すると今度は、そんなペトロに向かってイライダが尋ねる。

「それでペトロ、原子力発電所で爆発事故が起きたまさにその時、あなたはどこで何をされてたの?」

「俺は……」

 ゴリラを髣髴とさせる面構えの若きペトロは当時の記憶を呼び覚まそうと、腕を組んで眉間に深い縦皺を寄せながら、そっと眼を瞑った。

「……俺はあの日、警備の仕事が非番だったものだから、原子炉が爆発したその瞬間の記憶は無い。プリピャチの自宅の寝室で、毛布に包まって寝ていたからな」

 慎重に言葉を選びつつ、ペトロは語り続ける。

「そして午前二時頃だったと思うが、寝ていた俺を、アパートメントの隣の部屋に住んでいたドミトリーが「発電所が燃えているぞ!」って言って叩き起こしたんだ。そして飛び起きた俺が窓の外に眼を遣れば、確かにオレンジ色に輝く炎と真っ青な煙を噴き上げながら発電所が炎上していたものだから、驚いたの何のって!」

「驚いたあなたは、その後どうされまして? 寝室の窓から静観されていただけなのかしら?」

「まさか! 俺だって警備員の端くれだ! 職場である発電所に駆け付けようと、取るものも取り敢えず、急いでアパートメントを後にしたさ! そしてアパートメントの外に出てみれば、プリピャチの街のあちこちで住民達が寄り集まって、火事の様子を見物していた様子が今でも忘れられない。あの時は未だ誰も、原子炉が爆発して放射能が漏れ出てしまっているだなんて事実を知る由も無かったからな」

「ふうん、暢気のんきなものね」

「ああ、住民の多くが暢気のんきだったし、迂闊だった。そしてプリピャチの街を後にし、当時通勤に利用していたIMZ社製のバイクでもって発電所へと続く道を走っていると、妙に金属臭い匂いが周囲一帯に漂っていた事を覚えているよ。あれは一体、何の匂いだったんだろう?」

 ペトロはそう言って首を傾げるが、彼の回想は終わらない。

「発電所へと向かう道中、空からぱらぱらと真っ白な灰が降って来た。当時は只の灰だと思っていたが、今にして思えば、あれがいわゆる『死の灰』って奴だったんだろうな。その灰を浴びたおかげで、俺はこうして被曝しちまったよ」

「それで、あなたも爆発した原子炉内に足を踏み入れたのかしら、ペトロ?」

「いやいや、一介の警備員に過ぎない俺なんかに、そんな大それた権限は付与されてねえよ。それどころか非番の警備員の手を借りる必要は無いとか言われるし、事故の二日後からは発電所の警備は軍の管轄下に置かれるとか何とかで、俺らみたいな国営企業の下っ端警備員はお役御免を言い渡されちまった」

「だとすれば、あなたの被爆量は微々たるものではなくて?」

「近所の住人達と一緒にプリピャチからスラブチッチへと移住し、その後何事も無ければ、あるいはそうだったかもな」

 イライダの疑問にそう言って返答したペトロは、深い深い溜息を吐いた。

「事故からおよそ一か月半後の6月のある日、スラブチッチに移住した俺の元に、一通の手紙が届いたんだ。チェルノブイリ原子力発電所での除染作業に従事せよと言う、当局からの命令書だよ。つまり俺は、軍人でもないのに、俗に言うところの事故処理作業者リクビダートルの一員に選ばれちまったって訳なのさ」

事故処理作業者リクビダートル……それは具体的に、何をする人達なのかしら?」

「爆発事故の後始末に関する汚れ仕事なら、何でもさ」

 ペトロはそう言って、天を仰ぐ。

「俺達は招集された旧ソ連軍の兵士達と共に、原子力発電所から20㎞ばかりも離れた森の中のテントで軍服を着ながら寝起きしていた事から、周辺住民達からは『パルチザン』と呼ばれていたよ。そして俺が所属する部隊に最初に与えられた任務は、発電所の周囲の汚染された森の樹木を伐採し、それらを1m50㎝の長さで切り揃えてから放射性廃棄物埋設地に埋める事だったのさ。ちなみにこの『放射性廃棄物埋設地』と言うのはそこらへんに掘られた只の穴ぼこで、穴の周囲には防水シートを敷いて地下水脈を汚染しないように命令されていたが、実際にはそんな命令には誰も従っていなかった。そして埋められた廃棄物の大半は、俺らが撤退した後に火事場泥棒達によって掘り起こされ、全て盗まれてしまったよ。あんな放射能まみれの廃棄物を盗んで一体どうするつもりなんだか、盗んだ奴の気が知れねえな」

