第三幕


 第三幕



 各科の診察時間がとうに終了し、見舞い客を受け入れる面会時間もまた終了したアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の廊下は、水を打ったかのような静寂に包まれていた。するとそんな静寂に包まれた廊下の片隅で、不意に何も無い虚空が小石を投げ込んだ水面の様にゆらゆらと波打ったかと思えば、直径1.5mほどのきらきらと光り輝く不思議な円環が姿を現す。そしてその円環の中から、やはり水面に飛び込んだ人間が水上の世界から水中の世界へと一瞬にして移動したかのような塩梅でもって一人の少女が姿を現すと、市松模様のリノリウム敷きの床に音も無く降り立った。

「ふう」

 虚空に浮かぶ円環を潜り抜けて姿を現した少女、つまり真っ白な頭髪を頭の左右で二つ結いにしたイライダは一息吐くと、ぱっぱと胸元の埃を払い落としながらドレスの乱れを直す。

「お母様が亡くなられてからこっち、この程度の魔術を行使するだけでもちょっとした一苦労ね」

 深い溜息交じりにそう独り言ちたイライダは、薄暗くて人気の無い臨床病院クリニカルホスピタルの廊下をこつこつと踵の音を響かせながら歩き始めた。そしてスズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま、彼女は建屋の四階にずらりと並ぶ病室の一つの前で足を止めると、その病室の扉をこんこんこんこんと四回ノックする。

「どうぞ」

 扉越しにそう言った病室の主の了承を得てから、イライダは扉を引き開けた。育ちの良い彼女は、ノックもせずに無断で入室したりはしない。

「こんばんは、オレクサンドル。いい夜ね」

 引き開けた扉を潜って病室内へと足を踏み入れたイライダは、オレクサンドルに挨拶の言葉を投げ掛けた。するとパジャマ姿のオレクサンドルもまたベッドの上で半身を起こすと、笑顔と共に「やあイライダ、プーフ、よく来てくれたね」と言って、挨拶の言葉を投げ掛け返す。

「それにしてもイライダ、キミは未だ未だ小さな子供なんだから、こんな時間じゃなくて陽が高い昼間の内に見舞いに来てくれればいいのに。そうでないと、キミのご両親が心配するじゃないか」

 禿げ頭のオレクサンドルはイライダに向かってそう言いながら、ベッドの脇に置かれた簡素なパイプ椅子に腰掛けるよう促した。

「そうしたいのはやまやまですけれど、残念ながらわたくし、どうしても陽の光と言う奴が苦手なんですの。それにどうせ、心配してくれる両親なんてこの世に存在しないのですから」

 再びの溜息交じりにそう言ったイライダは着席を促されたパイプ椅子に腰掛け、ベッドの上のオレクサンドルに尋ねる。

「それでオレクサンドル、見たところ顔色は良いようですけど、今日のあなたの身体の具合はどうなのかしら?」

「ああ、今日は身体のどこも痛くないし、なかなか調子がいいんじゃないかな。まあそうは言っても、処方された痛み止めのモルヒネが効いているだけなんだろうけどね」

 そう言いながら屈託無く笑うオレクサンドルの姿を眼にしたイライダは、小声でぼそりと呟く。

「本当に、変わったお爺ちゃんだこと」

「ん? 今何か言ったかい?」

「いいえ、別に。あなたの空耳じゃないかしら?」

「ふうん、そうかい」

 オレクサンドルはそう言うと、小首を傾げた。どうやら彼もまた、耄碌してしまった自分の耳の遠さに自信が持てない歳頃らしい。

「それでイライダ、今夜はどう言った用件でもって、ここまで来てくれたんだい? まさか、何の用も無く来てくれた訳じゃないんだろう?」

「ええ、そうね。別に、特にこれと言った用件があって来た訳ではないのですけれど……オレクサンドル、ちょっとあなたの身の上話を聞いてみたいと思ったの。迷惑だったかしら?」

