第五幕


 第五幕



 今宵もまた地平線に陽が沈み、ウクライナの首都であると同時に東欧最大の都市でもあるキエフの街に、逢魔が時が訪れた。街の中心部とも言える独立広場に集った地元民や観光客の頬を撫でる秋風もすっかり冷たくなり、北の方角を向いて耳を澄ませば、冬将軍の足音が聞こえて来るような錯覚に陥らざるを得ない。そして独立広場から遠く離れたアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の四階の廊下の片隅で、何も無い虚空にきらきらと光り輝く円環が出現したかと思えば、小石を投げ込んだ水面の様にゆらゆらと波打つその内側から一人の少女が姿を現した。

「ふう、また来ちゃったじゃないの」

 市松模様のリノリウム敷きの床に音も無く降り立った少女はそう呟くと、ぱっぱと胸元の埃を払い落としながら、前回の遠出の際にずたずたに切り裂かれてしまったそれとはまた別のドレスの乱れを直す。

「さあ行きましょ、プーフ」

 そう言ったドレスの少女、つまりイライダは、スズメフクロウのプーフを肩に乗せたままこつこつと踵の音を響かせながら廊下を歩き始めた。そして臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の四階にずらりと並ぶ病室の一つの前で足を止めると、その病室の扉をこんこんこんこんと四回ノックする。ところが幾ら待ち続けても、扉の向こうからの返事は無い。

「オレクサンドル?」

 扉の向こうに居る筈の病室の主の名を呼ぶが、やはり返事は無く、薄暗い臨床病院クリニカルホスピタルの廊下は静寂に包まれるのみである。

「どうしたのオレクサンドル? 寝ているの?」

 痺れを切らしたイライダは、了承を得ないまま扉を引き開けると、病室内に足を踏み入れた。すると照明が落とされた室内はもぬけの殻であり、ベッドの上にも食事用のテーブルの前にも、オレクサンドルの姿は無い。

「あら、変ね? オレクサンドルったら、どこに行ったのかしら?」

 イライダは困惑し、きょろきょろと周囲を見渡す。

「ねえプーフ、あなたは彼がどこに居るか、知っていて?」

 肩の上のプーフに問い掛けると、イライダの使い魔であるスズメフクロウは小さな左右の翼を羽撃はばたかせながら飛び立ち、さほど広くも無い病室内をぐるぐると旋回し始めた。そして扉の前に降り立ったかと思えば、その扉をくちばしの先端でもってこつこつと叩き、何かを訴え掛けるような瞳をイライダに向ける。どうやらプーフは、扉を開けてくれと言いたいらしい。

「これでいいのかしら?」

 そう言って扉を引き開けてやれば、再び飛び立ったスズメフクロウのプーフが虚空を飛翔しながら廊下を渡り始めたので、イライダはその後を追う。そして数十mばかりも廊下を渡った末に、イライダとプーフの一人と一羽は、オレクサンドルのそれとはまた別の病室の前へと辿り着いた。

「ここ? ねえプーフ、ここにオレクサンドルは居るのね?」

 道案内を務めてくれたプーフに改めて問い掛けてから、イライダはその病室の扉をこんこんこんこんと四回ノックすると、中からの返事を待つ。

「どうぞ」

 やがて扉の向こうからの入室を促す声がイライダの耳に届いたが、その声はオレクサンドルのそれよりも低く野太い、やけにしゃがれた高齢男性の声であった。そして扉を引き開けて入室すると、三つの顔がイライダを出迎える。

「こんばんは、オレクサンドル。いい夜ね」

「やあイライダ、プーフ、いらっしゃい」

 最初に彼女を出迎えたのは、ベッドの縁に浅く腰掛けたオレクサンドルであった。病院から支給されたよれよれのパジャマ姿の彼の頭は、相変わらずつるつるに禿げ上がっている。

「おや、これはまた可愛らしいお客さんだ。この子がサーシャが言っていた、イライダとか言う名のお嬢ちゃんかい?」

 先程入室を促した声の主と思われる、低く野太くしゃがれた声でもってそう言ったのは、壁際に設置されたベッドの上で横たわる一人の大柄な老人であった。ちなみに彼が言うところの『サーシャ』とはウクライナ語の男性名『オレクサンドル』の愛称であり、その愛称でもって呼び合っている事から察するに、どうやら二人の老人は親しい間柄らしい。

「この子が、さっき父さんが言っていたイライダなの? まあ、本当に実在したのね。あたしはてっきり、父さんが見た幻覚か夢の中に登場する架空の人物だとばかり思っていたのに」

 最後に驚きながらそう言ったのは、窓の近くに置かれたパイプ椅子に腰掛けた、タートルネックのニットに身を包んだ中年女性であった。そしてイライダは奇遇にも、この中年女性に見覚えがある。以前この臨床病院クリニカルホスピタルを訪れた際に、廊下で衝突して彼女を転倒させた、オレクサンドルの娘のオクサーナと言う女性だ。

「こんばんは、オクサーナ。わたくしの事は覚えてなくて?」

「あら? どこかで以前、あなたとお会いしてたかしら?」

「ええ、オレクサンドルの病室の前であなたとぶつかって、尻餅を突いてしまった事を覚えていましてよ?」

 イライダがそう言うと、あまり記憶力が良くないと思われるオクサーナも、ようやく彼女の顔を思い出したらしい。

「ああ、あの時の! ごめんなさいね。あの時は急いでいたものですから、ついつい周囲が見えなくなってしまって」

「ええ、気にしないで良くってよ。過ぎた事にいつまでも拘るのは、心が満たされていない愚か者のする事ですから」

 涼やかな表情と口調でもってそう言ったイライダは、今度はベッドの上の大柄な老人に眼を向けた。

「それで、あなたはどなたかしら?」

 イライダが問い掛けると、大柄な老人はベッドの上で横になったまま顔だけをこちらに向け、自らの素性を口にする。

「俺の名はペトロ。ペトロ・イヴァーノヴィチ・ゼレンスキーだ。ここに居るサーシャの従弟で、こうして今も一緒の病院に入院するなんて言う、竹馬の友そのものの関係が続いている。……おっと、お嬢ちゃんみたいな今時の小さな女の子には、こんな『竹馬の友』なんて言う古臭い言い回しは難し過ぎたかな?」

