第二幕


第二幕



 ウクライナの首都であり、また同時に東欧最大の都市でもあるキエフの街に逢魔が時が訪れ、やがて夜のとばりが下りてから小一時間が経過した頃。街の中心部とも言える独立広場から直線距離でもって1.3㎞ばかりも南南東に位置するアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの正門前に、一台のベンツGLAが停車した。

「アンドリー、ボリス、あなた達はここで待っていなさい」

 運転席と助手席に腰を下ろした二人の従僕ヴァレット達に向かってそう命じたイライダは、後部座席のドアを自分で開けるとベンツGLAから降車し、アスファルト敷きの路面へと優雅に降り立つ。

「それじゃあプーフ、あのお爺ちゃんを探しましょうか」

 肩に乗せた彼女の使い魔、つまりスズメフクロウのプーフに向かってそう語り掛けたイライダは、煉瓦造りの正門を潜って病院の敷地内へと足を踏み入れた。そして鬱蒼と生い茂る木立に囲まれた遊歩道を100mばかりも歩き続けた後に、やがて煉瓦と漆喰に覆われたアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の前へと辿り着く。

「さてプーフ、ここからが問題ね」

 分厚い木製の扉を潜り、消毒液の匂いが充満する地上五階建ての建屋の中へと足を踏み入れたイライダは一旦足を止め、診察を待つ患者や看護師が行き交う臨床病院クリニカルホスピタルの正面ロビーの中央でそう呟いた。勿論スズメフクロウのプーフは使い魔であっても一羽の鳥に過ぎないので、幾ら彼女が語り掛けたところで人語による返事は無い。するとイライダは、身に纏った緻密で繊細な細工が施された黒いドレスのポケットから白金プラチナ製の結婚指輪を指で摘まんで取り出すと、眼の高さに掲げたその指輪に向かって問い掛ける。

「さあ指輪よ、あなたの持ち主が今どこに居るのか、わたくしに教えてくれるかしら?」

 イライダがそう問い掛けると、冷たい無機物でしかなかった白金プラチナ製の結婚指輪が次第に熱を帯び、その内側からぶくぶくとあぶくが発生し始めた。そして沸騰した水が液体から気体に変化する時にも似た過程を経たかと思えば、きらきらと輝きながら宙を舞う金属の粒子と化した指輪は、人が歩くのと同じくらいの速度でもってゆっくりと移動を開始する。それは速くもなく遅くもなく、付かず離れずの、まるでイライダを誘導するかのような挙動であった。

「そう、そっちに居るのね」

 イライダはスズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま、虚空を漂いながら病院内を移動する、無数の粒子と化した結婚指輪の後を追う。そして各科の診察室の脇を素通りし、金属製の手摺が美しい螺旋階段を上って建屋の四階まで辿り着くと、漂う粒子は廊下を渡った先にずらりと並ぶ病室の一つの前でその動きを止めた。

「ここね。それじゃあ指輪よ、もう用は済んだから元の姿に戻りなさい」

 病室の前で足を止めたイライダがそう言って命じれば、宙を舞う無数の粒子と化していた結婚指輪は再び彼女の手の中で寄り集まり、やはり気体の水が固体に変化する時の様な過程を経ながら再び無機物の指輪へとその姿を変える。そしてふと気付くと、まるで何事も無かったかのような塩梅あんばいでもって、元の白金プラチナ製の結婚指輪がイライダの掌の上に転がっていた。

「あら?」

 するとその時、扉の向こうの病室の中から男女の言い争う声が聞こえて来たので、イライダはその声に耳を傾ける。

「指輪を失くしたですって? 何それ? 信じらんない!」

 さほど頑丈な造りではない病室の扉越しに、ややもすればヒステリックな口調でもって怒鳴り散らす女性の声が耳に届いた。どうやらその声の主である女性は、酷く憤慨しているらしい。

「仕方が無いだろう、気付いたら無くなっていたんだから」

 すると今度は反論する男性の声が聞こえて来たのだが、イライダはその声に聞き覚えがあった。

「仕方が無い? 何なの、その開き直ったような上から目線の言い草は! あの指輪はどこにでもあるような只の指輪じゃなくて、父さんと母さんの大事な大事な結婚指輪なんでしょう? 違うの?」

「別に、大事でも何でもないさ。あんな安物の指輪なんて、昔からの習慣でなんとなく捨てずにいただけだ。むしろ無くなってくれたおかげで指が軽くなったし、却って清々しているよ」

「何それ? 信じらんない! よりにもよって清々しているだなんて、エカテリーナ母さんに悪いと思わないの?」

 女性がそう言うと、その発言を契機に男性もまた憤慨し、扉の向こうの二人は揃って声を荒げ始める。

「あの女の名前を口にするな! いいか、あの女は僕とお前、それに多くの同胞達をプリピャチに残したまま一人で逃げた裏切り者なんだぞ! あんな奴の事は、金輪際思い出したくもない!」

「母さんの事を悪く言わないで! それに思い出したくもないほど嫌っているのなら、どうして父さんはさっさと指輪を捨てなかったの? それはつまり、母さんに未練があるって事じゃないの?」

「未練などあるものか! もういい! 出て行け! それに僕の前で、二度とあの女の名前を口にするな!」

「ええ、父さんのお望み通り出て行きます! あたしに会いたくなっても、もう会いに来てあげないんだから!」

 最後に女性がそう言い放った直後、病室の扉が内側から勢いよく引き開けられた。すると扉を開けた女性と、扉の前で聞き耳を立てていたイライダとが鉢合わせ、真正面から衝突する。衝突によって体勢を崩したイライダは転倒し、市松模様のリノリウム敷きの病院の床に尻餅を突いてしまった。