「いや、別に迷惑じゃないさ。こんな死に損ないのじじいに聞きたい事があったら、何でも遠慮無く聞いてくれ」

 そう言って微笑むオレクサンドルに、イライダは単刀直入に尋ねる。

「ねえオレクサンドル、あなた、もうすぐ死ぬんでしょう?」

 イライダが口にした問い掛けに、オレクサンドルは少しばかり驚いて、ぎょっと眼を剥いた。しかし彼はすぐに平静さを取り戻すと、何事も無かったかのように涼しい顔と口調でもって返答する。

「ああ、確かにそうだね。僕はもうすぐ死ぬんだ。生きている人間は、いつか必ず、老いさらばえて死んでしまう。死の宿命からは、人間である以上は誰であっても逃れる事は出来ないんだよ」

「死の宿命ねえ……」

 人間ではないイライダは小声でそう呟くと、今は亡き母に思いを馳せた。

「人が死ぬ事が、そんなに不思議かい? まあ、キミみたいな小さな子供にとっては、死が身近ではないんだろうね。でもきっと、キミも歳を重ねれば、生と死の何たるかを学ぶ事になるんじゃないかな」

 子供相手でも決して居丈高にならず、また侮りもせずに、丁寧な言い回しでもってそう言ったオレクサンドルは微笑みを絶やさない。

「だとしたら、オレクサンドル」

 パイプ椅子に腰を下ろしたイライダは、ベッドの上のオレクサンドルに尋ねる。

「あなた、死ぬ前に何かやり残した事は無くて? たとえば、行ってみたい場所があるとか、会っておきたい人が居るとかと言った、やり残した事は」

「やり残した事か……」

 オレクサンドルはそう言いながら、西側の空に面した窓の外へと眼を向けた。彼が入院するアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルを取り囲む木立は宵闇に沈み、その木立の向こうに建つ聖ミカエル東方正教会のドーム屋根に掲げられた十字架が、ガラスに反射するオレクサンドル自身の皺だらけの顔と共に垣間見えた。

「そうだな……もしも若返る事が出来たとしたら、もう一度だけ、夜の街で遊んでみたいかな。せっかく首都であるキエフの街に住んでいると言うのに、どこにも出掛ける事が出来ないだなんて言うのは、まるで蛇の生殺しを味わっている気分だからね」

 窓の外の十字架を見つめながらそう言ったオレクサンドルに、イライダは事も無げに提案する。

「それでしたら、わたくしがあなたを若返らせて差し上げても良くってよ?」

 スズメフクロウのプーフを肩に乗せたイライダの提案を耳にしたオレクサンドルは、最初は訳も分からず、小首を傾げながらきょとんと呆けていた。しかし彼女の言葉の意味するところを理解すると、なるべく礼を失しないように声を殺しつつ、くすくすと笑い始める。

「一体何を言ってるんだい? こんな老いぼれた老人を若返らせようだなんて、そんな冗談みたいな事が出来る筈が無いじゃないか」

 オレクサンドルはそう言って笑うが、イライダは笑わない。そしてパイプ椅子から腰を上げた彼女は、ベッドに歩み寄る。

「冗談じゃなくってよ。本当に、あなたを若返らせてあげる」

「イライダ、大人をからかうのは止めなさい。キミは育ちは良さそうだが、時々良く分からない事を言って大人を困らせる、悪い癖があるようだ」

「いいからその口を噤んで、ジッとしていなさいな」

 幼子をあやすようにそう言ったイライダは手を伸ばし、ベッドの上で半身を起こしたオレクサンドルの右手をそっと握り締めた。すると皺だらけで骨ばっていた彼の右手から次第に皺が消え失せ、筋肉と皮下脂肪の厚みが増し、乾燥し切った不毛の大地の様にひび割れていた皮膚もまた瑞々しさを取り戻す。

「何だこれは?」

 驚嘆するオレクサンドルの眼前で、彼の右手に端を発した奇跡は腕を這い上り、やがて全身へと伝播し始めた。すると見る間に、オレクサンドルの筋肉と言う筋肉、皮膚と言う皮膚が張りと艶を取り戻し始める。