「あらペトロ、馬鹿にしないでくれるかしら? このわたくしともあろう者がその程度の言い回しを知らない訳が無い事くらい、いくらあなたが耄碌した老人とは言え、少し考えれば分かる事じゃなくて?」

「おっと、こいつは一本取られちまったな。どうやらイライダのお嬢ちゃんは学の無い俺なんぞと違って、随分と博識なお利巧さんらしい」

 生意気な子供をからかうような口調でもってそう言ったペトロは、愉快そうに大口を開けながら、げらげらと笑った。笑い続ける彼の頬には大きな傷痕が刻まれており、オレクサンドルの柔和で繊細なそれとは違って、まるで年老いたゴリラの様な野性的で粗暴そうな顔立ちである。

「それで、イライダちゃんは何しにここに来たのかな?」

 夜半の訪問の動機を尋ねるオクサーナに、イライダは問い返す。

「あら、でしたら先にお聞かせ願えるかしら? わたくし、あなた方がこんな狭苦しい病室に三人も集まって一体何をしていたのか、その点が知りたくってよ?」

 すると突然、ベッドの上のペトロが大口を開けて手を叩きながら、再びげらげらと笑い出した。どうやらイライダの高飛車な態度と言い分とが、却って彼の笑いの壺に嵌まったらしい。

「オクサーナ、こいつはまたしても一本取られちまったな! イライダお嬢ちゃんは俺達が集まっている理由を知りたいそうだ!」

 そう言って笑い続けるペトロに代わり、彼の足元に座るオレクサンドルがイライダの疑問に答える。

「実は今日の午前中まで、このペトロはもう何か月もの間、集中治療室ICUに入れられていてね。それがようやく退室出来たから、こうして僕とオクサーナの二人で様子を見に来たって訳さ」

「ふうん、なるほどね」

 イライダはオレクサンドルの解説を聞きながら、手を振っておどけるペトロを横目に得心した。

「それじゃあ改めてお聞きするけど、イライダちゃんは何しにここに来たのかな?」

 オクサーナが再度尋ねると、イライダは答える。

「そうね、特にこれと言って重要な用件があって来た訳ではないのですけれど……敢えて言うならば、死に行く人達が何を考えているのか、その点について興味があるとだけ言っておきましょうか?」

 イライダが口にした『死に行く人達』と言う言葉に反応したオクサーナが、パイプ椅子から腰を上げながらぎょっと眼を剥いた。

「ちょっと! イライダちゃん! 病人に向かってなんて事を言うの!」

 オクサーナはそう言ってたしなめようとするが、イライダは涼しい顔のまま彼女を見据え、一向に動じない。そしてそんなイライダを、ベッドの縁に腰を下ろしたオレクサンドルが擁護する。

「やめときなさいオクサーナ、イライダは普段からこの調子の、ちょっとばかり変わった子なんだ。どうやら彼女はスマートフォンとYoutubeにしか興味が無い今時の若い子達とは違って、人が死ぬ事や、死に直面した人々が何を考えているのかを知りたくて仕方が無いらしいんだよ」

「なるほど、人の死に興味があるのか! そいつはまた、変わった子だな!」

 ベッドに横たわるペトロもまたそう言って、深い傷痕が刻まれた顔をほころばせながらげらげらと笑い、むしろイライダの発言を歓迎しているようにも見受けられた。どうやらこのペトロと言う名の大柄な老人は、まるで人間とゴリラの混血児の様な厳めしい外観にたがわず、豪快かつ寛容な性格の持ち主らしい。するとそんなペトロに、イライダは尋ねる。

「それでペトロ、あなたにお聞きしたいんですけど」

「ん? 何だい、お嬢ちゃん?」

「あなた、もうすぐ死ぬんでしょう?」

「ああ、確かにそうだな。チェルノブイリ原子力発電所の警備員だった俺は、事故後の除染作業に従事したのが原因で、全身が癌に侵されちまった。複数の内臓に出来た悪性腫瘍の大半は手術でもって切除出来たが、どうにも白血病ばかりは完治出来なくってね。今もこうして一般病棟と集中治療室ICUを行ったり来たりする、いつ死んでもおかしくない重篤な状態さ」

 ベッドの上のペトロは、人生を諦観し、悟り切ったかのような表情と口調でもってそう言った。するとイライダは、重ねて尋ねる。

「だとしたら、ペトロ」

「ん?」

「あなた、死ぬ前に何かやり残した事は無くて? たとえば、行ってみたい場所があるとか、会っておきたい人が居るとかと言った、やり残した事は」

「やり残した事ねえ……」

 ペトロは腕を組み、口をへの字に曲げて天井を見上げながら、暫し考えあぐねた。見上げた天井に設置された照明の周りを、数匹の小さな蛾が、ぶんぶんと言う微かな羽音を立てつつ飛び交っている。

「……そうだな、俺はもう一度だけでいいから、第二の故郷でもあるプリピャチに帰りたい。あの町に帰って、アパートメントの自宅に残して来た聖像画イコンを回収したいんだ」

聖像画イコン?」

「そうだ、聖像画イコンだ。俺がプリピャチで一人暮らしを始めた時に貰った婆ちゃんの形見で、産まれたばかりのイエス様を抱く聖母マリア様を描いた、それはそれは見事な聖像画イコンでな。どうせこのまま死ぬのなら、最期はあの聖像画イコンに看取られながら死にたい」

 そう言ったペトロは眼を細め、自宅に残して来たと言う聖像画イコンを心の中で思い描きながら微笑んだ。すると彼の従兄であるオレクサンドルもまた眼を瞑り、かつて彼らが生活を共にしていたプリピャチに思いを馳せる。

「プリピャチか……懐かしい響きだ。それに、あそこは本当に美しい町だった。真新しいぴかぴかのコンクリートパネル式のアパートメントが幾つも幾つも立ち並び、窓は全て発電所の方角に向けられていて、別名を『薔薇の町』と呼ばれるほどの大きな薔薇の花壇が街路沿いに並んでいた事を今でも思い出すよ。ああ、あの町の美しさが、本当に懐かしくて堪らない」

 オレクサンドルはそう言うものの、彼とペトロによるプリピャチに帰りたいと言う発言が、オクサーナの逆鱗に触れた。

「プリピャチに帰りたいですって? 父さんもペトロ叔父さんも、二人とも何を考えてるの? あそこであたし達家族がどんな眼に遭ったのか、まさか忘れた訳じゃないでしょうね!」

