第六幕


 第六幕



 ヘッドライトとテールランプの灯りでもって闇夜を切り裂きながら、イライダら四人と一羽を乗せたUAZ-452四輪駆動車は、オパチチ村を南北に分断するメインストリートを疾走していた。

「さて、と」

 老婆ユーリヤの民家を発ってから数分後、オパチチ村とプリピャチとを繋ぐ街道を走りながら、不意にゲンナジーが尋ねる。

「なあガキども、婆さんも居なくなって村の外にも出た事だし、そろそろ腹を割って話し合おうや。お前らの両親がプリピャチに住んでいたなんて言うのは、真っ赤な嘘なんだろう?」

「あら? どうしてそう思いますの?」

 運転席でハンドルを握るゲンナジーの疑問に対して、後部座席に腰を下ろしたイライダは逆に問い返した。

「チェルノブイリ原子力発電所の第四号炉が事故を起こして爆発し、全てのプリピャチ市民が避難させられたのは、今からちょうど35年前の1986年の4月末だ。そして当時あの街に住んでいたのは原発で勤務する若者ばかりだったから、平均年齢は二十代後半から三十代前半と言ったところだろう。つまり、当時プリピャチに住んでいた夫婦は、もう六十代から七十代の爺さん婆さんだ。そんな爺さん婆さんの子供を名乗るには、お前らは若過ぎる。子供でなく孫だって言うのなら、未だ説得力はあっただろうがね」

「なるほど、なかなか鋭い洞察力ね。それで、もし仮にわたくし達の話が真っ赤な嘘だとしましたら、あなたは何が真実だと考えまして?」

「そうだな、俺が思うに、お前ら三人は夜のプリピャチで肝試しをしようって魂胆の糞ガキどもだ。しかもおそらく、その一部始終を撮影した動画をYoutubeやインスタグラムにアップしてアクセス数を稼ごうって言う、下卑た腹積もりのインフルエンサー気取りなんだろうさ。違うか? ん?」

「おいお前、一体何を言って……」

 ゲンナジーの発言を耳にしたオレクサンドルが怒りを露にしながら抗言しようと腰を上げ掛けたが、そんな彼をイライダが制する。

「申し訳ありませんけれど、その推論は全くの的外れじゃないかしら、ゲンナジー。それにむしろ、わたくし達はあなたが何者なのか、そちらをお聞きしたいと思っていたところでしてよ。先程あなたが名乗った『ストーカー』の正体などと言った点を、具体的にお教え願えないものかしら?」

 自分達への問い掛けに対する返答を誤魔化しながら、イライダが尋ねた。

「そうだな、まずは何から説明すべきか……お嬢ちゃんはこれまでに、紙でも電書でもいいから『路傍のピクニック』ってタイトルの小説か、もしくは『ストーカー』ってタイトルの映画を読むなり観るなりした事はあるかい?」

「映画か小説のストーカー? 小説でストーカーでしたら、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を原書で読みましてよ」

「違う違う、そのストーカーじゃねえよ、お嬢ちゃん。俺が言ってるのは旧ソ連のSF作家だったストルガツキー兄弟が著した『路傍のピクニック』って小説と、それを原作とした『ストーカー』って映画だ。そしてこれらの小説や映画に登場する、異星人によって汚染された『ゾーン』と呼ばれる立入禁止区域内に不法侵入するならず者達の呼称こそが、いわゆる『ストーカー』なのさ」

「ふうん、なるほどねえ。それであなた達はその小説と映画に倣って、チェルノブイリ原発事故の立入禁止区域内を『ゾーン』と呼び、自ら進んで『ストーカー』を名乗ってらっしゃる訳ね。違って?」