「さあ、これでどうかしら?」

 そう言ったイライダが手を放すと、オレクサンドルは再び窓に眼を向けた。するとそこには先程までの皺だらけで禿げ頭の老人ではなく、ふさふさの頭髪を湛えた若き青少年がガラスに写り込んでいたのだから、驚かざるを得ない。

「これは……」

 窓ガラスに映り込む自らの姿を凝視し、瑞々しくも逞しい自身の肌や骨格を撫で擦りながら、オレクサンドルは己の身に巻き起こった現象に納得行かない様子であった。

「ねえ、オレクサンドル。もうあなたは、そんなベッドに横になっている必要なんて無いんじゃなくて? 今すぐ起き上がって、このわたくしと一緒に夜の街に繰り出すべきではないのかしら?」

「あ、ああ」

 訳も分からないままベッドから抜け出し、リノリウム敷きの床へと降り立ったオレクサンドルは、手足や胴体や顔をぺたぺたと手で触れる事によって自らの身体の変化を再確認しようと試みる。すると病院から支給されたLサイズのパジャマがぶかぶかであり、瑞々しくも脂ぎった肌に覆われた顔にはうっすらとニキビが浮き出ている事から鑑みるに、どうやらこの身体の見掛け上の年齢は十四歳か十五歳と見受けられた。

「本当に若返ってる……信じられない……」

 尚も驚嘆するオレクサンドルに、イライダは問い掛ける。

「どうかしら、わたくしの魔術をその身でもって体感した心持は?」

「魔術……? すると何かい、イライダ、キミは魔女か何かなのかい?」

「あらオレクサンドル、あなた、随分と勘が良くってね。歴史上最も偉大な魔女、我が母たる開祖エカテリーナが339番目の子であるわたくしは、時間と空間とを自在に操る魔女の一人でしてよ。その偉大なる魔女の力、とくとご覧なさい」

 イライダはそう言うが、常識人であるオレクサンドルは、そうそう簡単には彼女の言葉を受け入れない。

「そうか……これは夢だな! もしくは、モルヒネの過剰投与による幻覚だ! そうでないと、こんな非科学的な事が現実で起こり得る筈が無い!」

 ぶかぶかのパジャマを身に纏った若きオレクサンドルはそう言いながら、眼の前の事実が夢である事を確認するために、自らの頬をギュッとつねった。しかし当然の事ながら全ては夢ではなく現実なので、いくら頬をつねってみても眼は醒めず、只々頬が痛むばかりである。

「現実を受け入れられずに夢だと錯覚するのは、あなたの勝手じゃないかしら。まあどちらにせよ、これでやり残した夢の半分が叶ったのですから、後は夜の街に遊びに行くだけね」

 そう言ったイライダは右手の人差し指をぴんと立てながら、何も無い虚空に向かってその右手を高々と掲げてみせた。そして肩を支点にしつつ、右腕をコンパスの様にくるりと回して虚空に大きな円を描く。円の直径は、彼女の腕の長さのおよそ二倍、つまり1.5mほどだ。すると描かれた円はきらきらと光り輝く円環となり、その円環の内側が、小石を投げ込んだ水面の様にゆらゆらと波打ち始める。

「さあ、行きましょ。わたくしについて来なさい」

 若きオレクサンドルに向かって手招きしながらそう言ったイライダは、自らが虚空に描いた円環を潜り、ゆらゆらと波打つその内側へと飛び込んだ。すると彼女の身体と、彼女の肩に乗ったスズメフクロウのプーフは虚空の彼方へと姿を消し、後にはオレクサンドルだけがぽつんと取り残される。