 飛び上がるような勢いでもってパイプ椅子から腰を上げたオクサーナは、そう言うと同時に顔面を真っ赤に紅潮させ、怒り心頭である。

「おいおい、何を興奮しているんだよオクサーナ。ペトロは自宅に帰りたいと言っているだけじゃないか」

 パジャマ姿のオレクサンドルはそう言ってなだめようとするが、オクサーナの怒りは収まらない。

「いいえ、あたし達の自宅は、ここキエフに在るの! だからプリピャチは第二の故郷でも何でもないし、あのアパートメントは自宅なんかじゃないんですから! そもそも父さんと叔父さんが原発なんかで働いてさえいなければ、あたし達家族は誰一人として被曝せずに済んだのよ! そうよ、父さんや叔父さんが癌に侵される事も無かったし、母さんが姿を消す事も無かったんだから!」

「オクサーナ! あの女の事を口にするな! あの女は、僕やお前を残して一人で逃げた裏切り者なんだぞ!」

 今度は、オレクサンドルが激怒する番であった。しかしオクサーナも、彼に負けてはいない。

「父さんは、またそうやって母さんだけを侮辱する気? だったら、原発の電気技師だった自分の事も侮辱したらどうなの? だって父さんがあんな原発なんかで働いてさえいなければ、プリピャチなんかに住んでさえいなければ、あたしがこんな傷を負う事も無かったのよ!」

 怒り心頭のオクサーナがそう言いながらタートルネックのニットの襟元を捲り上げると、細くしなやかな彼女の首に真一文字に刻まれた、深く大きな傷痕が露になった。その傷痕こそ、俗に『チェルノブイリ・ネックレス』と呼ばれる、甲状腺除去手術を受けた痕跡である。つまりオクサーナは、甲状腺ホルモンを分泌する重要な機関である甲状腺を、後天的に失っているのだ。

「あたしがこの傷のせいでどれだけ不自由しているか、分かる? 真夏でもタートルネックの服しか着れないし、友達と一緒にプールで泳ぐ事も出来ないし、この歳までに何度も結婚を断られているのよ? その傷を追わせた原因が、責任が、自分には無いと言い切れて?」

 激しい剣幕でもって詰め寄りながら、オクサーナは両の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零れ落とし、肩を震わせて泣き続ける。そしてそんな彼女を前にしたオレクサンドルとペトロの二人は、返す言葉も無い。

「……今日はもう帰ってくれ、オクサーナ」

 やがて娘と眼を合わさないように顔を伏せたままのオレクサンドルが、ぼそりと呟くようにそう言った。すると父であるオレクサンドルの言葉に、オクサーナの怒りのボルテージは最高潮に達する。

「何ですって? 帰れですって? つまりそれって、もうこれ以上あたしと話し合う気は無いって事? ……ええ、そうね、そうでしょうね! きっと父さんはあたしに図星を突かれて、反論出来なくなったんでしょうね! ええ、いいでしょう! 今すぐ出て行ってあげるから、父さんもペトロ叔父さんも感謝なさい! あたしに会いたくなっても、もう会いに来てあげないんだから!」

 最後にそう言い残したオクサーナは荷物を纏めると、背後を振り返る事も無く、さっさと病室から出て行ってしまった。

「……すまないイライダ、みっともない親子喧嘩に巻き込んでしまって」

 やがてオクサーナの姿が見えなくなると、彼女の父であるオレクサンドルはそう言って恐縮し、肩を落とす。

「別に、気に病む事も無くってよ。わたくし、親子喧嘩でしたら慣れていますもの。ですがあのオクサーナとか言うお子さん、前回も「もう会いに来てあげないんだから」と言っていた割には、こうしてまた会いに来てあげているじゃない。きっとまた、何食わぬ顔で会いに来てくれるんじゃないかしら?」

「ああ、そうだな。あいつは毎回毎回「もう会いに来ない」と言っておきながら、結局は僕に会いにここまで来てくれるんだ。なんだかんだ言って、良く出来た娘だよ」

「ふうん、そうなの」

 首を小さく縦に振りながら得心するイライダに、ベッドの上のペトロが尋ねる。

「それで、イライダお嬢ちゃん。お嬢ちゃんはこんな死に損ないのじじい連中からやり残した事を聞き出して、どうする気だい? まさか、夏休みの自由研究で発表する気じゃないんだろう?」

 ペトロはそう言って、愉快そうに声を上げながらげらげらと笑った。どうやら自分が口にした冗談が、彼自身の笑いの壺に嵌まってしまったらしい。するとイライダはくすりとも笑わず、彼が身を横たえたベッドの元へと歩み寄ると右手を伸ばし、皺だらけのペトロの左手をそっと握り締める。

わたくしは、あなた方の願いを叶えて差し上げに参りましたの。さあペトロ、これからあなたを若返らせて、それからプリピャチに送り届けて差し上げますから、喜びなさい」

 イライダの言葉を聞いたペトロは最初はきょとんと呆けていたが、彼女の言葉の意味するところを理解すると、げらげらと一層の大声でもって笑い始めた。

「おいおい、イライダのお嬢ちゃん、大人をからかうもんじゃないぞ? 若返らせるだとかプリピャチに送り届けるだとか、冗談って奴は、もうちょっと現実味を混ぜてやらなくちゃ面白くならないぜ? なあ、サーシャ?」

 ペトロがサーシャ、つまりオレクサンドルに向かって同意を求めると、彼はにやにやとほくそ笑みながら事の推移を見守っている。

「いいからペトロ、今だけはイライダの好きにさせておきなって。きっとお前も驚くからさ」

「?」

 呆けるばかりのペトロが見守る中、彼の左手を握り締めたイライダは、その手に力を込めた。すると皺だらけで骨ばっていたペトロの左手から次第に皺が消え失せ、筋肉と皮下脂肪の厚みが増し、乾燥し切った不毛の大地の様にひび割れていた皮膚もまた瑞々しさを取り戻す。

「何だこれは?」

 驚嘆するペトロの眼前で、彼の左手に端を発した奇跡は腕を這い上り、やがて全身へと伝播し始めた。すると見る間に、ペトロの筋肉と言う筋肉、皮膚と言う皮膚が張りと艶を取り戻し始める。

