第四幕


 第四幕



 やがてキエフ中央駅前のヴォクザルナ広場から続くシモーナ・ペトリウリ通りを北東の方角へと歩き続けた末に、イライダとオレクサンドルとプーフの二人と一羽は、目的地である『カリビアン・クラブ』の正面入り口前へと到着した。

「どうしようイライダ、やっぱり用心棒バウンサーが立ってる。このままじゃ入れてもらえないよ」

 そう言ったオレクサンドルの言葉通り、ナイトクラブの正面入り口前にはやたらと体格ガタイの良いダークスーツ姿の大男が立ちはだかりながら、列を成す入店希望者達を一人一人選別している。つまり店内に足を踏み入れようとする老若男女がクラブの顧客として相応しいか否かを入念に判断し、彼のお眼鏡に敵った者には道を空け、不適格とされた者はその場で追い返すのだ。

「やっぱり僕らみたいな子供だけじゃ、ナイトクラブには入れてもらえないよな。しかも見てみろよ、僕なんか、こんなよれよれのパジャマ姿だ」

 クラブの前に並ぶ軽薄そうな身なりの若者達が用心棒バウンサーの手によって次々に追い返されている光景を眼にしたオレクサンドルは、そう言って項垂れると同時に踵を返し、とぼとぼとした足取りでもってその場から立ち去ろうとする。

「何を言っているのかしら、オレクサンドル? 大丈夫、わたくしに任せておきなさい」

 オレクサンドルの意に反してそう言ったイライダは、半ば強引に引き摺るような格好でもって彼の手を引きつつ、クラブの正面入り口前まで歩を進めた。するとそこに立っていたダークスーツ姿の用心棒バウンサーがこちらに眼を向けるなり、二人と一羽の先頭に立つイライダの説得を試みる。

「おやおや、どうしたんだいお嬢ちゃん? このドアの向こうに興味があるのかな? しかし残念ながら、好奇心旺盛なのは結構な事だが、ここから先は大人が楽しむための空間だ。お嬢ちゃんみたいな小さな女の子を入店させたとあっちゃあ、この俺が警察からも支配人からも怒られちまう。だからもうちょっとばかり胸と尻が大きくなって、酒が飲める年齢になってから、もう一度来てくれよな。その時は、俺もお嬢ちゃんを歓迎してあげようじゃないか。さあ、今日のところは大人しくお家にお帰り、お嬢ちゃん。きっとお父さんもお母さんも、心配しているだろうからさ」

 我儘わがままな利かん坊を説き伏せるかのような口調でもってそう言った用心棒バウンサーの男はなかなかの好青年かと思えたが、イライダはそんな男に向かって右手を差し出すと、その手の指をぱちんと打ち鳴らした。

何人なんぴとであれ、このわたくしを子供扱いする事は、決して許される事ではありませんの。だからあなたもわたくし達を子供扱いせずに、黙ってそこを退きなさい」

「……はい、分かりましたイライダ様」

 イライダが指を打ち鳴らすと同時に正気を失い、とろんとした虚ろな眼のままそう言った用心棒バウンサーの男はその場から退き、イライダ達二人と一羽に道を譲る。

「さあ、オレクサンドル。これで邪魔者は居なくなったのですから、あなたもわたくしも、気兼ね無く入店しましょうか」

「あ、ああ。それにしてもイライダ、どうやってあの用心棒バウンサーを丸め込んだんだい?」

「言ったでしょう? わたくしは、大人相手の無茶な交渉は得意ですのよって」

「なるほど」

 頷きながらそう言ったオレクサンドルとイライダ、それに彼女の肩の上のプーフの二人と一羽は用心棒バウンサーの男の脇をすり抜け、重厚な天然木で出来た観音開きの扉を潜ってナイトクラブの店内へと足を踏み入れた。すると扉の向こうには3m四方程度の小部屋が在り、入場チケットを購入するための発券カウンターと、お楽しみの最中に金が無くなってしまった客のための銀行のATMが一台だけ設置されている。

「さあ、オレクサンドル。これでチケットを購入して来てちょうだい」

 イライダはそう言って命じながら、アメリカン・エキスプレス社が発行するセンチュリオン・カード、通称『ブラックカード』をオレクサンドルに手渡した。センチュリオン・カードは限られた富裕層のみが所持出来る、庶民にとっては羨望の眼差しを向けるべき高嶺の花、もしくは垂涎の的たる最上級のグレードのクレジットカードである。そして発券カウンターで購入した二人分のチケットを手に、イライダとオレクサンドルとプーフの二人と一羽はラウンジ兼クロークを堂々とした足取りでもって通過すると、キエフ有数のナイトクラブ『カリビアン・クラブ』のホールに足を踏み入れた。

「あら、思っていたほど広くはないのね」

 そう言ったイライダの言葉を裏打ちするかのように、幾つものテーブルとソファとが所狭しと並べられた『カリビアン・クラブ』の地上二階建てのホールは比較的小規模なそれであって、国際的なイベントが開催されるコンサートホールなどと比べると見劣りする事は否めない。しかしながら赤を基調とした照明の灯りに照らし出されたホールは、清潔であると同時に荘厳な雰囲気に包まれており、このクラブが紳士淑女の社交場である事を如実に物語っていた。そしてそんなホールのステージ上に眼を向けると、ウクライナ国内ではそれなりに名の知れた熟練の手腕を誇るジャズバンドが登壇し、重厚かつ軽快な音色でもってルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界What a Wonderful World』を熱演している。