 イライダが看破すると、ゲンナジーはUAZ-452四輪駆動車のハンドルを握ったままひゅうと口笛を吹き、彼女を称賛する。

「さすがはカップ麺を食った事も無いような、育ちの良いお嬢ちゃんだ。察しが良くて助かるぜ」

 ゲンナジーはそう言って笑いながら、デジタルフローラ模様の迷彩服のポケットから取り出した安煙草を口に咥えると、やはり安物のジッポライターでもってその先端に火を点けた。たとえ狭い車内で、同乗者が未成年であったとしても、彼の辞書に『禁煙』の二文字は記されていないらしい。するとそんなゲンナジーに、後部座席のイライダは敢えて尋ねる。

「それでゲンナジー、もし仮にわたくし達があなたの言うところの『プリピャチで肝試しをしようって魂胆の糞ガキども』で、また同時に『下卑た腹積もりのインフルエンサー気取り』だとしたら、あなたはこれからどうなさるおつもりなのかしら? ここで車を停めて、わたくし達三人を、放射能で汚染された夜の森の中に置き去りにしまして?」

「馬鹿言え、そんな薄情な事が出来っかよ。俺だって法を犯してゾーンに不法侵入している、世間様には顔向け出来ないストーカーの身だ。仮にお前らが糞ガキだとしたら、お互いならず者同士、仲良くするさ」

「その言葉さえ聞けましたら、一先ず安心と言ったところね。どうせあなたも自分の素性を根掘り葉掘り詮索されたくない身の上なのでしょうから、もうこれ以上お互い腹の探り合いはよして、プリピャチに急ぐべきなんじゃないかしら?」

「なるほど、そいつは名案だ」

 そう言って同意したゲンナジーはアクセルペダルを踏み込み、彼の愛車であるUAZ-452四輪駆動車を急加速させた。唸りを上げながら回転する骨董品同然のエンジンが今にも破裂してしまいそうで、どうにも危なっかしくて仕方が無い。そして車内のゲンナジーとイライダとスズメフクロウのプーフ、それにオレクサンドルとペトロを加えた四人と一羽は無言のまま、一路プリピャチを目指す。

「おいガキども、前を見な。そろそろプリピャチが見えて来る筈だぜ」

 やがて10㎞から12㎞ばかりも街道を走らせた頃、運転席でハンドルを握るゲンナジーがそう言いながら、愛車の進行方向を指差した。すると雨と泥と砂埃で汚れたフロントガラス越しの闇夜の向こうに、巨大な豆腐にも似た白くて四角い建造物が、幾重にも折り重なるようにして立ち並んでいるのが眼に留まる。そして月光と星明りに照らし出されたその巨大な豆腐の集合体こそが、かつてチェルノブイリ原子力発電所で働く労働者達に貸し与えられ、現在では人っ子一人住まないゴーストタウンと化したプリピャチの高層アパートメント群であった。

「プリピャチだ……」

「ああ、そうだサーシャ、俺達はプリピャチに帰って来たんだ」

 後部座席から身を乗り出しながらそう言ったオレクサンドルとペトロの二人は、前方のアパートメント群をジッと睨み据えるように凝視し、感慨深げに眼を細める。

「それで、どの辺りで車を停めればいいんだい?」

 四人と一羽を乗せたUAZ-452四輪駆動車がプリピャチの敷地内に侵入したところで、愛車を減速させたゲンナジーが尋ねた。

「この先にプリピャチ遊園地と呼ばれる遊園地がある筈だから、そこで降ろしてくれ」

「あいよ」

 ペトロの要請を了承したゲンナジーは指定された遊園地を目指しつつ、ゆっくりと安全運転を心掛けながら愛車を走らせる。窓から臨むプリピャチの街はしんと静まり返り、繁殖し放題の草木によってあらゆる建造物が侵食され、それはまさにSF映画に登場する人類が滅びた後のゴーストタウンそのものとの言を俟たない。