「最初に与えられた任務と言う事は、別の任務も与えられたのね?」

「ああ、その通りだ。さすがに察しがいいな、イライダのお嬢ちゃん。お嬢ちゃんの予想通り任務の内容は二転三転し、二番目に与えられた任務は、立入禁止区域内の街や村から避難した住民達が残して行った犬や猫を処分する事だ」

「処分?」

 今度はイライダが眉根を寄せ、ごく僅かにではあるが、顔をしかめた。

「ああ、処分だ。お嬢ちゃんみたいな小さな女の子にはショックな事かもしれんが、部隊員全員に旧式のモシンナガン小銃が配られ、それでもって避難した住民達が残して行ったペットの犬猫を射殺して回るのさ。プリピャチからバスで避難する際に、ペットは同伴出来ないとして、その場に残して行く事を強要されたからな。避難当日、飼い主が乗ったバスを何㎞にも渡って追い掛け続けた大型犬が遂に力尽き、後続のバスに轢き殺される光景を目の当たりにしたもんだ」

「どうして犬や猫を処分したのかしら?」

「そりゃあ、奴らの毛皮や内臓が放射能で汚染されているからだろう。俺は学が無いから良く分からんが、汚染されたペットが野生化してそこらをうろつき回っていると、汚染範囲を広げちまうって理屈じゃねえのかな? だとしたら処分するのは犬と猫ばかりで、牛や豚や馬と言った家畜は処分しないように命じられていたのが不思議でならねえが、その辺りの事情は当時のお偉いさん方に聞いてくれ。下っ端の事故処理作業者リクビダートルの一人に過ぎなかった俺には、奴らの考えている事なんて皆目見当もつかねえや」

 そう言ったペトロは寂しげに笑い、イライダは尚も尋ねる。

「つまりペトロ、あなたは立入禁止区域内で、逃げ惑う犬や猫を追い掛けながら射殺して回っていたのね?」

「いや、それがちょっと違うんだな、イライダの嬢ちゃん。人間に飼い慣らされたペットの犬猫は、わざわざこっちが探し出して追い掛け回すまでもなく、人間の声を聞くと自分から寄って来るんだ。餌が貰えるか、あわよくば飼い主の元まで連れ帰ってくれると信じてね。そして寄って来たところを、支給されたモシンナガン小銃でもって「パン!」と撃ち殺す」

 幻の制御室コントロールルームの中央で、若きペトロは小銃を構えるジェスチャーと共に、銃声の声真似を披露した。

「後は死体をトラックに乗せて放射性廃棄物埋設地まで運び、やはり立入禁止区域内の街や村の家々から集められた、汚染された家具や家財と一緒に埋めちまう。やがてそんな生活が二ヶ月ばかりも続いたある日、今度はまた別の任務を言い渡された」

「今度は、どんな任務だったのかしら?」

「そうだな、言うなれば原子炉建屋の除染作業って奴かな。なんでも爆発した四号炉を覆う『石棺』を建設するにあたって、隣の三号炉の屋上にまで飛び散った黒鉛グラファイトやその他の汚染資材を、四号炉の内部に放り込まなきゃならなくなったそうだ。それで、最初は遠隔操作が可能なロボットを使ってそれらの作業を行う予定だったんだが、どうやら放射線って奴は機械にも悪影響を与えるらしい。投入されたロボットが次から次へと故障した結果、結局は人力、つまり人間の手でもってこの危険な作業を行うしかすべは無いと判断されたのさ」

「それはまた、随分と危険な任務でなくて?」

 イライダが眉一つ動かさずにそう言うと、実際にその『危険な任務』に従事したペトロは肩を竦め、溜息交じりにかぶりを振る。

「ああ、極めて危険な任務だ。でも、誰かがやらなくちゃならない事でもある。だから俺は国家のために、そしてその国家が擁する人民のために、胸を張って原子力発電所に赴いたね! 放射能も恐れずに!」

 先程までの肩を竦めていた姿とは一転、ペトロは拳を振り上げながら、意気揚々と気勢を上げてみせた。

「そして原子力発電所の敷地内に張り出されたあのスローガンと、四号炉の屋上に掲げられた国旗だ! あれらを眼にした時、俺の心は奮い立ったね!」

「スローガン? 国旗?」

 首を傾げるイライダに、今度はオレクサンドルが解説する。

「当時の発電所とその周囲の施設の内外には色々な種類のスローガンが張り出されていたんだが、中でも除染作業を行う事故処理作業者リクビダートル達が集められた施設内に「我々でなければ誰がやる!」との一文が張り出されていてね。ペトロはそのスローガンがお気に入りで、よく復唱していたもんだよ」