「これ、本当に大丈夫だよな……?」

 虚空に浮かびながら光り輝く円環を前にして、その円環に飛び込んだものかどうか躊躇するオレクサンドル。暫し逡巡した彼はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めると、勢いよく円環に飛び込んだ。ゆらゆらと波打つ水面が、オレクサンドルが飛び込むと同時により一層波打ち、淵から零れ落ちそうになる。すると円環を潜ると同時に視界が開け、気付けば彼が入院するアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの狭く薄暗い病室ではない、どこか別の場所へと瞬間的に移動してしまっていた。

「遅かったじゃないの、オレクサンドル。わたくしの魔術に身を委ねるのが、そんなに怖かったのかしら?」

 円環による瞬間移動と同時に体勢を崩し、石畳が敷かれた地面にひざまずいてしまったオレクサンドルの眼前に立ちはだかったイライダはそう言うと、上品かつ優雅な仕草でもってくすくすと笑う。

「ここは……?」

 ひざまずいた状態から立ち上がったオレクサンドルが、きょろきょろと視線を巡らせて周囲の状況を確認しながら尋ねた。今現在の彼とイライダ、それにスズメフクロウのプーフの二人と一羽が立っているのは先程までの病室ではなく、どうやらどこかの街の人気の無い路地裏だと思われる。

「ここは、キエフ中央駅の裏手の路地よ。魔術を行使する瞬間を衆目に晒したくなかったから、こんな辺鄙な場所に転移しなければならなかったの」

「魔術……転移……」

 イライダの言葉を反芻したオレクサンドルは、自身の頬を指先でぎゅっとつねって、眼の前で巻き起こる現象が夢である事を確認しようと試みた。しかし残念ながら、彼の意図に反し、つねられた頬はじんじんと痛い。

「どうしたのオレクサンドル、馬鹿な事をしてないで、大通りに移動しましょ? 夜の街で遊ぶんでしょ?」

「あ、ああ」

 イライダに手を引かれながら、困惑顔のオレクサンドルは路地裏から抜け出すと、キエフ中央駅の駅舎の前に広がるヴォクザルナ広場へと足を踏み入れた。一見するとウクライナ正教の大聖堂かと見紛うほどの駅舎の周囲は東欧最大の都市の中央駅に恥じぬ賑わいぶりを誇り、とっぷりと夜も更けた夜半にも拘らず、駅の利用客やその送迎を担う車輛の往来が途絶える気配は無い。そしてそんな広場の片隅で、人々の喧騒や車輛が奏でるクラクションの音に身を委ねつつ、イライダはオレクサンドルに尋ねる。

「さあ、まずはどこに行きましょうか?」

 しかしながら、尋ねられたオレクサンドルの眼は、駅舎の前を走る大通り沿いに建つ一棟の店舗に釘付けになっていた。そしてイライダもまたその店舗に眼を向け、少しばかり驚く。

「マクドナルドだ!」

 そう言ったオレクサンドルの言葉通り、それは『ゴールデンアーチ』と呼称されるアルファベットの『M』型のアーチを高々と掲げた、マクドナルドキエフ中央駅前店の店舗であった。今更言うまでも無い事だが、マクドナルドはアメリカ合衆国に本社を置く、世界最大規模のファストフードチェーンである。

「何? オレクサンドルってば、あんな見るからに下品な看板のお店なんかに興味があるんですの?」

「勿論だよ! マクドナルドのハンバーガーは美味いんだ! ああ、懐かしい。胃癌で胃を摘出する前は注文待ちの行列に何時間も並んで、毎日の様に食べたなあ」

「ふうん」

 イライダはスズメフクロウのプーフを肩に乗せたままそう言って頷くと、ヴォクザルナ広場からマクドナルドの店舗へと足を向けた。そして背後を振り返り、二の足を踏むオレクサンドルを急かす。

「何をぐずぐずしているんですの? あのお店のハンバーガーが食べたいんでしょう?」

「いや、でも僕は胃を摘出していて固形物が食べられないから……」

「その件でしたら、心配しなくても良くってよ。あなたの身体は見掛けだけでなく中身も若返っていますし、摘出した胃もまた復元されている筈ですから、胃癌の有無なんて言う些末な事は気にせずに好きなだけ固形物を食べればいいんじゃないかしら?」