「さあ、これでどうかしら?」

 そう言ったイライダが手を放すと、ペトロはベッドの脇に設置されたキャビネットから手鏡を取り出し、自分自身の顔と身体を再確認した。するとそこには顔面に大きな傷痕が刻まれた皺だらけの老人ではなく、傷一つ無い顔面にぽつぽつとニキビが浮き出た若き青少年が写り込んでいたのだから、驚かざるを得ない。

「これは……」

 小さな手鏡に映り込む自らの姿を凝視し、瑞々しくも逞しい自身の肌や骨格を撫で擦りながら、ペトロは己の身に巻き起こった現象に納得行かない様子であった。だがそんなペトロに、彼の従兄であるオレクサンドルが解説する。

「どうだペトロ、凄いだろう? これは僕とお前、そしてイライダが見ている夢の中の出来事なんだ! そして僕ら三人が見ている夢の中では、イライダは魔女なんだよ!」

「夢……? 魔女……?」

 ペトロは困惑しながらも、彼の手を握り締めるイライダの顔をジッと見つめた。するとイライダは、困惑するばかりのペトロに語り掛ける。

「ねえ、ペトロ。もうあなたは、そんなベッドに横になっている必要なんて無いんじゃなくて? 今すぐ起き上がって、このわたくしと一緒にプリピャチに赴くべきではないのかしら?」

「あ、ああ」

 イライダに促されたペトロは訳も分からないままベッドから抜け出し、リノリウム敷きの床へと降り立った。ゴリラを髣髴ほうふつとさせる厳つい顔立ちこそそのままだが、瑞々しくも逞しい肉体と豊かな金髪を湛えた今の彼は、推定年齢十五歳前後の爽やかな青少年である。

「サーシャ、これは一体……?」

 顔を上げたペトロが尋ねると、そこには先程までの禿げ頭の老人ではなく、ふさふさの頭髪を湛えた青少年がイライダと手を繋いで立っていた。つまりその紅顔の青少年こそ、イライダの魔術によって若返ったオレクサンドルその人である。

「お前……サーシャ……なのか……?」

「ああ、そうだよペトロ! 僕だよ、オレクサンドルだよ! お前と同じように、イライダの魔術によって若返ったんだ! 僕らは夢の中でだけ、こうして若返る事が出来るんだよ!」

「……なるほど、これは夢か! 夢だったら、俺もお前も若返っていたとしても、何もおかしくなんかないよな! そうだ、これは夢なんだ! やったぜ!」

「そうだともペトロ、これは夢なんだ! 夢の中だから僕らがこうして若返ったとしても何の不思議も無いし、幾ら騒いだって構わないんだ! やったな!」

 そう言いながら飛び跳ねて喜ぶ男二人を他所に、イライダは深い溜息を吐きながら呟く。

「本当に、男って馬鹿なんだから」

 そんな彼女の呟きに気付きもしないまま歓喜の声を上げ続ける若きオレクサンドルとペトロの二人に向かって、痺れを切らしたイライダが、彼らの気勢を削ごうと試みる。

「はい、オレクサンドルもペトロも、そこまでにしておきなさいな。二人とも、わたくし達の当初の目的を忘れたのかしら?」

 ぱんぱんと手を叩きながらイライダがそう言うと、ベッドの上で飛び跳ねながら若返った喜びを体現していた二人はようやく我に返り、馬鹿騒ぎを取り止めた。

「何だよイライダ、当初の目的って?」

「オレクサンドルったら、もう忘れたんですの? いいこと? あなた方を若返らせたのは、あくまでもプリピャチに赴くための準備段階に過ぎないのですからね?」

「ああ、そうか。そう言えばそうだったな」

「呆れた」

 どうやら彼ら二人は、イライダが言うところの『当初の目的』を本気で忘れてしまっていたらしい。

「とにかく時間もありません事ですし、今すぐにでもプリピャチに移動した方がよろしくてよ?」

 そう言ったイライダは右手の人差し指をぴんと立て、その指でもって肩を支点にしながら虚空に円を描くと、遥か遠方へと瞬間移動するための円環を出現させた。

「さあ、行きましょ」

 スズメフクロウのプーフを肩に乗せたイライダを先頭に、彼女に続いてオレクサンドルが、そして最後にペトロの順番でもって円環の内側へとその身を投じる三人と一羽。するとその時、病室の扉が勢いよく引き開けられたかと思うと、何者かが室内へと怒鳴り込んで来る。

「ちょっとゼレンスキーさん、静かにしてください! 周りの病室から騒音の苦情が来てますよ!」

 そう言って怒鳴り込んで来たのは白衣を身に纏った、この臨床病院クリニカルホスピタルに勤める看護師の一人であった。

「あら?」

 しかしながら彼女が怒鳴り込んで来る寸前に、イライダら三人と一羽は円環でもって移動してしまっていたので、主を失った病室はもぬけの殻である。

「変ねえ……別の病室だったのかしら?」

 アレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルのペトロの病室で、看護師が不思議そうに呟いた、ちょうどその頃。円環を潜り抜けたイライダとプーフ、それにオレクサンドルとペトロの三人と一羽は、宵闇と静寂に包まれた街路の一角で身を寄せ合いながら立ち尽くしていた。勿論街路とは言っても首都キエフの賑やかなそれではなく、村の中心を走るメインストリート以外は全く舗装もされていないような、どこか小さな村の寂れた街路である。

「イライダ、ここは……どこ?」

 街灯も灯っていないような真っ暗な街路で、頬を撫でる冷たい秋風に震えながら、オレクサンドルがイライダに尋ねた。

「そうね、一体ここはどこなのかしら? キエフを起点にしながら、距離と方角から大体の位置を割り出してプリピャチに移動した筈ですのに、どうやら少しばかり目測を誤ってしまったようね。わたくし、一度でも足を踏み入れた事のある場所なら確実に移動出来ますのに、見知らぬ場所だとこうして座標がずれてしまいますの。まったく、どうにかならないものかしら?」

 まるで他人事のようにそう言ったイライダの表情や口調からは、自らの魔術の失敗を悔いたり、罪悪感を抱いているような様子は見受けられない。

「それじゃあ、ここはプリピャチじゃないのか?」

「ええ、そうね。ここはプリピャチとはまた別の、どこかその辺りの村か町じゃないかしら? とは言え、全く的外れな場所でもなく、プリピャチの近郊に移動出来た事は間違いなくてよ」