「着いたぜ、ここがプリピャチ遊園地だ」

 やがて遊園地の敷地の外れに到着するなりそう言ったゲンナジーは、ブレーキペダルを踏み込んでUAZ-452四輪駆動車を停車させ、エンジンを切ってからイグニッションキーを引き抜いた。そしてオレクサンドルとペトロの二人はちょうど35年ぶりに故郷の大地に降り立つと、すっかり変わり果ててしまった街の景観に胸を痛めつつ、その懐かしさに心を躍らせる。

「懐かしいな……遊具が錆びて雑草が生い茂ってしまっている点を除けば、どこもかしこもあの頃のままだ」

 さほど広くもない遊園地の敷地内に点在する遊具の数々に視線を巡らせつつ、それらの中でも一際眼を引く観覧車を見上げながら、パジャマ姿の若きオレクサンドルは独り言ちた。

「ああ、確かに懐かしいな。まあしかし、このゴーカートもすっかり薄汚れちまって、見る影も無いとはこの事だ」

 オレクサンドルと同じくパジャマ姿のペトロもまたそう言うと、観覧車の近くに設けられたゴーカート乗り場を眺め遣る。

「ねえオレクサンドル、それにペトロ、あなた達もこの街に住んでいた頃は、これらの遊具でもって遊んでいたのかしら?」

 過ぎ去りし日々を思い出しつつ遊園地の敷地内を散策し、郷愁の念と懐古の情を胸に抱きながら遊具の数々に思いを寄せるオレクサンドルとペトロの二人に向かって、イライダが疑問の言葉を投げ掛けた。

「いや、それがそう言う訳でもなくってね。この遊園地は1986年の5月1日のメーデーの日、つまり原発が爆発した日の五日後に開園する予定だったんだ。だからこれらの遊具は一つの例外も無く、どれもこれも一度も本格稼働はしていないんだよ」

「そうそう。だから俺らみたいな非模範的人民、それも開園前の夜の園内に忍び込んで遊具に跨っていたような不良市民だけが、こうして廃墟と化した遊園地を懐かしむ事が出来るって訳さ」

 そう言ったペトロは大口を開けてげらげらと笑い、オレクサンドルはやや控えめにくすくすとほくそ笑む。しかしながら、彼ら二人とイライダとの間で執り行われた質疑応答の意味が理解出来ないゲンナジーだけは、ぷかぷかと安煙草を吹かしながらぽかんと呆けるばかりだ。

「さて、それじゃあガキども、これから俺らはどこに行けばいいんだ? こんな小さな遊園地の跡地を観光して、それで終わりって訳じゃないんだろう?」

 安煙草を吸い終えたゲンナジーが地面に投げ捨てた吸殻の火を踏み消しながらそう言うと、彼の問い掛けに対してイライダが返答すると同時に、ペトロに要請する。

「あら、ゲンナジーったらせっかちね。でしたらペトロ、そろそろ目的地まで案内してくれないかしら?」

「ああ、そうだな。俺が住んでいたアパートメントは……ああ、あっちだ」

 パジャマ姿のペトロはそう言うと、遊園地から見て南南東の方角に存在する筈のアパートメントを指差した。そして35年前の記憶を頼りに歩き始めた彼に先導されながら、イライダら四人と一羽は小規模なパーティーを形成し、宵闇に沈むプリピャチの住宅街へと足を踏み入れる。

「それにしても、思っていた以上の酷い荒廃ぶりだな」

 住宅街を南北に縦断する市道を歩く道すがら、オレクサンドルが驚きを隠さない口調でもって呟いた。

「ああ、そうだなサーシャ。35年も放ったらかしにしておくと、プリピャチほどの近代的な街もこんなジャングルになっちまうんだな」

 そう言ったペトロの言葉通り、人の手による管理を逃れた街は伸び放題の蔦や雑草、それにどこからか飛んで来た苗木が成長したらしき針葉樹や広葉樹の木々に覆われ、その景観はまさにジャングルそのものとしか形容し得ない。