「なんだ、今日はジャズの日か」

 ちょっとばかり残念そうに呟いたオレクサンドルに、イライダが尋ねる。

「あなた、ジャズはお嫌いなのかしら?」

「いや、別に嫌いって訳じゃないけど……でもどちらかと言えば、僕はロシア民謡や旧ソ連時代の軍歌の方が好きかな。いつも病室でも、ラジオでずっとロシア民謡を聴いているんだ」

「ふうん、民謡や軍歌が好きだなんて、随分と変わった趣味ね。まあとにかく、立ちっ放しもなんですから、どこかその辺りで腰を落ち着けましょ」

 そう言いながらぐるりと周囲を見渡したイライダとオレクサンドルは、手近なソファに二人分の空席を発見すると、その空席に並んで腰を下ろした。今宵のナイトクラブ『カリビアン・クラブ』のホール内は多くの酔客でもって混雑し、並べられたソファはほぼ満席で、東欧諸国が慢性的に抱える不景気と政情不安の影響を微塵も感じさせない。

「それじゃあオレクサンドル、さっき手渡したカードでもって、何か適当な冷たい飲み物でも買って来てちょうだい。マクドナルドのマックシェイクが甘過ぎたから、却って喉が渇いちゃったの」

「ああ、うん」

 イライダに命じられたオレクサンドルは一旦席を離れ、ステージから見て右手の壁沿いに設置されたバーカウンターまで移動し、バーテンダーに向かって二人分のドリンク類とスナック類を注文した。そしてそれらを手にしながら帰還すると、再びソファに腰を落ち着ける。

「お待たせ、イライダ」

「ご苦労様。それで、これは何かしら?」

 イライダはそう言うと、眼の前のテーブルの天板の上に置かれたグラスを手に取り、その中身を一口ばかり飲み下した。すると飲み下した液体からは、アルコールの香りも風味も感じられない。

「あら? これって、お酒じゃないのね」

「え? ああ、うん、グレープフルーツジュースなんだけど……お酒の方が良かった?」

「ええ、てっきり柑橘系のカクテルか何かだと思って口を付けたのですけれど……まあ別に、ジュースでも構わなくてよ」

 グレープフルーツジュースを飲み下しながらそう言ったイライダに恐縮しつつ、パジャマ姿のオレクサンドルは、手にしたショットグラスの中身をグッと一息に飲み下す。彼が飲み下したショットグラスの中身は、純度100%のウォトカだ。

「美味い! 胃癌を患って以来飲む事を禁止されていたウォトカが、こんなに美味いだなんて! それにしても、アルコールの風味がこんなにはっきりと感じ取れるだなんて、何てリアルな夢なんだ!」

 そう言った彼の発言から察するに、どうやら決して思慮深い性格ではないオレクサンドルは、イライダの魔術によって若返りながらウォトカを飲んでいるこの状況を夢か何かの一種だと信じて疑っていないらしい。その証拠に、ホールを埋め尽くす他の客達がどう見ても未成年の彼ら二人に好奇の眼を向けても、当のオレクサンドルは気にも留めていない様子だった。そしてイライダとオレクサンドル、それにスズメフクロウのプーフの二人と一羽はジャズバンドの生演奏に耳を傾けつつ、紳士淑女の社交場たるナイトクラブでの一時ひとときを満喫する。

「それで、オレクサンドル。今この瞬間をもって、あなたが口にした「若返って夜の街で遊びたい」と言う願いの全てを聞き入れてさしあげたのですけれど、夢が叶った今の気分はどうかしら? これでもう、死ぬ前にやり残した事は無くて?」

 やがて『カリビアン・クラブ』の店内に足を踏み入れてから二時間ばかりが経過した頃合いを見計らって、イライダがくすくすとほくそ笑みながら、ウォトカの飲み過ぎで酩酊状態のオレクサンドルに尋ねた。

「え? ああ、うん……え? 何? 何だって?」

 しかしながら、見掛け上の身体年齢が十五歳前後まで若返っているにも拘らず、大人と同じ感覚でもってぐびぐびと大量のウォトカを飲み干し続けたオレクサンドルの意識は曖昧であり、最早もはやイライダの問い掛けの真意を汲み取る事が出来るような状況ではない。

「そんな事よりもイライダ、キミは楽しんでるかい? 久し振りのナイトクラブなんだから、キミも楽しまなくちゃ!」

 ぐでぐでに酔っ払った酩酊状態のままそう言ったオレクサンドルに、イライダは呆れ果てたかのような侮蔑と嘲笑の眼を向ける。

「申し訳ありませんけれど、わたくし、昔から騒がしい場所は苦手ですの。とは言え、日本に住んでいた頃にエカテリーナお母様に連れられてジャズバーやカラオケスナックにも出入りしていましたから、皮肉な事にこう言った場所にも慣れていると言えば慣れていましてよ」

 溜息交じりにそう言ったイライダは、既に彼女の声が耳に届いていないオレクサンドルに眼を向けつつ、グラスの底に残ったグレープフルーツジュースの最後の一口を飲み下した。