「ふうん、そう。それで、国旗と言うのは何なのかしら?」

「事故の僅か数日後に、自ら志願した決死隊の兵士達の手によって、爆発した四号炉の屋上にソヴィエト連邦の国旗が掲げられたんだ。しかしその国旗も、放射線の影響かどうかは分からないが、一ヶ月も経つとぼろぼろに朽ち果ててしまってね。するとまた新たな決死隊が編成されると言った塩梅でもって、結局石棺が完成するまでの間に、この国旗は何度も何度も新しい物と取り替えられ続けたよ。それもこれも、ソヴィエト連邦と言う我らが国家の威信を誇示し、人民の代表である事故処理作業者リクビダートル達の士気を向上させるためさ」

 若きオレクサンドルがふふんと鼻を鳴らしながら訳知り顔でもってそう言って、十代の少年然とした薄い胸を張った。どうやら彼とペトロの二人は、事故処理作業者リクビダートルの一員として事故の収束に尽力した事を誇りに思うと同時に、これらの逸話の数々をある種の自慢話として褒め称えてほしいらしい。だがしかし、四人の中で唯一チェルノブイリ原子力発電所が爆発事故を起こす以前には生まれてもいなかったゲンナジーばかりは、彼らに異を唱える。

「おいおいおい、さっきから黙って聞いてりゃ国家がどうだとか人民がどうだとか、時代錯誤も甚だしい事言ってんじゃねえよ! 結局はその国家、つまりソヴィエト連邦は崩壊しちまったし、かつての人民である国民は今も貧しいままなんだから、これこそまさに骨折り損のくたびれ儲けじゃねえか!」

「……」

 ゲンナジーによって水を差される格好になったオレクサンドルとペトロの二人は意気消沈し、言葉も無い。

「あらゲンナジー、あなた、ソヴィエトがお嫌いでして?」

 言葉を失ってしまった二人に代わってイライダが問い質すと、ゲンナジーは不機嫌さを隠そうともせずに、苦虫を噛み潰したような表情のまま答える。

「あ? おい糞ガキ、よりにもよって「お嫌いでして」だって? いいや、嫌いどころか憎んでいる、むしろ恨んでいると言っても過言じゃないね! なにせ俺と俺の家族は、ソヴィエト政権のせいで全てを失ったんだからな!」

「と、言いますと?」

「俺の爺様はレーニンの思想にかぶれた熱心な愛国者で、ドイツ野郎が攻め込んで来て大祖国戦争が勃発した時には真っ先に志願し、最前線で果敢に戦ったんだ! だけど爺様はスモレンスクの戦いでドイツ軍の捕虜になっちまって……それでも捕虜収容所で二年間の強制労働に耐え抜き、命からがら生き延びて赤軍に開放されたって言うのに……今度はソヴィエト側の収容所ラーゲリに収監されちまったよ! 一度でもドイツ野郎の手に落ちた奴は資本主義の影響を受けていて、もう同胞でも何でもない国家の裏切り者だって理由でな!」

 まるで吐き捨てるような口調でもってそう言ったゲンナジーは、モザイク模様のタイルが敷かれた制御室コントロールルームの床に向かって、今度は文字通りの意味で唾を吐き捨てた。

「それは、ご愁傷様ね」

「ご愁傷様だって? 俺の話はまだ終わっちゃいねえぜ? 結局爺様は十年ちょっとばかりも強制労働に従事した後に、着の身着のままの姿でもってようやく解放されたが、収容所ラーゲリ帰りのレッテルを張られた人民はまともな職になんか就けやしねえ! 殆ど農奴同然の待遇でもって集団農場コルホーズで働き、それでもなんとか結婚して子供をもうけたが、その子供、つまり俺の親父が成人する前に過労がたたっておっんじまった! 今際の際まで、レーニンとその思想を信じてな!」