「こっちだこっち、このアパートメントだ」

 やがて数棟のアパートメントの脇を素通りした末に、ペトロはそう言いながら、とあるアパートメントの前で足を止めた。そしてそのアパートメントに足を踏み入れたところで、不意に驚く。

「何だこりゃ?」

 眉間に深い縦皺を寄せながらそう言って驚く彼の視線の先をよく見ると、アパートメントのエントランスの壁面に、真新しいピカチュウの落書きが色鮮やかなペンキでもって描かれていた。ちなみにここで言うピカチュウとは、日本に籍を置く任天堂株式会社が権利を有するビデオゲームやアニメに登場するあのピカチュウの事であり、どうやら電気を発するその特性から、発電所を意味する隠喩メタファーとして描かれているように見受けられる。

「ああ、これはいわゆる『グラフィティ』って奴だな。俺らみたいなストーカーや、お前らみたいなインフルエンサー気取りの糞ガキどもが夜中に忍び込んで、街中の至る所にこう言った落書きを書き残して行くのさ」

「糞! 雑草や雑木が生い茂るのは自然現象だから未だ許せるが、こんなふざけた落書きでもってプリピャチを汚すだなんて事は許される筈がない! 美しい俺らの街を、何だと思ってやがる! 昔のソヴィエト時代だったら、こんな真似をした奴は速攻でとっ捕まえて縛り首だぞ!」

 ゲンナジーによる解説を耳にしたペトロは額から湯気が立ち上らんばかりに顔面を紅潮させると、拳を振り上げながらそう言って、怒りを隠そうともしない。

「そう言うなよペトロ、あれからもう35年も経ったんだ。ソヴィエトも崩壊したし、いくらプリピャチが原発衛星都市アトモグラードだからと言ったって、いつまでも昔の姿を留めちゃいないさ」

 憤懣遣る方無いペトロとは対照的に、オレクサンドルは眼を瞑ってかぶりを振りながら、少しばかり寂しげな口調でもってそう言った。

「いいやサーシャ、お前が何と言おうと、俺はこんな落書きをするような輩を許す事は出来ないな! たとえ今のプリピャチが半ば観光地化していようとも、被災地を訪れた観光客にだって、守るべきルールとマナーってもんがある筈だ!」

 怒りを露にしながらそう言ったペトロがアパートメントの階段を駆け上がり始めたので、イライダら三人と一羽もまた彼の後を追い、窓から差し込んで来る月光を頼りに階段を駆け上がる。高層建築物であるアパートメントには立派なエレベーターが備え付けられていたが、とうの昔に発電所からの送電が停止された錆だらけのそれが稼働する筈もなく、階段を利用する以外に高層階に移動する手段は無い。

「このアパートメントの六階の、一番奥の部屋だ」

 独り言つようにそう言ったペトロは宵闇に沈むアパートメントの六階の、35年間余りも風雨に晒され続けた結果として土砂や瓦礫が降り積もった廊下を足早に駆け抜け、その最奥の部屋の扉の前で足を止めた。扉の上に掲げられた表札に眼を向けると、かろうじて読み取れる程度の不鮮明なキリル文字でもって、彼のフルネームである『ペトロ・ゼレンスキー』の文字列が三桁の部屋番号と共に記されている。

「この扉の向こうが、あなたが住んでいらした部屋なのかしら?」

 先行するペトロに追い付いたイライダが呼吸を乱す事無く尋ねると、彼は無言のまま首を縦に振って彼女の言葉を肯定し、やはり赤錆だらけのドアノブに手を掛けた。そしてそのドアノブを回してみれば、ぎいぎいぎしぎしと言う錆びた金属同士が擦れ合う不快な音を奏でながらアルミ合金製の扉が開き、かつてこの部屋に住んでいたペトロが35年ぶりに帰宅する。