 ペトロの疑問に答えたイライダら三人と一羽は、きょろきょろとこうべを巡らせながら眼を凝らし、ここがどこだか教えてくれる人は居ないだろうかと周囲の様子をうかがう。しかしながら宵闇に沈む街路は猫の子一匹姿を見せず、およそ十mから二十mおきにくたびれた民家が立ち並び、月明かりに照らし出されたそれらの民家もまたひっそりと静まり返るばかりだ。すると闇夜の暗さに眼が慣れるに従って、街路沿いに建つ一軒の民家の窓の隙間から灯りが漏れている事に気付く。

「灯りだ!」

 そう言ったオレクサンドルを先頭に、イライダら一行は互いを見失わないように足並みを揃えながら、窓から灯りが漏れる民家に向かって歩き始めた。そして真っ暗な街路を歩き続ける途上で、最後尾のペトロが前を歩くイライダに尋ねる。

「なあ、イライダのお嬢ちゃん」

「ん? 何かしら?」

「ずっと気になっていたんだが、その肩の上に乗っかってる小さなフクロウは、本物の生きたフクロウなのかい?」

 病院から支給されたパジャマ姿の若きペトロがそう言った直後、彼が言うところの小さなフクロウであるプーフがくるりと首を回転させ、180°真後ろを歩くペトロの眼をジッと覗き込んだ。

「うわっ!」

 作り物かと思っていたフクロウが突然こちらを向いたので、そのフクロウと眼が合ったペトロは頓狂な声を上げながら驚かざるを得ない。

「ええ、そうよペトロ。ご覧の通り、このプーフはわたくしの使い魔であると同時に、正真正銘の生きた本物のスズメフクロウですの。断じて剥製やぬいぐるみなどと言った、安っぽい作り物ではなくってよ」

「なるほど、そうか、分かった。なかなか可愛いフクロウだね、うん」

 ペトロはそう言って歩きながら、スズメフクロウのプーフに驚かされた事によって生じた動悸と過呼吸をどうにかして抑制しようと、早鐘を打つ胸を押さえつつ尽力する。そして彼の心臓と肺とが平静を取り戻すのとほぼ同時に、イライダら三人と一羽は、窓から灯りが漏れる民家の前へと辿り着いた。それは板塀に囲まれた敷地に建てられた平屋建ての民家で、外壁に塗られたペンキもぼろぼろになって剥げ落ちた、見るからにみすぼらしい田舎風の木造住宅である。

「さあオレクサンドル、扉をノックしてちょうだい」

「え? ああ、うん」

 イライダに指名されたオレクサンドルは民家の扉の前に立つと、ごくりと一回唾を飲みこんで覚悟を決めてから、その扉をこんこんと二回ノックした。育ちの良いイライダのそれとは違い、あまり行儀の良いノックとは言えない。するとノックから数分後、内側から解錠された扉がゆっくりと開いたかと思えば、小さなランプを手にした一人の老婆が姿を現した。

「……こんな時間に訪ねて来るのは、一体どこのどなたかね?」

 そう言いながら民家の中から姿を現したのは腰がくの字に曲がった小柄な老婆で、ウクライナの年配の女性の多くがそうであるように、伝統的な意匠による模様が刺繍されたスカーフを頭に巻いている。

「こんばんは、お婆様。お初にお眼に掛かります。わたくしはイライダ、この子はプーフ、それにこちらの二人はオレクサンドルとペトロと名乗る者達でございます」

 イライダがうやうやしくこうべを垂れながら、三人と一羽を代表して名を名乗った。すると老婆は皺だらけの顔をほころばせながら恐縮し、彼女らを歓迎する。

「おやおや、これはまた随分と可愛らしくて礼儀正しいお客様方がいらっしゃったもんだね。あたしはユーリヤ。ユーリヤ・ラザレンコお婆ちゃんだよ。さあさあ、こんな玄関先で立ち話も何だから、中へ入った入った」

 手招きしながらそう言った老婆ユーリヤに促されるまま、イライダ一行は民家の中へと足を踏み入れた。

「お邪魔します」

 そう言って断りを入れつつ足を踏み入れた民家は、やはりどこにでもあるような田舎の木造住宅であり、リビングの中央に据え置かれた暖炉ペチカの中で煌々と燃え盛る炎が眼に眩しい。

「それで、あんたらは一体どこから来たんだね? この辺に住んでいる子じゃないんだろう? 親御さんは一緒じゃないのかい? 何か、このあたしに用があって、こんな辺鄙な村まで来なさったのかな?」

 突然の客人達に向かって矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けながら、老婆ユーリヤは腰が悪いのか、如何にも億劫そうな素振りでもって暖炉ペチカの正面に置かれた安楽椅子に腰を下ろした。

「ええ、わたくし達は遠くキエフからプリピャチ目指してここまで来たのですけれど、どうやら道に迷ってしまったらしく、難儀していましたの。それでお婆様、ここは何と言う村で、プリピャチまで行くにはどうすればいいのかしら? よろしければ、教えていただけなくて?」

 イライダが尋ねると、老婆ユーリヤは眼を剥いて驚く。

「あれまあ、わざわざキエフから! それはまた、随分と遠い所から来たもんだねえ。それで、何を聞きたいんだったかしら? ああ、ここは何と言う村なのかだったかね? いいかい、ここはオパチチ村で、あんたらが目指しているプリピャチなら、ここから車で一時間ばかりも街道を走った先に在るよ」

「オパチチ村か……プリピャチから10㎞以上も離れた、ベラルーシとの国境沿いの小さな村だな。それでもチェルノブイリ原発から半径30㎞以内の、立入禁止区域内だ」

 老婆ユーリヤの言葉を耳にしたペトロが、腕を組んで眉間に皺を寄せながら呟いた。

「ああ、そうだね。そこの坊やが今言った通り、ここは放射能で汚染された立入禁止区域内さ。だからもう村の中には、このあたしを含めて、ほんの僅かな村民しか暮らしちゃいないよ」