「本当に、男って馬鹿なんだから」

 そんなイライダの言葉に対して、彼女でもオレクサンドルでもない第三者が背後から同意する。

「ああ、そうだなイライダ。遺憾ながら、その意見にはあたしも賛同するぜ」

 その声を耳にしたイライダが素早く振り返ると、そこには修道服に身を包んで左眼に眼帯を当てた長身の白人女性、つまりウクライナ正教会モスクワ聖庁の武装修道女たるネクラーサ・スカチェフが安煙草を咥えながら立っていた。

「ネクラーサ……」

「どうした、イライダ? 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔してやがるぞ? それとも、本物の鉄砲玉を喰らいたいのか?」

 そう言ったネクラーサが修道服の袖口に左右の手を交差させながら差し込んだかと思えば、次の瞬間にはその手にウクライナ国産の自動拳銃であるRPCフォルト12が握られており、彼女は二挺拳銃の要領でもって構えたそれらの銃口をイライダに向ける。

「死にな、メスガキ」

 紫煙漂う安煙草を咥えたネクラーサは真っ白な歯を剥いて猟奇的にほくそ笑みながらそう言うと、フォルト12自動拳銃の引き金を続けざまに三発ずつ、左右合わせて六発分ばかりも引き絞った。ナイトクラブのホールに乾いた銃声を反響させつつ、都合六つの純銀弾頭がイライダを襲う。

「させるものですか!」

 しかしながらイライダは、彼女の周囲の見掛け上はほんの数㎝の厚さしかない空間を実質数㎞にまで延伸させ、飛来する純銀弾頭を空中で固定してみせた。また同時に、空間の延伸によって発生した急激な断熱膨張によって弾頭が凍り付き、氷と霜に覆われたそれはさながら親指大の雪の結晶の様に咲き誇る。

「おっと、いくら力が半減したメスガキ相手でも、さすがに真正面からの正攻法は通じないか」

 するとネクラーサがそう言った次の瞬間、銃声とマズルフラッシュに驚いた周囲の客やウェイターと言ったホールを埋め尽くす数百人の人々、特に女性客達が一斉に悲鳴を上げた。そして耳をつんざく叫声を背後に従えながら、まるで沈み行く豪華客船から退避する鼠の群れさながらの素早さでもって、我先に逃げ出さんとホールの出入り口に殺到する。

「いいのかしら、ネクラーサ? 紳士淑女が集うナイトクラブで修道女が銃撃事件を起こしたなんて事が世間に知れ渡れば、ウクライナ正教会でのあなたの立場も危うくなりましてよ?」

「構うもんか、どうせ教会の幹部は修道女のコスプレをしたキチガイ女が暴れたって事にして、世間の眼を誤魔化すだけだからな。それにイライダ、今はそんな事よりも、お前があたしの警告を無視したって事の方が許せねえ。あたしは確か、お前らみたいな異形の存在が神の子たる人間様に干渉するなって警告した筈だろう? それなのに再び人間様に干渉し、あまつさえ魔術でもって若返らせるだなんて、これは父なる神に対する明確な反逆行為だ。だから、今からお前を殺す。殺して殺して殺しまくって、お前の母親が待つ地獄に送り込んでやるから覚悟しろ」

 淡々とした口調でもってそう言い放ったネクラーサは、手にしたフォルト12自動拳銃を構え直した。

「無駄よ、ネクラーサ。そんな貧相な得物ではどうにも力不足ですから、このわたくしを撃ち殺すどころか、返り討ちに遭って氷漬けにされるのがオチなんじゃないのかしら?」

 そう忠告したイライダを取り巻く空間の気温が断熱膨張によって見る間に下降し、やがて原子の振動が停止する絶対零度にまで達すると、そこから発生した冷気でもって彼女の周囲のあらゆる物体が凍り付き始める。

「おお、怖い怖い。さすがは『氷のイライダ』と呼ばれたメスガキだ。かつては若きノスフェラトゥどもを統率する、急進派の幹部の一人だっただけの事はある。それに、確かにこんな小口径の豆鉄砲じゃあ、延伸された空間でもって身を守る今のお前を殺せないかもしれねえなあ」

 長身のネクラーサは皮肉交じりに嘲笑するかのような口調でもってそう言うと、肩の力を抜き、フォルト12自動拳銃の構えを解いた。そして再び修道服の袖口に左右の手を差し込んだかと思えば、今度はフォルト12自動拳銃の代わりに新たな得物を取り出し、その得物を構える。

「だったらこいつでもって空間ごとぶん殴ったら、どうなると思う?」

 猟奇的にほくそ笑みながらそう言ったネクラーサの左右の手には、長い柄の先端に鋼鉄製の鎚頭づちあたまを備える原始的な打撃武器、つまり一対の戦鎚せんついが握られていた。

「しかもこいつは、父なる神の名の下に魔術除けの祝福を受けた、ウクライナ正教会モスクワ聖庁謹製の戦鎚せんついだ。完全にとまでは行かなくとも、お前の魔術の効力を半減させる事くらいは出来るって寸法よ! こいつを喰らっても、未だ涼しい顔をしていられるかな?」