「ただいま」

 帰宅を告げたペトロを出迎えたのは分厚い埃が堆積した玄関と、その玄関から続く、やはり埃が堆積した真っ暗な廊下であった。そしてその埃と暗闇の中へと足を踏み入れ、リビングへと移動した彼は、にわかには信じがたい光景を眼にしてその場で立ち尽くす。

「どうしたペトロ?」

 アパートメントの自室のリビングの中央で立ち尽くすペトロに、先行する彼にようやく追い付いたサンダル履きのオレクサンドルが、はあはあと息を荒げながら尋ねた。

「……無い。無いんだ。どこにも何も無いんだ。ここに在った筈のソファもテーブルもテレビも、冷蔵庫もオーブンも食器棚も、どれもこれも無くなってしまってるんだ!」

 そう言ったペトロの言葉通り、アパートメントのリビングとそれに続くキッチンをぐるりと見渡してみれば、本来そこに在るべき家具や調度品や調理器具の類がまるで見当たらず、がらんとした室内はもぬけの殻である。

「ああ、これはやられたな。俺らみたいなストーカーや、原発事故にかこつけた火事場泥棒どもに、根こそぎ略奪されちまってる」

 最後に姿を現したゲンナジーがそう言うと、新たに火を点けた安煙草をぷかぷかと吹かし始めた。彼やペトロらの足元には、盗む価値も無いと判断された書籍や皿や古着と言った雑多な小物類が、ぼろぼろに朽ち果てた状態でもって散乱している。

「……お前らか」

 ゴリラの様な顔立ちのペトロがゲンナジーを睨み据え、声を震わせながらそう言った。

「は?」

 呆けるゲンナジーに、ペトロが詰め寄る。

「お前らみたいなこそ泥連中が、俺の部屋をこんなにしやがったんだな! 返せ! 俺の部屋を! 俺の生活を! 俺の思い出を今すぐ返せ!」

「おいおい、少しは落ち着けよ、この糞ガキめ。盗んだのは俺じゃないし、どうせ放射能で汚染された家具や電化製品なんて物は、馬鹿な泥棒どもに盗ませてやった方が世のため人のためにもなるってもんだ。それにそもそも、お前みたいな糞ガキが、この部屋の持ち主だった訳が無いだろう? 違うか? ん?」

「……」

 ゲンナジーの襟首を掴み上げ、今にも殴り掛からんばかりに拳を握り締めたまま、ペトロは二の句が継げない。

「そうだ! 聖像画イコンはどうなった!」

 すると暫しの沈黙の後にそう言ったペトロは、ゲンナジーの襟首を掴み上げていた手を放してから再び真っ暗な廊下に足を踏み入れると、寝室の扉を開けた。

「無い! ベッドもクローゼットも無い! ああ、それに、ここに掛けてあった筈の聖像画イコンも無い!」

 リビングやキッチン同様、やはりもぬけの殻と化してしまっていた寝室の中央で頭を抱えながら、ペトロは途方に暮れる。

「つまり、あなたが回収したがっていた聖像画イコンが、ここに掛けてあったと言う事ね?」

 ペトロに続いて入室したイライダが、壁紙や漆喰がすっかり剥げ落ちてしまったコンクリート製の壁を指差しながら問い掛けた。その壁には聖像画イコンを掛けるのに利用していたらしい、L字型に曲げられた釘だけが残されている。

「ああ、そうだ! 婆ちゃんの形見の聖像画イコンが、一日も早くこの部屋に帰って来れるように、裏返しにした状態でもってここに掛けてあった筈なんだ! ああ、それなのに! 糞! よりにもよってマリア様が描かれた聖像画イコンまで盗んで行きやがるなんて! 罰当たりな!」

 落胆したペトロはそう言って頭を抱えたままひざまずき、その場にへたり込んでしまった。するとそんなペトロに、イライダが改めて尋ねる。

「ねえペトロ、あなた、もう一度その聖像画イコンが見たいのかしら?」

「ああ、見たいさ! 最後にもう一度だけでもあの聖像画イコンを拝む事が出来るのなら、俺は地獄に落ちたっていい! あの聖像画イコンのためなら、この魂を、悪魔にだってくれてやる!」