「お爺様が亡くなられてから、その息子であるあなたのお父様はどうしたのかしら?」

 イライダがそう言って問い掛けると、興奮しきりだったゲンナジーは、多少なりとも落ち着きを取り戻す。

集団農場コルホーズでの暮らしに嫌気が差していた親父は、婆様を田舎に残したまま家を飛び出し、サンクトペテルブルクで職探しを始めたよ。しかしそこは、社会主義の国だ。どれだけ才能や向上心に満ち溢れていたとしても、集団農場コルホーズ出身の無学の若者が就ける職なんて、たかが知れている。だから親父は一念発起し、陸軍に志願したんだ。軍人だったら戦果を挙げさえすれば、それなりの地位に就ける可能性が残されてなくも無いからな」

「そう。それで、お父様は陸軍で出世出来て?」

「まさか! 出世どころか歳下の上官にこき使われるばかりの万年二等兵に甘んじ続けた挙句、ようやく出征したアフガニスタンで功を焦って地雷を踏み、戦果を挙げる前に両脚を吹っ飛ばされて名誉除隊だ! しかも除隊した翌年にソヴィエト政権が崩壊したせいで傷痍軍人に対する年金も減額され、車椅子に座ったまま日がな一日中飲んだくれるばかりの親父に愛想を尽かしたお袋は五歳の俺を残して家を出て行っちまうし、俺と俺の家族の人生はお先真っ暗だっての!」

 思い出したくもない過去を思い出しながら、ゲンナジーは苦々しく、そして忌々しげな口調でもって彼と家族の過去を吐露した。

「なるほど、それであなたはストーカーになられたのね?」

「ああ、そうだとも。俺が十七歳の時にウォトカの飲み過ぎから来る脳溢血で親父がおっんじまった時、残された財産はあの愛車一台と、地元の悪徳金融業者が債権を有する多額の借金だけだった。だから俺は全てを捨ててロシアの故郷を飛び出し、国境を超え、ここウクライナのチェルノブイリで一人のストーカーとして生きて行く事に決めたんだ」

「ふうん、そうですの。……それでゲンナジー、ストーカーと言う生き方、そしてチェルノブイリ原子力発電所と言う施設の一体どのような点が、あなたをそこまで魅了したのかしら?」

 イライダが問うと、ゲンナジーは暫し逡巡してから答える。

「そうだな……ここは、チェルノブイリ原子力発電所とその周辺の『ゾーン』は、誰にも束縛されない自由な世界なんだ。生きる事も死ぬ事も自由なら、生きない事も死なない事も自由である、何物にも代えがたい唯一無二の楽園なのさ。資本主義か共産主義かも関係無く、裕福か貧しいかも意味を為さない、誰もが平等に病んでいる。そんな死と隣り合わせの刹那的な生き方が、俺達ストーカーにとっては心地良くて仕方が無えんだ。まあ、そう言う事さ」

「ふうん、なるほどねえ。つまりあなたも死に魅せられた業深き者の一人なのね、ゲンナジー。違って?」

 イライダはゲンナジーをそう評し、冷笑するような表情でもってくすくすとほくそ笑んだ。

「あ? 業深き者? 何だそりゃ?」

 しかしながら彼女に評されたゲンナジーはと言えば、その言葉の意味するところを理解し得ない。

「理解出来ないのでしたら、無理に理解せずともよろしくてよ? それよりもペトロ、あなたのお話の続きを聞かせてくれないかしら? 確か、そう、屋上に飛び散った黒鉛グラファイトを原子炉に放り込む任務に就く事になったとか何とか、そのようなお話だった筈よね?」

「あ、ああ」

 イライダによって水を向けられたペトロは咳払いでもって喉の調子を整えると、居住まいを正して気を取り直し、改めて語り始める。

「原子力発電所の敷地内に足を踏み入れ、中庭に整列させられた俺達、つまり事故処理作業者リクビダートルの面々には防護服代わりの鉛のエプロンが支給された。勿論そんな物は気休めに過ぎないが、それでも何も身に付けない、シャツ一枚で作業に従事させられるよりは幾分マシなんだろうさ。なにせ発電所内に防疫施設が設けられたのはその年の七月に入ってからの事で、それまでは放射線から身を守る防護服どころか鉛のエプロンすら無かったってえんだから、文句は言えねえよ」