「え? 本当に? ねえイライダ、本当に今の僕は固形物を、ハンバーガーを食べられるのかい?」

 若返ると同時に摘出された胃が復元された事を告げられたオレクサンドルは、そう言いながら眼を輝かせた。一度は喫食の喜びを失った者にとって、期せずして再びそれを享受出来る事ほどの喜びは無い。

わたくしは、嘘は吐かなくってよ」

 そう言ったイライダに先導されながら、彼女とオレクサンドルの二人がマクドナルドへと足を踏み入れると、その店舗内は文字通りの意味でもって足の踏み場も無いほどの混雑ぶりであった。

「何なの、この混みようは?」

 店舗内に充満する人いきれに驚きつつ不快感を露にするイライダに、オレクサンドルが忠告する。

「仕方が無いよ、この店は確か、世界中の都市と言う都市に存在するマクドナルドの中でも二番目に混雑する店なんだ。だから朝から晩までこうしてひっきりなしに客が出入りするし、毎日昼飯時になると店の外にまで行列が出来て、一時間以上も並ばないといけないからね。ちなみに世界で一番混雑する店は、モスクワのプーシキン広場に在るマクドナルドらしいよ」

「ふうん、そうなの。オレクサンドルってば詳しいのね。それにしても旧共産圏の庶民は、そんなにマクドナルドのハンバーガーが好きなのかしら?」

 率直な感想とも皮肉とも受け取れるイライダの言葉に、オレクサンドルは思わず苦笑した。そして注文と会計の順番を待つ手近な列の最後尾に並ぶと、イライダは深い溜息交じりに彼の行為を否定する。

「何をしているの、オレクサンドル? 列に並ぶだなんて言うみっともない行為は、下等な貧民に身をやつした者がする事よ。仮にもあなたがわたくしの同伴者であるのならば、そんな恥知らずな真似はよしなさい」

「そうは言ってもイライダ、列に並ばないとハンバーガーが……」

 抗言しようとするオレクサンドルを半ば無視する格好でもって、イライダは自身の右手を頭上に掲げた。そしてその右手の指先をぱちんと打ち鳴らすと、ハンバーガーを買い求める何百と言う客達がまるで雷にでも打たれたかのように一斉にその動きを止め、マクドナルドの店舗内はやにわに静寂に包まれる。

「?」

 困惑する若きオレクサンドルを他所に、イライダはもう一度、ぱちんと指を打ち鳴らした。すると動きを止めていた客達が一斉に踵を返し、今度はぞろぞろと先を争うようにして退店し始める。気付けば地上二階建ての店舗の一階部分には、レジカウンターの向こうでレジ打ちと調理を担当している店員を除けば、イライダとオレクサンドルとプーフの二人と一羽だけがぽつんと取り残されていた。

「これは一体……?」

 オレクサンドルの疑問に、イライダが答える。

「ええ、簡単な事かしら? ちょっとだけ時間の流れを操作して、この一帯を営業時間外にしてみましたの。こうすれば暴力に頼らずとも、邪魔な民衆を大人しく帰宅させる事が出来ましてよ?」

 そう言ったイライダは、オレクサンドルに向けてにこやかに微笑み掛けた。その笑顔は彼女の育ちの良さをうかがわせる優雅さと上品さを湛えており、決して彼女の双子の姉とその従僕ヴァレットが見せるような、下品で粗野で猟奇的なそれではない。

「さあ、それじゃあ心置きなくハンバーガーを注文しましょ? オレクサンドル、あなたのお薦めはどれかしら?」

「う、うん」

 困惑しきりのオレクサンドルと共に店員が待つレジカウンターの前へと移動すると、彼の意見を参考にしながら、イライダは一通りの注文を終えた。そして調理された商品を受け取り、それらの商品が乗せられたプラスチック製のトレーを手にした二人は、店舗の二階のテラスへと移動する。時間と空間に干渉する彼女の魔術の効果範囲から外れていたおかげで、イライダとオレクサンドルが足を踏み入れたテラスには、アメリカナイズされたファストフードを楽しむ多くの客達の姿が見て取れた。