 絶望に打ちひしがれたペトロは膝を突いてへたり込んだまま、涙を零して慟哭するばかりだった。するとそんな彼に、イライダは事も無げに提案する。

「あら? そんなに大袈裟な口を叩かずとも、わたくし、あなたの願いを叶えて差し上げても良くってよ?」

「?」

 しかしながら、ペトロには彼女の真意が汲み取れない。

「そんなに不思議そうな顔をなさらずとも、ちょっと考えれば分かるような、至極簡単な事じゃないかしら? ほんの少しだけ時間と空間に干渉しまして、過ぎ去りし日々の光景を再現するだけですのよ?」

 イライダはそう言うと、かつてペトロの祖母の形見だと言う聖像画イコンが掛けられていた壁に向かって右手を掲げ、その指をぱちんと打ち鳴らした。すると壁とその周囲の時間が巻き戻り、剥げ落ちていた壁紙や漆喰が再び壁面を覆い、風雨に晒され続けた事によって生じたカビや染みと言った経年劣化もまた消え失せ始める。そしてたっぷり30年間分以上も時間が巻き戻った頃になってから、不意に寝室内に、目出し帽でもって顔を隠した二人の男が姿を現した。

「何だ、こいつらは?」

 突然の闖入者に驚くペトロ、それに遅れて入室したオレクサンドルとゲンナジーの三人に、イライダが説明する。

「どうやらこちらのお二方こそが、この部屋から聖像画イコンを盗み出した張本人のようね」

「こいつらが俺の聖像画イコンを……おいお前ら! 今すぐ俺の聖像画イコンを返せ!」

 怒髪天を突く勢いでもって男達に殴り掛かろうとするペトロだったが、振り上げた彼の拳は男の頭をするりとすり抜けてしまい、まるで手応えが無い。

「無駄よペトロ、残念ながらわたくしの力だけでは、過去を改変する事までは出来ませんの。空間が記憶している過去の出来事を、こうして立体映像さながらに再現するのが限界じゃないかしら? だからあなたの聖像画イコンが盗まれてしまったと言う事実だけは、甘んじて受け入れなさい」

「そんな……」

 がっくりと肩を落としながら再び落胆するペトロを他所に、まるでYoutubeに投稿された動画を巻き戻すかのように時間を遡りながら室内を移動する男達の内の一人が、豪奢な額縁に納められた聖像画イコンを手にしながら再び姿を現した。

「俺の聖像画イコンだ!」

 そう言ったペトロの眼前で、男は手にした聖像画イコンを壁に打ち込まれたL字型の釘に掛け直すと、そそくさと姿を消す。

「どうかしら、ペトロ? これであなたの望み通り、再び聖像画イコンを拝む事が出来たのではなくて?」

 イライダは傲岸不遜とも受け取られかねない得意げな口調でもってそう言うが、彼女の言葉は無情にも、感動に打ち震えるペトロの耳には届かない。何故なら今の彼はそれどころではなく、実に35年ぶりに再会した祖母の形見の聖像画イコン以外、まるで眼中に無いからだ。

「イエス様……マリア様……それに婆ちゃん……」

 神の子と聖母、それに今は亡き祖母の名を口にしたペトロは幻の聖像画イコンを前に感極まったらしく、言葉を失いながらもぼろぼろと滂沱の涙を零し続ける。すると額縁の中に描かれたイエスとマリアもまた、まるで彼を祝福するかのように、微笑みを絶やさない。そして聖像画イコンの前でひざまずいたペトロは左右の手を胸の前で組み、一心に祈りを捧げる。