 そう言って啖呵を切ったネクラーサは素早く疾走及び跳躍すると、左右の戦鎚せんついを力任せに振るいながらイライダに襲い掛かり、重く頑丈な鎚頭づちあたまが彼女の小さな身体を捉える。

「くっ!」

 素早く身を翻して急所への直撃こそ回避したものの、ネクラーサが振るった祝福されし戦鎚せんつい鎚頭づちあたまはイライダの周囲の延伸された空間を貫通すると、そのままの勢いでもって彼女の左腕を叩き潰した。真っ白な肌に覆われた細く華奢な左腕の肘から先を破壊されたイライダは、自らの腕の骨が砕け、腱が千切れると同時に肉と皮膚が裂けて真っ赤な鮮血が飛び散る感触に、思わず苦悶の声を上げる。

「イライダ!」

 年端も行かない少女の左腕が戦鎚せんついの一撃によって破壊されると言った常軌を逸した状況を眼にしたオレクサンドルは、酩酊状態から一気に正気を取り戻すと、イライダの身を案じて彼女の名を呼んだ。

「下がっていなさい、オレクサンドル。偉大なる開祖エカテリーナが339番目の子であるわたくしは、この程度の事ではくじけなくってよ」

 すると彼女の身を案じるオレクサンドルの眼前で、苦痛に喘ぎながらそう言ったイライダの破壊された左肘に、常識では考えられない変化が生じ始める。

「?」

 関節を破壊され、肘から先が殆ど千切れかかっている傷口から肉色のあぶくがぼこぼこと湧き立ったかと思うと、鮮血にまみれた上腕と前腕の断面同士を繋ぎ止めた。するとそのあぶくに血が通い、まるで多能性幹細胞が各種の器官に成長するかのような手順を経ながら、次第に骨や皮膚や筋肉へと変化し始める。そして困惑するオレクサンドルを他所に、ものの一分足らずでもって、叩き潰された筈のイライダの左腕が完全に復元された。

「イライダ、その腕は……大丈夫……なの?」

 やはり困惑しつつ問い掛けるオレクサンドルに、イライダは復元したばかりの左肘の具合を確かめながら答える。

「心配せずとも大丈夫よ、オレクサンドル。高貴なるこのわたくしの身体は、この程度の事では傷一つ付けられないのですから」

 涼しい顔でそう言ったイライダは、ジャズバンドの生演奏を楽しんでいた客としての老若男女、それにバーテンダーやウェイターと言ったクラブの関係者達が避難したナイトクラブのホールの中央で、戦鎚せんついを構えるネクラーサに向き直った。

「やっぱり、腐っても不死身のノスフェラトゥの魔女だ。ちょっとやそっと肉体を破壊したくらいじゃあ、あっと言う間に復元しちまうな」

「ええ、そうね。ところでネクラーサ、あなたがわたくしの肉体を破壊して心臓に純銀の弾丸を撃ち込むのが早いか、それともわたくしの魔術によってあなたが氷漬けにされるのが早いか、試してみる覚悟があって?」

 イライダが啖呵を切るような口調でもって問い掛けると、問い掛けられたネクラーサは左右の手に握った一対の戦鎚せんついを構え直し、臨戦態勢を取る。

「覚悟か。そんなものは、神の奇跡をこの左眼を移植された時に出来上がっているさ」

「そう。だったら遠慮せず、どこからでも掛かっていらっしゃい」

 やはり涼しい顔のままそう言ったイライダが手招きすると、一旦腰を落として下半身に重心を移動させたネクラーサが、左右の戦鎚せんついを振りかぶりながら一気に距離を詰めて襲い掛かった。そして戦鎚せんつい鎚頭づちあたまがイライダの頭部目掛けて振り下ろされたものの、彼女は自分の周囲の空間ごと跳躍し、ホールの天井近くまで飛翔してみせる事によってこれを回避する。

「まったく、こんな事になるのでしたらアンドリーとボリスの二人も連れて来るべきだったかしら?」

 ナイトクラブのホールの天井にふわりと身を翻しながら着地し、空間を反転させる事によって身体の向きを上下逆様にしたイライダは後悔するが、今更そんな事を口にしても詮無い事でしかない。

「行くぞ!」

 すると気合い一閃、ホールの天井に着地したままのイライダ目掛けて、およそ人間離れした跳躍力でもってネクラーサが飛び掛かった。

「くたばれ、父なる神に仇なす魔女のメスガキめ!」

 そして跳躍したネクラーサは、やはり人間離れした膂力でもって左右の手に握られた戦鎚せんついを連続して振るい続け、その鎚頭づちあたまがイライダを襲う。しかし彼女は重く頑丈な鋼鉄製の鎚頭づちあたまによる連撃をすんでの所で回避してみせたかと思えば、一旦後退して距離を取った。

「どうしたメスガキ! ちょろちょろと逃げ回ってねえで、大人しくあたしにぶっ殺されな!」

 ナイトクラブ『カリビアン・クラブ』の板敷きの床に降り立ったネクラーサが猟奇的にほくそ笑みながら挑発すると、身体を上下逆様にしたままホールの天井に着地したイライダが反撃に転じる。