 安楽椅子に腰を下ろした老婆ユーリヤはそう言って、自嘲気味にくっくと笑う。

「そんな立入禁止区域内に、お婆様はどうして住んでいらっしゃるのかしら? 他に、家族の方はいらっしゃらないの?」

「発電所が爆発する前までは夫や子供達と一緒に暮らしていたけれど、今はもう、ここにはあたし一人しか住んじゃいないよ。夫には先立たれたし、娘と孫達は、こんな放射能まみれの汚染された土地には住みたくないってさ。まあ、こればかりは仕方無いね。本来ならば、この村の住民は全員避難しなければならなかったんだから、娘達の言い分の方が正しいってもんさ。それでもあたしは、この村に帰って来たよ。世間様からは我儘わがまま帰還者サマショールなんて呼ばれ方をされているが、なあに、要は生まれ育った古郷から離れたくない頑固者なのさ、あたしは。……それでお嬢ちゃん方、あんた達はどうしてプリピャチなんかに行きたいんだい? あそこは子供だけで観光に訪れるような場所じゃないよ?」

 イライダの問いに答えた老婆ユーリヤは、そう言って問い返した。するとこの問いに対して、反射的にオレクサンドルが口を開く。

「実は僕らはあの街に住んでいて……」

 オレクサンドルがそこまで言い掛けたところで、イライダが彼の気勢を削ぐような格好でもって、ぱちんと指を打ち鳴らした。するとオレクサンドルの上下の唇がぴたりとくっ付き、それ以上言葉を発する事が出来ないでいると、彼に代わってイライダが事情を説明する。

「ええ、実はわたくし達三人の父と母が、事故以前までプリピャチに住んでいましたの。それで両親のかつての住居跡を一目見ておこうと思いまして、遠くキエフから足を運んだ次第でしてよ。でも両親にはプリピャチ行きを反対されましたものですから、こうして親の眼を盗んで三人だけでここまで来たはいいものの、ご覧の通り道に迷ってしまいまして……」

「ふうん、そう言う訳だったのかい。ご両親の故郷を一目見ておきたいだなんて、こんなご時世にも、殊勝な心掛けの子供達も居たもんだねえ。でも、ご両親の気持ちも、あたしには良く分かるよ? 放射能で汚染されたあの街に、我が子を連れて行きたいなんて思う親は居やしないからさ」

 老婆ユーリヤはそう言って、眼を閉じながらうんうんと頷いた。どうやら彼女は、イライダの口から出任せをあっさりと信じ込んでしまったらしい。

「それで婆さん、このオパチチ村からプリピャチまで行くには、街道沿いを歩き続ければいいのかい?」

 少しばかり不躾な口調でもってペトロが尋ねると、腰がくの字に曲がった小柄な身体を暖炉ペチカの火によってオレンジ色に照らし出されながら、老婆ユーリヤはゆっくりと首を横に振る。

「確かに街道沿いを歩き続ければプリピャチに辿り着くけれど、徒歩での移動は子供の足には過酷過ぎるし、何よりも夜は危険が一杯だからね。だからあたしは一人の年長者として、あんたらだけで旅立たせる訳には行かないよ。とは言え、プリピャチに行くなと言うつもりもない。じゃあどうするかと言えば、これから道案内してくれる人を紹介してあげるから、ちょっと待ってなさいな」

 そう言った老婆ユーリヤは、安楽椅子の背柱の突端に引っ掛けてあった布製の鞄の中に手を突っ込み、古ぼけたスマートフォンを取り出した。そしてそのスマートフォンの液晶画面を数回タップすると、どこかの誰かとの通話を開始する。

「ああ、ゲンナジーかい? あたしだよ、オパチチ村のユーリヤだよ。そうそう、この前はお世話になったねえ。あんたが荷物を運んでくれたおかげで、助かったよ。それで悪いんだけどさ、今からちょっと、うちまで来てくれないかい? ええ、オパチチ村のあたしのうちまでね。うん、そうそう。詳しい事は会って話すから、すぐに来ておくれ。それじゃあ、待ってるよ」

 最後にそう言った老婆ユーリヤは通話を終え、スマートフォンを鞄に仕舞い直した。

「あら、お婆様もスマートフォンをお持ちですのね」

 イライダの疑問に、老婆ユーリヤはくっくと笑いながら返答する。

「ええ、そうよ。電波が圏内だったり圏外だったり、どうにも不安定だけどさ。しかし何だね、携帯電話って奴は本当に便利だねえ。これが有るおかげで、オデッサに住む娘や孫達の様子も、手に取るようにうかがい知る事が出来るってもんだよ」

「ところでお婆様、今しがたのあなたの通話相手はどなたかしら?」

「ああ、人を呼んだんだよ。すぐにここに来るから、ちょっとお待ちなさい」

「ふうん」

 ややもすれば曖昧な老婆ユーリヤの返答に、イライダは納得し切らないながらも相槌を打った。そしておよそ二十分後、街道の方角から車のエンジン音が聞こえて来たかと思えば、そのエンジン音を奏でる車が民家の前で停まり、何者かの気配がこちらへと接近する。

「おや、どうやら到着したようだね」

 老婆ユーリヤが安楽椅子に腰を下ろしたままそう言った直後、民家の扉がごんごんと乱暴にノックされたかと思えば、家主の返事を待たずに扉が押し開けられた。そして一人の男が、民家内に足を踏み入れる。

「呼んだかい、婆さん?」

 扉を開けるなりぶっきらぼうな口調でもってそう言ったのは、ロシア軍が正式採用しているデジタルフローラ模様の迷彩服とオリーブドラブ色のニット帽に身を包んだ、歳の頃が三十歳前後と見受けられる若い男だった。そしてその男は顔の下半分を覆う伸び放題の無精髭を指先で弄びながら、口に咥えた安煙草をぷかぷかと吹かしている。

「よく来てくれたね、ゲンナジー。思っていたよりも早かったじゃないか」

「ああ、たまたまこの近くを走っていたからな。もしもチェルノブイリの向こう側に居たら、たっぷり二時間は掛かっていたよ」

 ゲンナジーと呼ばれた迷彩服とニット帽の男はそう言いながら老婆ユーリヤの元へと歩み寄り、彼女と熱い抱擁とチークキスを交わし合うと、ぐるりとこうべを巡らしながらイライダら三人と一羽を睨め回した。

「それで婆さん、このガキどもは? あんたの孫かい?」

「いやいや、そうじゃないよ。あたしの孫達だったら、娘夫婦と一緒に今もオデッサさあね。この子達はついさっきここを訪ねて来た子達で、なんでもプリピャチに行ってみたいんだとさ」