「さて、あなたが食べたがったハンバーガーはどんな味かしら?」

 宵闇に沈むキエフ中央駅の駅舎とヴォクザルナ広場が一望出来るテラス席に腰を下ろしたイライダは、向かいの席に座るオレクサンドルに向かってそう言うと、購入した商品の数々を検分し始める。

「まずは、サラダからね」

 イライダは手始めに、チキンサラダのパッケージの蓋を取り外した。パッケージの中にはレタス、人参、胡瓜きゅうり、トマト、それに一口サイズに切り揃えられたフライドチキンの姿が見て取れる。

「あら、野菜類は意外と新鮮ね。でもその上に乗っているフライドチキンの衣が野菜の水分を吸ってべちゃべちゃになってしまっているのは、ちょっといただけないんじゃないかしら?」

 そう言ってチキンサラダに対する評価を下し終えたイライダは、油とスパイスがしみ込んだ衣を剥がしたチキンを細かく千切ると、その千切ったチキンを肩に乗せたプーフに分け与えた。するとスズメフクロウのプーフは与えられたチキンを美味しそうに咀嚼し、嚥下する。どうやらイライダには不評だったチキンも、決してグルメではないプーフにとっては思わぬ御馳走らしい。

「サラダの次は、ポテトにしましょう」

 チキンサラダを食べ終えた二人は、今度は田舎風のくし形に切られたジャガイモを揚げたフライドポテトに手を伸ばす。

「ふうん、まあ、普通のフライドポテトね。でもさっきのサラダの野菜類と同じで、思っていたよりもジャガイモの品質は良いんじゃないかしら。こう言った素朴な味、嫌いじゃなくてよ?」

「だろう? マクドナルドのフライドポテトは外はカリカリで中はホクホクで、冷めて硬くなっても美味しいんだ」

 揚げ立てのフライドポテトをシェアしながら味わった二人の意見は、概ね一致した。

「次は、このロールとか言う食べ物ね」

 そう言ったイライダとオレクサンドルの二人は、油で揚げた小海老や鶏肉や魚の切り身を野菜と共にピタパンで巻いた『ロール』と呼ばれる料理に手を伸ばす。ぱっと見たところ、肉や野菜と言った具材が豊富で、なかなか美味しそうだ。そしてイライダがシュリンプロールを、オレクサンドルがフィッシュロールに噛り付くが、それらを咀嚼した二人の意見は明暗が分かれる。

「美味い! イライダ、これ、凄く美味いよ!」

 歓喜の声を上げるオレクサンドルとは対照的に、彼の向かいの席に腰を下ろしたイライダの顔色は冴えない。

「何なのかしら、これ? 小海老が随分と生臭いし、舌触りも悪いんじゃなくて? きっと鮮度の落ちた小海老を下処理が不充分なまま適当な温度でもって揚げているから、しっかり中まで火が通っていないのね」

 イライダはそう言うと食べ掛けのシュリンプロールをトレイの上に投げ出し、口の中に残された咀嚼物もまた紙ナプキンで包みながら吐き出してしまった。

「そんなに不味い? どれどれ?」

 オレクサンドルはそう言うと、イライダが投げ出した食べ掛けのシュリンプロールの中から数匹分の小海老のフライを摘み取り、自身の口に放り込んだ。そしてそれらを咀嚼して味見を試みるが、取り立てて不味いと言う事は無い。

「別に、不味くはないと僕は思うけどな」

 首を傾げるオレクサンドルに、イライダは口直しのマックシェイクを飲み下しつつ抗言する。

「いいこと、オレクサンドル。がさつで馬鹿舌のあなたはそう思うのかもしれませんけれど、海に囲まれた島国日本で生まれ育ったわたくしの繊細な舌はあなたのそれとは違って、海産物の味に敏感ですの。だからこの程度の生臭さでも、食べる気にはなれないんじゃないかしら?」