「いいえ、申し訳ありませんけれど、殺されるのはまたの機会にさせてもらおうかしら。それにわたくしとて、いつまでも逃げ回ってばかりじゃなくってよ」

 そう言ったイライダが虚空に手をかざせば、その虚空を中心とした周囲の空間が見る間に凍り付き、更には凍り付いた空間同士が互いに絡み合う鋭い刃の様に変形しながら回転し始めた。それはまるで、触れた物全てを跡形も無く切り刻む、巨大なシュレッダーの刃にも似ている。

「さあ、死になさいネクラーサ」

 引導を渡すべくそう言い放つと、凍結した空間によるシュレッダーが虚空にかざしたイライダの手から解き放たれ、轟音を響き渡らせながら射出された。射出されたシュレッダーの刃が巨大な大蛇の様にのたうち回りつつ、ホールの中央に立つネクラーサに襲い掛かる。

「ちっ! 面倒だね!」

 悪態を吐きながらも素早く身を翻し、やはり人間離れした跳躍力で飛び退る事によって、襲い来る氷の刃のシュレッダーをネクラーサは回避してみせた。するとたまたま彼女の背後に設置されていた革張りのソファがシュレッダーに巻き込まれ、刹那の間に凍り付くと同時にずたずたに切り刻まれたかと思えば、木材とスポンジと牛革の混合廃棄物と化してしまう。一瞬にして廃棄物と化したソファの残骸はホールの床を転がり、以前はそれなりの高級家具であった筈が、今は往時の面影も無い。そして轟音と共に高速回転し続ける氷の刃のシュレッダーは、まるで追尾機能を搭載した空対空ミサイルの様な軌跡を描きつつ、再びネクラーサに襲い掛かる。

「まったく、鬱陶しい砕氷機だね! だったら、これはどうだい!」

 そう言ったネクラーサは足を止め、こちらへと襲い掛かって来る氷の刃のシュレッダーと相対すると、彼女の左眼に当てた眼帯を捲り上げた。すると眼帯の下から奇妙な幾何学模様文様が彫られた義眼が姿を現し、ネクラーサはその義眼でもって、眼前の氷の刃を睨め付ける。

「父なる神の御名において命ずる! 悪魔の力よ、神が造り賜いしこの聖なる地より立ち去れ!」

 ウクライナ正教会モスクワ聖庁の武装修道女たるネクラーサが悪魔祓いの言葉を口にすると、彼女の左の眼窩に埋め込まれた義眼が眩い光を放ちながら輝き始め、その光を浴びたシュレッダーの刃が見る間に霧散した。そして氷の刃が瞬時に蒸発するかのように霧散した後には、その名残であるひんやりとした冷気のみがホール中を微かに漂い、修道服を纏ったネクラーサの頬を撫でる。

「さあイライダ、これで分かったろう! お前みたいなメスガキが繰り出すちんけな魔術なんてものは、忠実なる神の下僕たるこのあたしには通用しないのさ! その事実を理解したら、とっとと殺されな!」

「ふん、メスガキメスガキだなんて、神に仕える身にしては下品な女ね」

 己が放った氷の刃のシュレッダーが呆気無く無力化されたにも拘わらず、空間を反転して天井に着地したままのイライダは、慌ても騒ぎもしない。するとそんな彼女の態度が癪に障ったのか、ネクラーサはイライダに罵声を浴びせる。

「おいメスガキ! いつまでそんな所から高みの見物を決め込んでやがる! お前のくっせえガキまんこにこの戦鎚せんついを突っ込んで処女膜をぶち破ってやるから、さっさとここまで下りて来な!」

「やれやれ、本当に下品ですこと」

 呆れ果てたイライダがそう言いながらかぶりを振った次の瞬間、眼帯を当て直したネクラーサが素早く振りかぶり、右手に握っていた戦鎚せんついを投擲した。

 虚を突かれる格好となったイライダの顔面目掛け、まるでブーメランの様に高速回転しながら、重く頑丈な鎚頭づちあたまを備えた戦鎚せんついが飛翔する。しかしイライダはこの戦鎚せんついによる一撃を、素早く空中に身を躍らせる事によって回避してみせた。

「甘いんだよメスガキ!」

 ところが投擲された戦鎚せんついによる一撃を巧みに回避してみせたイライダ目掛け、今度は二撃目の戦鎚せんついが襲い掛かる。どうやら彼女が気付かない内に、ネクラーサは左の戦鎚せんついもまた僅かにタイミングをずらしながら投擲していたらしく、つまり一撃目は牽制であると同時にデコイでもあったのだ。そしてこの二撃目の戦鎚せんついによる一撃を、遮蔽物の無い空中に身を躍らせたイライダは、回避する事が出来ない。

「!」

 ネクラーサが投擲した二撃目の戦鎚せんついが、イライダの胸に直撃した。重く頑丈な鋼鉄製の鎚頭づちあたまが薄い胸板をいとも容易く貫通し、彼女が纏う黒いドレスが皮膚ごと引き裂かれ、成長過程にある小さな乳房と共に胸筋と胸骨と肋骨がごっそりと抉り取られる。そして普通の人間ならば生命維持活動に必要不可欠な臓器である肺と心臓が真っ赤な鮮血にまみれながら砕け散ると、イライダは意識を失った。