「プリピャチに? それはまた、どうして?」

 そう言って驚く迷彩服とニット帽の男に、老婆ユーリヤに代わってイライダが事情を説明する。

「ええ、実はわたくし達の父と母が、かつてあの街に住んでいたんですの。それで自分達のルーツに興味が湧きまして、こうして両親が留守の隙を突いてここまで来たのですが、道に迷ってしまって難儀していた次第でしてよ」

「なるほどねえ。それで餅案内として、俺が呼ばれたって訳か」

 迷彩服とニット帽の男はそう言うと、うんうんと首を縦に振りながら得心した。するとイライダは、この男の素性を老婆ユーリヤに尋ねる。

「それでお婆様、この方は一体どなたですの?」

「ああ、そう言えば未だ紹介していなかったね。彼はゲンナジー。ここら辺一帯の立入禁止区域内をふらふらと彷徨さまよっている、ええと、スト……ストカ……」

「ストーカーだよ、婆さん」

 そう言って老婆ユーリヤの言葉を補足した迷彩服とニット帽の男が、彼女の紹介を引き継いだ。

「俺の名前は、ゲンナジー。ゲンナジー・ヤノフスキー。出身はロシア連邦のスモレンスクで、今はチェルノブイリ原発から半径30㎞圏内の『ゾーン』に違法侵入している、いわゆる『ストーカー』って奴の一人だ。よろしく頼むぜ、ガキども」

わたくしはイライダ。イライダ・カルバノフ。こちらが兄のオレクサンドルで、こちらが従兄のペトロ。以後お見知りおきを。……それでゲンナジー、あなたがわたくし達をプリピャチまで連れて行ってくださるのかしら?」

「どうやら、そう言う事らしい。そうだろう、ユーリヤ婆さん?」

 ゲンナジーが尋ねると、安楽椅子に座った老婆ユーリヤは、首を縦に振りながら提案する。

「そうとも、あんたにはこの子達三人をプリピャチまで送り届けてやって欲しいんだけど、頼まれてくれるかい? 勿論、それなりのお礼はするからね」

「別に、礼なんていらねえよ。婆さんには普段から世話になってるし、こんなガキどもの道案内くらい、朝飯前のこんこんちきだ。礼を貰うまでもないぜ」

「ええ、そうね。この方へのお礼でしたらわたくし達が直々に行いますので、お婆様の手を煩わせる事もなくってよ」

 イライダはそう言って、ふんと鼻を鳴らした。すると老婆ユーリヤが安楽椅子から腰を上げ、民家のキッチンへと足を向ける。

「そうかいそうかい、そうと決まれば、四人とも出発前に何か食べて行きなさいな。ちょうどキッチンに、こしらえたばかりのジャガイモのスープと焼き立てのパンがありますから、それで夕食にしましょう」

 腰をくの字に曲げたままそう言いながら、老婆ユーリヤは民家のリビングを横断しようとした。しかしそんな彼女を、ゲンナジーが制する。

「ちょっと待ちなよ婆さん、そのジャガイモのスープって奴は、ここの裏庭の畑で採れたジャガイモが入ったスープなんだろう? それにパンの方だって、ここの井戸の水で捏ねた小麦粉で焼いた筈だ。俺や婆さんみたいないい歳した大人ならともかく、こいつらみたいな子供達に、こんな『ゾーン』内の放射能で汚染された食べ物を食べさせる訳には行かないぜ?」

「ああ、そう言えばそうだったねえ。だけどゲンナジー、野菜は水で三回洗ったら食べられるんじゃないのかい?」

「だから婆さん、その水がもう汚染されてるんだってば。それに三回洗えば食べられるってのも、どこの誰が言い出したのかも分からない、只の迷信だってんだ。だからそんな迷信なんかを信じてたら、俺も婆さんも早死にしちまうっての」

 ゲンナジーがそう言うと、老婆ユーリヤはがっくりと肩を落とし、しょげ返ってしまった。老い先短い老人にとって、若者に手料理を腹一杯食べさせてやると言うのは一種の娯楽なのだから、それを否定されてしまった彼女の落胆ぶりは正視に耐えない。するとそんな老婆ユーリヤに、今度はゲンナジーが提案する。

「それじゃあ婆さん、俺が街で買って来たロルトンが車に積んであるし、そいつで腹ごしらえをしようじゃないか。ちょっと待っててくれよ、ガキども。今すぐ薬缶やかんとミネラルウォーターも取って来てやるから、婆さんはそれでもって湯を沸かしてやってくれ」

 そう言って踵を返したゲンナジーは一旦民家から退出すると、やがてロシア語でもって『Роллтон《ロルトン》』と書かれた段ボール箱とステンレス製の薬缶やかん、それにミネラルウォーターのペットボトルを手にしながら帰還した。ちなみにロルトンとは、ロシア連邦で最も有名なカップラーメンの商品名である。

「ほらよ、ガキども。悪いけど俺が好きなチキン味しか無いから、他の味が食べたくても我慢してくれ」

 ミネラルウォーターを注いだ薬缶やかんを老婆ユーリヤに託すと、ゲンナジーはそう言いながら、段ボール箱の中から取り出した底の深いスチロール製の四角い容器をイライダら三人に手渡した。手渡された容器の紙蓋には黄色を基調としたラーメンの写真と共に、やはり『Роллтон《ロルトン》』と言う商品名、それに『курица《チキン》』と言う商品の種類が表記されている。

「俺は『ゾーン』の中をうろついている間は、普段からこいつばっかり食っていてね。あまり健康的な食事とは言えねえが、安くて手軽で食器や調理器具を汚さないし、何よりも放射能で汚染された野菜や肉を食うよりかは安全だ。そうだろう?」

「そうね。でもわたくし、こう言ったカップ麺の類を食べるのは生まれて初めての経験ですの」

 手渡されたチキン味のロルトンの、スチロール樹脂製の四角い容器をしげしげと物珍しげに眺めながらそう言ったイライダの言葉に、カップ麺が日常食であるゲンナジーは驚きを隠せない。