「良かったじゃないの、ペトロ。これでもう思い残す事は無いんでしょう?」

 やがて一頻ひとしきり祈りを捧げ終えたペトロに、イライダが冷淡な口調でもって問い掛けた。

「ああ、うん、そうだな。出来ればこの聖像画イコンをキエフまで持って帰って病室の壁に掛けて、看取られながら死にたかったんだが、どうやらそんな贅沢は言ってられないらしい。だからこうして死ぬ前に拝めただけで満足する事にするよ。ありがとう、イライダの嬢ちゃん」

 聖像画イコンを前にしながらひざまずいていたペトロは、イライダに向けて感謝の言葉を述べつつ立ち上がると、頬を濡らす涙をパジャマの袖でもってごしごしと拭い取る。

「おいおいおい、ちょっと待てよガキども。何なんだこりゃ? 一体全体、何がどうなってやがるんだ? これが今流行りの、VRとかARとか言う奴なのか?」

 感動に打ち震えるペトロとは対照的に、状況を理解し切れていないゲンナジーはそう言いながら幻の聖像画イコンを触ろうとするが、当然ながら彼の手は空しく空を切るばかりだ。

「とにかくこれで、ここプリピャチを訪れた当初の目的は果たせたようね」

 イライダはゲンナジーを無視しながらそう言うと、スズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま、オレクサンドルとペトロの二人に問い掛ける。

「それじゃあオレクサンドル、それにペトロ、そろそろキエフに帰ろうかしら? それともあなた達は未だ他に、どこか行きたい所があって?」

 そう言ったイライダは、まるで彼らの返答を事前に知り得ているかのようにほくそ笑んだ。そして問い掛けられたオレクサンドルとペトロの二人は互いの顔を見合わせ、無言のまま頷き合うと、年長者であるオレクサンドルが代表して答える。

「せっかくここまで来たんだから、こうなったらいっその事、チェルノブイリ原子力発電所の跡地にも行ってみたい! もう一度あの場所を訪れて、あの時あの場所で何があったのかを知りたいんだ! いいだろう、イライダ?」

「あら、それは良い心掛けね。でしたらあなた達の望み通り、是非ともこれから、かつてのチェルノブイリ原子力発電所まで足を延ばしてみようじゃないかしら? それに実の事を言いますと、わたくしも個人的に、あれだけの事故を起こした発電所が今はどのような醜態を晒しているのかと言った点に興味がありましてよ?」

 イライダはそう言ってほくそ笑みながら、オレクサンドルとペトロの切なる願望に同意した。そして気を取り直した彼女は再び冷淡な表情と口調を取り戻すと、未だに幻の聖像画イコンに触れようと四苦八苦しているゲンナジーに命令する。

「ゲンナジー、ちょっといいかしら? あなた、今しがたのわたくし達の遣り取りを聞いていまして? ……そう、ちゃんと聞いていらしたのね。でしたら今すぐに、あなたのあのボロ車でもって、わたくし達三人をチェルノブイリ原子力発電所まで送り届けてちょうだい」

 命令されたゲンナジーは彼の顔の下半分を覆う伸び放題の無精髭を指先で弄び、口に咥えた安煙草をぷかぷかと吹かしながら逡巡していたが、最終的にはイライダに逆らっても無駄だと悟ったらしい。

「仕方無えな、こうなったら毒を食らわば皿までだ。お前ら三匹のガキどもを、これからチェルノブイリまで連れてってやるよ。ただし、当局に雇われたウクライナ軍の兵士どもが周囲をうろうろしてっから、原発の敷地内までは入れねえぞ? あくまでも敷地の外から遠巻きに、夜の原発を眺めるだけだからな?」