「イライダ!」

 少女と修道女の死闘を見守っていたオレクサンドルの視線の先で、空中で意識を失ったイライダの身体がホールの床に落着すると、まるで屠殺された豚の死体の様に転がったままぴくりとも動かない。彼女の肩に留まっていたスズメフクロウのプーフが心配そうに女主人の髪の毛をついばみ、早く眼を覚ましてくれと、無言のまま懇願する。

「ビンゴ! やったぜ神様!」

 見事な手腕でもって獲物を仕留めてみせたネクラーサはガッツポーズと共に勝鬨の声を上げ、投擲した二振りの戦鎚せんついを回収すると、床に転がるイライダの元へと歩み寄った。そして頑丈な革のブーツを履いた足を振り上げたかと思えば、まるでサッカーボールさながらに、無防備なイライダの腹を渾身の力でもって何度も何度も繰り返し蹴り飛ばす。

「どうだ思い知ったか、この魔女のメスガキめ! これが神の御姿に似せて作られた、我らが人間様の力だ! これに懲りたら、もう二度と人間様に、父なる神に逆らうんじゃねえぞ! ざまあみろ!」

 ネクラーサは真っ白な歯を剥いて猟奇的にほくそ笑みながら、罵声交じりの勝利の雄叫びを上げた。そして興奮が絶頂に達した彼女は顔面を紅潮させて呼吸を荒げつつ、肺と心臓を破壊されたがために血流も呼吸も停止しているイライダを執拗に蹴り飛ばし続け、勝利の美酒に酔い痴れる。

「それじゃあ、そろそろとどめを刺してやろうか」

 やがてイライダを蹴り飛ばし続ける事に飽きたネクラーサは、修道服の左右の袖口の内側に戦鎚せんついを収納し、代わりに二挺のフォルト12自動拳銃を取り出した。そして純銀弾頭の銃弾が装填されたそれらを構え直すと、戦鎚せんついの一撃によって大きな穴が穿たれたイライダの胸に照準を合わせ、頭巾ウィンプルの下の顔面を真っ赤に紅潮させながら言い放つ。

「さあ、早く心臓を復元させやがれ! 復元すると同時に、このあたしが引導を渡してやるからさ!」

 イライダの様な不老不死のノスフェラトゥを確実に消滅させる方法は、現段階ではたったの三種類しか確認されていない。一つは直接であれ間接であれ太陽光線を浴びせて心臓を焼き尽くすそれであり、もう一つは、自然界に存在する金属の中で最も反射率が高い純銀を、月が出る夜に心臓に撃ち込む方法である。そして最後の一つは同じノスフェラトゥ同士で共食いさせる方法だが、今は夜中で太陽は昇っておらず、ネクラーサはノスフェラトゥではないので、共食いもまた不可能であった。となれば、残された手段は一つしか無い。

「早く! 早く復元しろ! 早く!」

 興奮しながら急かすネクラーサの視線の先で、意識を失ったイライダの胸に穿たれた穴の断面から、肉色のあぶくがぶくぶくと湧き立ち始めた。そしてそのあぶくに血が通い、骨や筋肉や皮膚へと変化したかと思えば、失われた肺や心臓が見る見る内に復元される。

「おい、待て! やめろ! イライダから離れるんだ!」

 やがて彼女の心臓が完全に復元されるまで後一歩と言ったところで、床に転がったまま動かないイライダとフォルト12自動拳銃を構えたネクラーサとの間に、二人の様子を遠巻きに見守っていたオレクサンドルが割って入った。

「あ? おい、あたしの邪魔すんな。お前みたいな只の人間は、どっかその辺で小便漏らしながらがたがた震えてろ」

 ネクラーサは「しっしっ」と言いながら手を払い、ジェスチャーによって退避するよう促すが、パジャマ姿の若きオレクサンドルはフォルト12自動拳銃の銃口を遮るような格好でもって立ちはだかる。

「邪魔だっつってんだろ! お前もぶっ殺すぞ、このジジイだかガキだか分からねえくたばり損ないの糞野郎が!」

「いいとも、撃てるもんなら撃ってみろよ。これはどうせ夢だ。幾ら撃たれたって死にはしないさ」

 どうやらオレクサンドルは、自分はちょっとばかり不思議な夢を見ているだけに過ぎないと、未だに信じ切ってしまっているらしい。

「いいだろう、だったら望み通り、お前もここでぶっ殺してやる。それに、どうせお前も魔術によって穢れた身だ。死んで父なる神に詫びて来るがいい」

 そう言ったネクラーサは、手にしたフォルト12自動拳銃の照準を、立ちはだかるオレクサンドルの胸に合わせた。すると彼女は彼の胸に照準を合わせた事によって、オレクサンドルが首から下げている装飾品の存在に気付く。

「それは……」

 オレクサンドルが首から下げているその装飾品は、きらきらと輝く十八金製の、首飾り状の護符アミュレットであった。そしてその護符アミュレットの突端には頂点が八つ存在する十字架、つまりウクライナ正教会の象徴シンボルたる『八端十字架』が見て取れる。

「……ちっ!」

 盛大な舌打ちを漏らしつつ、フォルト12自動拳銃の構えを解いたネクラーサは、オレクサンドルの足元にひざまずいた。

「敬虔なる信徒の皆様に於かれましては、時下ますますご健勝の事と存じます。どうかこの神の下僕のご無礼を、その広き心をもってお許しください」

 先程までとは打って変わって、おごそかな言葉遣いでもってひざまずきながらそう言って許しを請うたネクラーサは、うやうやしく頭を下げる。どうやら彼女は、彼女が所属するウクライナ正教会の敬虔な信徒には手が出せないらしい。