「それはまた、随分と場当たり的な対処の仕方ね。除染作業を統括する責任者は、あなた達の命を何だと思っているのかしら?」

「仕方ねえさ、社会主義国家では人間の命が一番安いってのが、大祖国戦争より以前からのこの国の伝統なんだからな。だがそれでも、致死量の放射線を浴びて無駄な犠牲を出さないように、一人の事故処理作業者リクビダートルに与えられた作業時間は90秒までと決められていた。つまり屋上へと続く原子炉建屋の物陰に身を隠し、現場監督が鉄道のレールを短く切った即席の鐘を鳴らすと一斉に屋上に飛び出して、大童おおわらわ黒鉛グラファイトを回収してから四号炉の炉心に向けて放り投げるんだ。勿論専用の機材などではなく、只のスコップとバケツでね。そして90秒が経過すると再び鐘が打ち鳴らされ、俺達は慌てて物影へと退避する。聞いた話ではこの作業に駆り出された事故処理作業者リクビダートルは延べ210部隊、ざっと34万人に上るとも言われているが、正確な数字はたぶん誰も把握しちゃいねえよ。とにかく軍服を着て生身で放射能を除去した俺らは『生きたロボット』とか『緑のロボット』とか呼ばれながらも任務を全うし、表彰状と100ルーブルの報奨金を受け取って、ようやく除隊出来たんだ」

「だとすると、あなたの被爆量は微々たるものなどではなく、いわんや相当量に達していたのね。そうでしょう、ペトロ?」

 特に同情するような口ぶりではなく、相変わらずの冷静かつ冷淡な口調でもって、イライダが重ねて尋ねた。

「ああ、そうだとも。その結果として、俺は全身に転移した悪性腫瘍と白血病のせいで死に掛けている。だがしかし、それにつけても気になるのが、俺達が除染作業に従事していた際に防疫施設で働いていた婆様達のその後の容態だ。実は原子力発電所内の防疫施設には洗濯機が無くて、事故処理作業者リクビダートルの汚染された軍服や防護服を近くの町や村から徴収された婆様達が手洗いしていたんだが、どう考えてもあの婆様達の被爆量も結構なものだろう。いくら老い先短いとは言え、彼女らも無事では済まなかったに違いないと思うと、どうにも遣り切れないね」

 若きペトロは沈痛な面持ちでもってそう言うと、その眼に涙を滲ませ、彼が言うところの『防疫施設で働いていた婆様達』に思いを馳せる。

「まあ何はともあれ、俺もサーシャも除染作業に従事した功績が認められた結果、幸運にも赤旗勲章を授与されたのさ。俺の勲章は病室に飾ってあるから、今度見せてやるよ、イライダの嬢ちゃん」

 心機一転そう言うと、ペトロは涙を拭って微笑んだ。

「けっ! 何が赤旗勲章だ! あんなもんは只のブリキの板じゃねえか!」

 しかしながらゲンナジーだけはそう言うと、デジタルフローラ模様の迷彩服のポケットから取り出した新たな安煙草を咥え、ペトロの思い出話に対する不快感を隠そうともしない。

「何だと、ゲンナジー? どうやらお前とは、一度じっくりと話し合わなくちゃならないようだな」

「話し合うだあ? お前みたいなインフルエンサー気取りの糞ガキがどんなに大法螺吹こうが、この俺は絶対に騙されやしないんだよ! そもそもどう見たって俺よりも歳下のお前が崩壊前のソヴィエトの勲章を授与されただなんて、そんなふざけた話を信じられる訳がねえじゃねえか! だろ? 違うか?」

 安煙草を咥えながらそう言ったゲンナジーとペトロは、まさに一触即発と言った空気を漂わせつつ睨み合い、拳を固く握り締めたまま互いの出方をうかがう。

「まあまあ二人とも、少しは落ち着きなって。な?」

「そうよペトロ、それにゲンナジー。あなた方がこんな所でいがみ合ったところで、誰一人として得する者は居ないのではなくて?」

 オレクサンドルとイライダの二人がそう言ってなだめると、睨み合っていたペトロとゲンナジーは舌打ち交じりに視線を逸らし、今にも相手の顔面目掛けて振り下ろさんとしていた拳を収めて臨戦態勢を解いた。どうやら彼らは互いを値踏みし合った結果、眼の前の不埒物を争うに値する相手と認めなかったか、もしくは些細な価値観の相違に拘泥し過ぎても一文の得にもならないと判断したらしい。

「そうそう、それで良くってよ。ペトロもゲンナジーも、二人とも聞き分けの良いお利巧さんね」

 腕白な幼子をあやすような口調でもってそう言ったイライダは気を取り直し、彼女の白くか細い左手首に巻かれた、如何にも高価そうな造りの腕時計の文字盤にちらりと眼を向ける。