 オブラートに包む事無くそう言ったイライダにとっては、口直しのつもりのマックシェイクもまた評価の対象であった。

「このマックシェイクとか言う奇妙な飲み物も、只々甘いばかりで、乳製品のコクや香りがまるで感じられないんじゃなくて? それに甘味に鈍感な白人ならともかく、日本人とのハーフであるわたくしにとってはあまりにも甘過ぎて、とてもじゃありませんがこれ以上飲む気にはならなくてよ」

 そう言ってマックシェイクを酷評したイライダに、オレクサンドルは残りのフィッシュロールをむしゃむしゃと咀嚼しながら尋ねる。

「へえ、イライダって日本に住んでいた日本人とのハーフなんだ。肌の色も髪の色も真っ白だからそうは見えないけど、言われてみれば鼻が小ぶりなところや体つきが華奢なところなんかは、ちょっとだけアジア人っぽいね。それで、日本人なのはお父さん? お母さん? どうして日本からウクライナに移り住んで来たの?」

「日本人なのは、お父様よ。もっともわたくしはお母様とその子供達に育てられたのですから、お父様の顔も素性も知りませんけどね。そして今からおよそ十年前、大願成就を果たしたエカテリーナお母さまが亡くなられたのを機に、ここウクライナに移住して来ましたの。移住の理由は、そうね、今は亡きお母様の鎮魂の意味でとでも言っておこうかしら?」

「なるほど、亡くなられたキミのお母さんの名前はエカテリーナって言うんだね。奇遇だけど、僕の妻の名前もカチューシャ、つまりエカテリーナって言うんだよ。まあ、このカチューシャは夫である僕や未だ幼かった娘のオクサーナを見捨てて逃げた、酷い女だったけどさ。……ところでイライダ、十年前にウクライナに移住して来たって事は、キミは今何歳なの?」

「あらオレクサンドル、うら若き女性に年齢を聞くものじゃなくってよ? まあ、それでもわたくしの実年齢が気になるのでしたら、あなたほど年老いてはいないとだけでも言っておきましょうか?」

 イライダはそう言いながら、向かいの席に座るオレクサンドルをからかうような仕草でもって、くすくすとほくそ笑んだ。ちなみに彼が言うところの『カチューシャ』とは、ロシア語圏の女性名『エカテリーナ』の愛称である。

「さあ、そんな事よりも食事を続けましょうか」

 そう言って気を取り直したイライダとオレクサンドルの二人は、各々のトレイの上に乗せられたメインディッシュであるビッグ・テイスティーに手を伸ばした。ビッグ・テイスティーは牛肉のパテとチーズとレタスと玉葱、それにソースがたっぷりと塗られたトマトを胡麻付きのバンズで挟んだ地域限定のハンバーガーであり、ここウクライナのマクドナルドでは顧客からの絶対的な支持を得ている。

「うん、美味い!」

「あら? これはなかなか美味しいんじゃなくて?」

 手にしたハンバーガーを一口齧った二人はそう言って、どちらもビッグ・テイスティーを高く評価した。

「高級店のそれとは比べるべくもありませんけど、この値段でこの味なら、及第点を与えてもいいんじゃないかしら?」

「何言ってるんだよ、イライダ。ビッグ・テイスティーはこんなに美味いのに、キミの評価は辛口で辛辣だなあ」

 イライダとオレクサンドルの二人は、手にした互いのビッグ・テイスティーを一口また一口と、無心に食べ進める。確かに極上の絶品料理とまでは言わないが、イライダの評価は的確で、安価で手軽なファストフードでこの味を再現しているのならば称賛に値すると言わざるを得ない。