「ええ、それで結構、よろしくてよ」

「それから、俺の愛車をボロ車呼ばわりするのは止めてくれ。あれでも大事な相棒で、貴重な財産でもあるんだからな」

「あら、お気に障られたかしら? 悪気は無くてよ?」

 さほど悪びれもせずに釈明したイライダを先頭に、彼女とスズメフクロウのプーフ、それにオレクサンドルとペトロにゲンナジーを加えた四人と一羽はアパートメントを後にした。そして雑草や雑木に覆われた市道を歩きながら来た道を引き返し、やがてプリピャチ遊園地の敷地の外れに停めてあったUAZ-452四輪駆動車に揃って乗り込むと、チェルノブイリ原子力発電所を目指して東南東に進路を取る。

「ところでゲンナジー、一つお聞きしますけど、ここからチェルノブイリ原子力発電所までは遠いのかしら?」

 プリピャチから走り去ろうとするUAZ-452四輪駆動車の後部座席に腰を下ろしたイライダが、運転席でハンドルを握るゲンナジーに尋ねた。

「いいや、それほど遠くはねえよ? 地図上の直線距離で、およそ3㎞から4㎞ってところだ。ただし馬鹿正直に最短ルートの幹線道路を通ると途中で検問に引っ掛かっちまうから、少しばかり遠回りして、森の中を突っ切る迂回路を通る事にするけどな。それで構わないだろ、嬢ちゃん?」

「そうね、是非ともそうしてちょうだい」

「よし、了解だ」

 イライダの了承を得たゲンナジーは大きく時計回りにハンドルを切り、UAZ-452四輪駆動車のタイヤを軋ませながら、彼が言うところの『森の中を突っ切る迂回路』に向けて進路を変更する。

「なあゲンナジー、これはまた随分と寂れた真っ暗な道だけど、本当にこの道で合ってるのか?」

 不審かつ不安げな口調でもってそう言ったオレクサンドルが危惧するのも当然で、片側二車線の幹線道路を外れてプリピャチから遠ざかるに従い、彼らを乗せたUAZ-452四輪駆動車は満足に舗装もされていないような悪路から更なる悪路への進入を繰り返し続けているのだ。しかも道の左右には背の高い木々が見渡す限り鬱蒼と生い茂り、月明かりも星明かりも遮られた森の中は、今現在の時刻が夜半時だと言う事を差し引いても暗過ぎるほどの漆黒の闇に包まれているのだから堪らない。

「大丈夫だ、俺に任せておけ。ちなみにここから先は事故の直後に大量の放射能が降り注いで木の葉が真っ赤に変色したと言う、いわゆる『赤い森』と呼ばれる高濃度汚染地域だが、なあに、窓さえ開けなけりゃ被曝する事もないさ」

 安煙草を咥えたゲンナジーはそう言って笑いながら、周囲の木々や地面をぼんやりと照らし出すヘッドライトの灯りだけを頼りに、彼の愛車であるUAZ-452四輪駆動車を走らせ続ける。

「?」

 やがて一行を乗せたUAZ-452四輪駆動車が赤い森の中へと差し掛かると、不意に車中のイライダは背中の産毛がざわざわと逆立つような違和感を覚え、また同時に妙な胸騒ぎにも襲われた。

「ん? どうしたの、イライダ?」

 彼女の隣に座るオレクサンドルが、額にじっとりと脂汗を滲ませながら神妙な面持ちを崩さないイライダの様子に気付き、その身を案じる。

「何なのかしら、この感じ……昔、オリガお姉様の従僕ヴァレットに全身を貪り食われた時に襲われたような、どうしようもないほどの吐き気をもよおす嫌悪感と虚脱感は……」

 今や全身の皮膚と言う皮膚にびっしりと鳥肌を立たせた顔面蒼白のイライダが、突発的な動悸でもって張り裂けそうな胸を押さえながらそう独り言ちた直後、一寸先も見通せないほどの漆黒の闇に包まれた森の最深部から奇妙な獣の唸り声が聞こえて来た。そして時を待たずして、まるで地獄の底から蘇った悪魔の雄叫びの様なその唸り声の主は、次第にその声量を増しつつこちらへと駆け寄って来る。

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