「?」

 まるで状況が理解出来ずに呆けるばかりのオレクサンドルの眼前で、ひざまずいていたネクラーサがゆっくりと立ち上がったかと思えば、苦虫を嚙み潰したかのような表情でもってオレクサンドルを睨め付けながら言い放つ。

「ああ、糞! 畜生! 興が削がれちまった! いいかイライダ、お前をぶっ殺すのはまたの機会にしておいてやる! だからその時が来るまでに覚悟を決めて、首を洗って待ってるんだな!」

 吐き捨てるような口調でもってそう言ったネクラーサはくるりと踵を返すと、そのまま肩をいからせながら、ずかずかと大股でもって出入り口に足を向けた。せっかくの獲物を眼の前で逃す結果となった彼女は眉間に深い縦皺を寄せつつ口をへの字に曲げ、今にも湯気が立ち上らんばかりに顔面を真っ赤に紅潮させており、どうにもこうにも不機嫌極まりない。そして怒り心頭のネクラーサが姿を消すと、ナイトクラブ『カリビアン・クラブ』の荘厳な雰囲気に包まれたホールには、イライダとオレクサンドルの二人だけが取り残された。

「……イライダ? イライダ? イライダ!」

 やがてネクラーサの気配が完全に消え去ってから数秒後、はっと我に返ったオレクサンドルはホールの板張りの床に転がったままのイライダの身体を抱え起こし、その身を案じる。

「……オレクサンドル?」

 すると胸に穿たれた穴も塞がり切ったイライダはオレクサンドルの腕の中で息を吹き返し、か細い声でもって彼の名を呼ぶと、長く真っ白な睫毛に覆われた眼をゆっくりと開けた。

「ああ、イライダ! 良かった、無事だったんだね!」

 オレクサンドルはイライダを抱え起こしながらそう言って安堵し、ホッと胸を撫で下ろす。戦鎚せんついによる一撃でもって胸に大穴を穿たれ、肺も心臓も破壊された彼女の姿をして『無事』とは言い難かったが、とにもかくにもイライダが一命を取り留めた事は欣喜雀躍きんきじゃくやくに値すると言っても過言ではない。

「しかしイライダ、いくら夢とは言え、キミが死んでしまうんじゃないかと思ってはらはらしたよ」

「馬鹿ねえ、オレクサンドルは。わたくしは不死身のノスフェラトゥ、偉大なる開祖エカテリーナが339番目の子よ? そのわたくしが、この程度の事で死ぬ訳が無いじゃないの」

 そう言って強がってみせるイライダの、ずたずたに切り裂かれたドレスの胸元から覗く発育途上の乳房と乳頭が汗に濡れ、ホールの天井に据え付けられた照明の灯りを反射して怪しく輝く。しかしながら彼女は、今は只々オレクサンドルと見つめ合う事に心奪われるばかりで、自らの乳房が露出している事になど気付いてもいない。すると不意に、抱擁し合う二人の背後から、何者かが声を掛ける。

「やあイライダ、今回は本当に危ないところだったね。それにオレクサンドルも、よくもまあ、あのネクラーサを踏み止まらせてくれたもんだよ。もし仮にキミが彼女に殺されてしまっていたとしたら、今頃はイライダもまたこの世に居なかっただろうし、これはまさに九死に一生を得たと言うやつなんじゃないかな」

 その声に振り返ってみれば、そこには花に覆われた牛の頭蓋骨を頭に被った小柄な幼女、つまりイライダの母親の旧友たるヤガーが空飛ぶうすに乗りながらふわふわと漂っていた。

「あらヤガー、あなた、こんな時間にこんな所まで何しに来たのかしら? もしもわたくしを助けに馳せ参じたつもりなのでしたら、とんだ無駄足に終わったようね。ご愁傷様」

 冷静かつ冷淡な表情と口調でもってそう言ってのけたイライダの姿に、ヤガーは牛の頭蓋骨を被ったかぶりを振りながら呆れ返る。

「やれやれ、ついさっきまでぼろぼろになって死に掛けていたくせに、キミはいつだってそうやって強がってみせるんだから。まったく、誰に似たって言うんだろうね。仮にこれがキミの母親のエカテリーナだったとしたら、旧友が助けに来てくれたと知ったら飛び上がって喜んで、何であれば小躍りしながら讃美歌の一つも歌い上げてくれていたに違いないのにさ」

「ヤガー、お母様を侮辱するような発言を口にするのでしたら、いくらあなたでも許さなくてよ?」

 オレクサンドルとの抱擁を解いたイライダはそう言うと、刺すように鋭い視線でもってヤガーを睨め付けた。

「おお、怖い怖い。エカテリーナの件は謝るから、そんなに睨むなってば。まったく、キミは母親の事となるとすぐに我を忘れるのは、本当に悪い癖だよ。それにイライダ、今はそんな些細な事をどうこう言っている場合じゃないんじゃないかな? ほら、キミ達にもこの音が聞こえているだろう?」