「あら? もうこんな時間じゃない。そろそろキエフに帰りません事には、陽が昇る前に眠りに就く事が出来ないのではなくて?」

 イライダはそう言うと、頭上に掲げた右手の人差し指をぴんと立て、その指でもって虚空にくるりと円を描いた。すると描かれた円はきらきらと輝く円環となり、その円環の内側が、小石を投げ込んだ水面の様にゆらゆらと波打ち始める。

「三人とも、遅れずについて来なさいな」

 そう言ったイライダはスズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま、軽快な足取りでもって、先陣切って円環の中へとその身を躍らせた。そしてパジャマ姿のオレクサンドルとペトロの二人もまた彼女に続いて円環を潜り抜けるも、三人と一羽が姿を消した制御室コントロールルームにぽつんと取り残されたゲンナジーばかりは、眼の前の不思議な円環に身を投じるべきか否かの決心がつかない。

「おいおいおい、一体何なんだ、これは? 足を踏み入れても大丈夫なもんなのか? ガキどもはどこに姿を消した?」

 ゲンナジーはそう言って困惑しながら円環の様子を観察していたが、やがて覚悟を決めると、ゆらゆらと波打つその内側へとままよとばかりに飛び込んだ。このまま無人の四号炉の制御室コントロールルームに一人取り残されるのも心細いし、未知の事象や現象に対して尻込みする姿を見られてしまっては、イライダらの様な『糞ガキども』に笑われてしまうと危惧したからである。すると円環を潜ると同時に空間を移動したのか、次の瞬間には彼の姿は制御室コントロールルームから消え失せ、赤い森とチェルノブイリ原子力発電所のちょうど中間地点の道すがらに停車させたUAZ-452四輪駆動車の傍らに立っていた。そして呆気に取られるゲンナジーの背後で、今しがた潜って来たばかりの円環が音も無く閉じたかと思えば、一切の痕跡も残さず霧散する。

「あらゲンナジー、遅かったじゃない。わたくしの魔術にその身を委ねるのは、気が引けて?」

 円環を潜った先の、ゲンナジーの愛車であるUAZ-452四輪駆動車の傍らに立つイライダが、くすくすと冷笑するようにほくそ笑みながらそう言った。

「ば……馬鹿言え! こんなもん怖くも何ともねえよ!」

 ゲンナジーは強がってみせるが、円環を潜る際の緊張と恐怖でもって、その心臓はどきどきと早鐘を打つ。

「でしたらもう、こんな魔術でもって身を隠す必要も無くってね」

 ほくそ笑みながらそう言ったイライダが、頭上に掲げた右手の指をぱちんと打ち鳴らして魔術を解除すると、ぼんやりとしていて捉え所が無かった四人と一羽の姿がはっきりと見て取れるようになった。

「それではゲンナジー、あなたとはここでお別れね。発電所までの道案内、どうもご苦労様。何もお礼は出来ませんけれど、わたくし、あなたには心から感謝していましてよ? さようなら、ご機嫌よう」

 イライダは軽い会釈と共に別れを告げ、くるりと踵を返す。

「さあオレクサンドル、ペトロ、そろそろわたくし達はキエフに帰る事にしましょうか」

 やはりUAZ-452四輪駆動車の傍らに立っていた二人に向けてそう言ったイライダは、再び虚空に円を描き、新たな円環を出現させた。そして円環の内側へと先陣切ってその身を躍らせれば、ペトロは軽快な足取りで、オレクサンドルは少しばかり名残惜しそうな眼をプリピャチの方角に向けながら彼女の後を追う。

「じゃあなゲンナジー、道案内助かったよ」

「あんがとよ、ゲンナジー」

 そう言ったオレクサンドルとペトロの二人が円環の向こうへと姿を消し、その円環もまた消え失せると、宵闇に沈む道すがらには迷彩服姿のゲンナジーとUAZ-452四輪駆動車の一人と一輛だけが取り残された。

「……夢……だったのか?」

 狐につままれた、もしくは狸に化かされた気分のゲンナジーは晩秋の星空を見上げながら自身の頬をぎゅっとつねってみるが、当然の事ながらつねられた頬がひりひりと痛むばかりで要領を得ない。

「……帰るか」

 痛む頬を擦りながらそう呟くと、迷彩服姿のゲンナジーはUAZ-452四輪駆動車の運転席に乗り込み、鍵穴に差し込んだイグニッションキーを回してエンジンを始動させた。そして来た道を引き返すようにして走り去る彼と彼の愛車を、物言わぬ満月だけが静かに見守り続けている。

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