「マジかよ! その歳までカップ麺を食った事が無えだなんて、一体どんなお嬢様育ちなんだい、あんた?」

 ゲンナジーはそう言って驚きながら彼の分のロルトンの紙蓋を半分まで剥がし、油で揚げられた乾燥麺と共に封入されていた乾燥野菜や乾燥肉のかやくと粉末スープ、それにプラスチック製の使い捨てフォークを取り出した。そしてかやくと粉末スープを乾燥麺に振り掛けると、キッチンに立つ老婆ユーリヤが火に掛けた薬缶やかんでもってお湯が沸くのをジッと待つ。勿論イライダら三人もまたゲンナジーに倣い、各自のロルトンの紙蓋を半分まで剥がしてから、フォークと共に取り出したかやくと粉末スープを乾燥麺に振り掛けた。

「さあ、お湯が沸いたよ」

 やがて老婆ユーリヤが注ぎ口からもうもうと湯気が立ち上る薬缶やかんを手にしながら姿を現し、リビングのテーブルの上に並べられたゲンナジーとイライダらの計四つのロルトンの容器に熱湯を注ぎ入れたので、今度は熱湯が乾燥麺を茹で上げるまで待たなければならない。

「よし、時間だ」

 老婆ユーリヤによって熱湯が注がれてからぴったり三分後、左手首に巻かれた腕時計を凝視していたゲンナジーがそう言ったので、イライダらは紙蓋を剥がしたロルトンを食べ始める。

「どうだい、嬢ちゃん? 生まれて初めて食べるカップ麺の味は? 美味いかい? それとも不味いかい?」

「そうね、我慢すれば食べられない事もありませんけど、そう何度も食べたいと思えるような代物ではないんじゃないかしら? つまり端的に言ってしまえば、わたくしの口には合わなくってよ」

「それは要するに、二度と食いたくないほど不味いって事か。こいつは手厳しいね、まったく」

 辛辣なるイライダの返答に、ゲンナジーはそう言ってロルトンの麺をずるずると啜りながら、屈託無く笑った。その笑顔からは彼の日常食を小馬鹿にされた事に対する怒りや悲しみと言った負の感情は微塵も感じられず、むしろこの状況を楽しんでいるかのような前向きな感情、言うなれば爽快感や幸福感すら滲ませている。

「そこまで言うほど不味いかな、イライダ? 僕は久し振りに食べるカップラーメンだから、なんだか一人暮らしをしていた頃の懐かしさも相まって、それなりに美味しく感じられるけどな」

「ああ、俺もサーシャと同意見だ。入院してからこっち、もう何年も何年も味が薄くて量が少ない病人食しか食ってなかったから、むしろこう言ったジャンクな味の方が美味く感じられるけどな」

 イライダが不味いと断罪したチキン味のロルトンも、若きオレクサンドルとペトロの二人には、それなりに好評らしかった。

「こんな物が美味しいだなんて、あなた達全員、舌がおかしいんじゃなくて?」

 そう言って呆れ返るイライダを他所に、オレクサンドルとペトロ、それにゲンナジーの三人はずるずるとロルトンの麺を啜り続ける。音を立てて麺を啜るのは、その行儀が悪さを咎められるべき行為だが、若さ故の食欲に火が点いた男三人はそんな些細な事をいちいち気にしてはいない。そして数分後、スチロール製の容器の底に残ったスープを啜りながら、ゲンナジーが老婆ユーリヤに尋ねる。

「しかしだな、婆さん。自発的に『ゾーン』の中に足を踏み入れている俺みたいなのが言うのもなんだが、あんたもいい加減、いつまでこんな村に住み続ける気だい? 一度は当局の命令でキエフに避難したのに、その命令を無視して、自分からこの村まで戻って来たんだろう?」

「ああ、そうさ、そうともさ。いつまでだって住み続けてやるさ。そもそもあたしがこの家を追い出されたのは、今回の原発事故が初めての経験じゃないんだよ。大祖国戦争の時は最初にドイツ兵がやって来て、未だ子供だったあたしやあたしの家族をこの家から追い出した挙句、スィレーツィの強制収容所に収監したんだ。そしてドイツ兵が撤退してからようやく帰って来ると、今度は味方である筈のソ連兵がやって来て、ドイツ兵と全く同じ事をしたよ。しかしあたしは、それでも諦めなかったね。大祖国戦争が終わって強制労働から解放されると、一も二も無く、この家に帰って来たんだからさ。それにそもそもドイツ兵もソ連兵も、ヒトラーもスターリンも、ソ連末期の飢饉だって少しも怖くはなかったね。だから今更、眼に見えない放射能なんて怖くはないよ」

 ゲンナジーの疑問に答え終えた老婆ユーリヤは安楽椅子に腰を下ろしたまま、過ぎ去りし日々を懐かしむような遠い眼を虚空に泳がせた。きっと彼女の脳裏には、かつてこの民家に押し入ったドイツ兵やソ連兵の、粗野で粗暴な声や顔立ちが鮮明に蘇っているに違いない。

「ふう、ごちそうさん。身体が温まったぜ。……それじゃあガキども、そろそろ出発するとしようか」

「そうね、時間も無い事ですし、そうしましょう」

 やがてロルトンを食べ終えたイライダら一行は腰を上げると、ゲンナジーに先導されながら民家を後にする。すると民家の前を走る街道には特徴的な形状をした一台のオリーブドラブ色の車輛、つまり旧ソ連時代に生産されたバンタイプの四輪駆動車であるUAZ-452が停められていた。

「いいかい子供達、道中は気を抜かず、あらゆる物に注意を払いなさいね? それとプリピャチの周辺の森には狼が出るらしいから、ゲンナジーの言う事をよく聞いて、彼に守ってもらいなさいな」

 民家の玄関先まで見送りに出た老婆ユーリヤはそう言って、イライダら三人と一羽の身を案じる。

「ええ、心配なさらなくても大丈夫よ、お婆様。それとお婆様の、見ず知らずのわたくし達に対する心遣い、本当に感謝しております。どうかあなたの前途に、幸多からん事を」

「ありがとうございます、お婆さん」

「どうもありがとよ、婆さん」

 イライダに続いてオレクサンドルとペトロの二人もまた感謝の言葉を述べ終え、彼女らにスズメフクロウのプーフを加えた三人と一羽は、既にゲンナジーが運転席に腰を下ろしたUAZ-452四輪駆動車に乗り込んだ。

「それじゃあ婆さん、達者でな!」

 最後にゲンナジーが運転席側の窓から顔を覗かせながらそう言うと、エンジンを始動させたUAZ-452四輪駆動車は静かに発車する。

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