 耳に手を当てながらそう言ったヤガーの言葉に耳を澄ましてみれば、キエフの街の中心部からこちらに向かって近付いて来るサイレンの音が、イライダとオレクサンドルの鼓膜を震わせる。

「あら、どうやら間の悪い事に、早くも警察が来てしまったようね。あいつらみたいな権力者に尻尾を振るしか能が無い犬畜生なんかとは、出来るだけ関わりたくないんじゃなくて?」

「ああ、確かにそうだね、イライダ。なにせキミもあたしも、残念ながらお天道様にも世間様にも顔向け出来ない、人ならざる異形の存在だ。だからここは一つ、キミの得意な円環による瞬間移動の術でもって、この場から逃げおおせるのが得策なんじゃないかな?」

「まったく、ヤガーったら自分も魔女の端くれのくせに、人遣いが荒いったらないんだから」

 溜息交じりにそう言ったイライダは右手の人差し指をぴんと立てながら腕を伸ばし、その立てた指でもってぐるりと円を描く事によって、きらきらと光り輝く円環を虚空に出現させしめた。虚空に描かれた円環の内側は、まるで小石を投げ込んだ水面の様に、ゆらゆらと波打っている。

「さあ、行きましょ」

 そう言ったイライダはスズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま先陣を切り、次いでパジャマ姿の若きオレクサンドルが、そして最後に空飛ぶうすに乗ったヤガーの順番でもって、三人と一羽は次々に円環の内側へと身を投じた。彼女ら全員がゆらゆらと波打つ円環の向こうに姿を消すと、役目を終えた円環はその効力を失い、次第次第に小さく小さく縮み始める。そして数十秒後、ナイトクラブで銃を持った修道女が暴れているとの通報を受けた警察が駆けつけた時には円環も消え失せ、人気ひとけの無いホールは水を打ったようにしんと静まり返っていた。銃を構えた警察官達も、只々困惑するばかりである。

「ここは?」

 円環を潜った先の真っ暗な部屋の中央で、オレクサンドルが尋ねた。

「ここは病院のあなたの病室よ、オレクサンドル」

 オレクサンドルの問いに答えたイライダは暗闇の中で手を伸ばし、壁沿いのスイッチを押すと、天井に設置された照明が点灯して室内を明るく照らし出す。すると彼女の言葉通り、そこはアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の四階の、オレクサンドルが入院している病室であった。

「そうか、帰って来たんだね。イライダ、楽しかった夜の散歩もお終いかい?」

「ええ、帰って来たのよ。楽しかった夜の散歩も、これでお終いね」

 そう言ったイライダとオレクサンドルは少しばかり寂しそうな表情のまま互いに見つめ合い、そんな二人の姿を、うすに乗ったヤガーとスズメフクロウのプーフが興味深げに観察している。

「それじゃあオレクサンドル、もうすぐこの夢も醒めるでしょうから、あなたはベッドに横になってお眠りなさい」

「うん、そうさせてもらうよ」

 パジャマ姿の若きオレクサンドルはそう言って頷き、狭く薄暗い病室の壁沿いに設置されたベッドの上で横になると、肩まで毛布を被ってからゆっくりと眼を瞑った。するとほんの数分も経たない内に、彼はすうすうと穏やかな寝息を立てながら、深い深い眠りに就く。

「お休みなさい。良い夢を」

 ベッドの脇に立ったイライダはそう言いながら身を屈め、寝息を立てるオレクサンドルの薄く柔らかな唇に、そっと自らの唇を重ねた。するとそんな彼女の姿を眼にしたヤガーが、ひゅうと口笛を吹いて囃し立てる。

「どうしたんだい、イライダ? キミともあろう者が、こんな只の人間ごときに欲情するだなんて、珍しい事もあるもんだね。それとも何かい? この子とも契約して、キミの三人目の従僕ヴァレットにでもする気かい?」

「欲情ですって? そんな品の無い表現でもって、このわたくしの純粋な想いを代弁しないでいただきたいものね」

 オレクサンドルとの口づけを終えたイライダは、空飛ぶうすに乗ったまま病室内をふわふわと漂うヤガーを睨み付けながらそう言って、彼女の言葉に対する不快感を露にした。

「おお、怖い怖い。そんなに怒るなよイライダ、キミがあんまり可愛いから、ちょっとばかりからかってみただけじゃないか」

「まったく、あなたは昔からそうやって下品な口を利くんですから、困ったものね。お母様の古い知り合いでなければ、今頃は切り刻んで氷漬けにして、シベリアの永久凍土の奥底に沈めているところよ」

 ヤガーの態度に呆れ果てながら、怒りと侮蔑、それに僅かな親愛の情が入り混じった複雑な口調でもってそう言ったイライダは踵を返し、肩にスズメフクロウのプーフを乗せたまま病室の出入り口へと足を向ける。

「ああ、待ってよイライダ。あたしも帰るからさ」

 そう言いながら後を追うヤガーと共に、イライダとプーフの二人と一羽は照明が落とされた真っ暗な病室を後にした。彼女らが立ち去った後の病室のベッドの上では、魔術が効力を失った事によって元の禿げ頭の老人に戻ったオレクサンドルが、すうすうと寝息を立てながら深い深い眠りに就いている。

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