「マクドナルドも、捨てたものじゃなくってね」

 やがてビッグ・テイスティーを食べ終えたイライダは、彼女の中でのファストフードに対する見方を改めた。

「だから言っただろう? マクドナルドのハンバーガーは美味いんだって!」

 そう言って勝ち誇る若きオレクサンドルの姿を眼にしたイライダは、子供っぽい彼の言動を慈しむような眼でもって見つめながら、再びくすくすとほくそ笑む。

「ふう、もうお腹一杯ね。少し食べ過ぎたんじゃないかしら?」

 全ての料理を賞味し終えたイライダはそう言って、ぱんぱんに膨らんだお腹を撫で擦りながら一息吐いた。彼女とオレクサンドルの前に置かれたプラスチック製のトレイの上には、ハンバーガーやフライドポテトの包み紙や空き箱だけが転がっている。

「それで、わたくし達はこれからどうするのかしら? オレクサンドル、あなた、どこか行きたい所があって?」

 ソースと肉汁で汚れた口元を紙ナプキンで拭いながら、イライダが尋ねた。するとオレクサンドルは暫し逡巡した後に、さも名案とでも言いたげに答える。

「行きたい所か……そうだ、この近くに『カリビアン・クラブ』って言うナイトクラブが在るんだけど、そこに行こう! そこに行って、久し振りにバンドの生演奏を聴きながら一杯やるんだ! どうだい、イライダ? いい案だろう?」

「ナイトクラブねえ……」

 拳を振り上げながら意気揚々とナイトクラブ行きを提案するオレクサンドルとは対照的に、騒々しい場所や人混みが苦手なイライダは、どうにも気乗りしない。

「……まあ、いいんじゃないかしら? その何とかって言うナイトクラブに、このわたくしも一緒について行ってあげても良くってよ」

 しかしイライダは、気乗りしないながらもそう言って、オレクサンドルの提案に同意した。

「本当に? よし、だったら善は急げだ! さっそく出発しよう!」

 そう言って立ち上がったオレクサンドルに、イライダは自制を促す。

「待ちなさい、オレクサンドル。確かに善は急げと言いますけれど、慌てる乞食は貰いが少ないとも言いましてよ? それにあなた、深呼吸して落ち着いて、自分の服装をもう一度よくご覧なさいな。病院から抜け出して来た時のままの、ぶかぶかのパジャマしか身に付けていないじゃないの。ドレスコードが設定されていないファストフード店ならまだしも、そんな恰好でナイトクラブに入れてもらえるのかしら?」

「……確かに。こんな恰好じゃあ、クラブの入り口で用心棒バウンサーに追い返されるのがオチだよ」

 薄汚れたパジャマ姿のオレクサンドルはそう言って意気消沈し、一度は振り上げた拳を振り下ろすと、がっくりと項垂れてしまった。するとそんな彼に向かって、ドレス姿のイライダは溜息交じりに提案する。

「大丈夫よ、オレクサンドル。その恰好でも、何とかなるんじゃないかしら? 仮に何ともならなかったとしたら、このわたくしが直々に、その用心棒バウンサーとやらと交渉してあげても良くってよ?」

「交渉? そんな事で、こんな恰好の僕をクラブに入れてくれるかな?」

「ええ、そうね。あなたは心配せずに、大船に乗ったつもりでいてちょうだい。こう見えてもわたくし、大人相手の無茶な交渉は得意ですのよ?」

 イライダは自信ありげな表情と口調でもってそう言いながら、不敵にほくそ笑んだ。そして気を取り直すと腰を上げ、行動開始を宣言する。

「そうと決まれば、ぐずぐずせずにさっさと出発しましょう。オレクサンドル、わたくしはこの辺りの地理にはあまり詳しくありませんので、あなたがその何とかって言うナイトクラブまで案内してちょうだい」

 イライダは道案内を要請しつつ立ち上がると、肩に乗せたスズメフクロウのプーフ、そしてパジャマ姿のオレクサンドルと共にマクドナルドの店舗を後にした。仄白い月と星とが浮かぶ初秋の夜空の下、彼女ら一行は歩道に降り積もった落ち葉を踏み締めながら歩を進める。

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