「あら、ごめんなさい」

 衝突した事を詫びた女性は、歳の頃が四十歳前後と見受けられる眉が太くて長い黒髪の中年女性であり、転倒したイライダを助け起こそうと身を屈めて手を伸ばす。

「大丈夫? お嬢ちゃん、怪我は無い?」

「ええ、問題無くてよ」

 助け起こされたイライダが特に詫びるでもなくそう言うと、中年女性はホッと安堵の溜息を漏らした。するとそんな中年女性に対して、背後の病室内から怒声が飛ぶ。

「オクサーナ! 何をぐずぐずしている! さっさと出て行け!」

「父さんに言われなくたって、今すぐ出て行きます! もう知らない! 勝手にすればいいのよ!」

 その言葉を最後に、オクサーナと呼ばれた中年女性は男性一人を病室に残したまま、その場から立ち去って行ってしまった。そしてずかずかと大股で、しかも早足でもって歩きながら廊下を渡った彼女は、やがて吹き抜け構造の螺旋階段の向こうへとその姿を消す。

「まったく、我が娘ながら誰に似たんだか……」

 尚も憤慨し続ける男性の声を他所に、イライダは扉を四回ノックしてから病室内へと足を踏み入れた。

「オレクサンドル、ちょっといいかしら?」

 ノックと共にそう言いながら入室したイライダに気付くと、つい今しがたまで憤慨していた男性、つまり禿げ頭の痩せ細った老人であるオレクサンドルは、さほど広くもない個室の病室のベッドの上で半身を起こしたまま驚く。

「おや、これはまた可愛らしいお客さんだ。お嬢ちゃん、僕とどこかで会った事がおありかな?」

「あら、もう忘れてしまったの? つい三日前に、夜の街で迷子になっていたあなたをこの病院の前まで送り届けてあげたじゃない」

 イライダはそう言うが、ベッドの上のオレクサンドルは眉間に深い縦皺を寄せたまま首を傾げ、どうにも要領を得ない。

「あなた、もしかして本当に忘れてしまったのかしら?」

「ああ、すまないが、最近はどうにも記憶が曖昧でね。お嬢ちゃんみたいな可愛らしい女の子とお知り合いになれた事を忘れるだなんて、一人の男として恥じ入るばかりだよ」

「呆れた」

 深い溜息を漏らしてかぶりを振りながら、イライダはそう言って呆れ果てた。

「それで、お嬢ちゃんは僕に何の用かな?」

 オレクサンドルが尋ねてみれば、イライダは掌の中の結婚指輪を指で摘まみ上げ、それを眼の高さに掲げた。

「この指輪に、見覚えはなくて?」

 そう言ったイライダが掲げてみせた指輪がきらりと輝くと、それを眼にしたオレクサンドルはハッと息を呑み、眼を白黒させる。

「お嬢ちゃん、その指輪をどこで?」

「三日前にあなたを送り届けた際に、どうやら車の中で落としたらしいの。それをわざわざこうして持って来てあげたんだから、少しは感謝してほしいものね」

「ああ、ありがとう」

 皺だらけの顔に複雑な表情を浮かべながら、オレクサンドルはイライダから指輪を受け取った。そして受け取った指輪を暫し掌の上でころころともてあそんだ後に、それを左手の薬指に嵌めると、より一層複雑な表情を浮かべる。それはまるで、指輪が手元に戻って来た事を喜んでいいのか悲しんでいいのか、どうにも決めかねているかのような表情であった。

「もしかして、わたくし、余計な事をしてしまったかしら?」

 特に罪悪感も抱かないままイライダが尋ねると、我に返ったオレクサンドルは気を取り直し、改めて感謝の言葉を述べる。

「いや、本当に嬉しいよ。これは大切な結婚指輪だったから、感謝してもし切れないほどだ。心からありがとうと言わせてもらうし、是非お礼がしたいから、お嬢ちゃんの名前を教えてくれるかな?」

わたくしの名前は、イライダ。そのままイライダと呼んでちょうだい」

「そうかい、お嬢ちゃんの名前はイライダって言うのかい。とても良い名前だね。……それで、名字プリーズヴィシュチェは?」

「悪いけど、わたくし名字プリーズヴィシュチェはありませんの。それでも敢えて名乗るとするならば、偉大なる母の名を父称ならぬ母称として、イライダ・エカテリーノヴナとでも名乗るべきかしら?」

 オレクサンドルの問い掛けに、イライダが返答した。するとオレクサンドルは、重ねて尋ねる。

「母称がエカテリーノヴナと言う事は、つまり、キミの母親の名前はエカテリーナなのかい?」

「ええ、そうよ。わたくしは偉大なる開祖エカテリーナが339番目の子、イライダ。それ以上でも、それ以下でもなくってよ」

「エカテリーナか……」

 イライダの母の名を耳にしたオレクサンドルは、彼女が言うところの『開祖』や『339番目の子』と言った意味深な単語には特に反応する事無く、何やら沈痛な面持ちでもって左手の薬指の結婚指輪を凝視し続けていた。しかし彼は気を取り直すと、今度は自らの名を名乗ろうとする。

「ああ、そう言えば自己紹介が未だだったね。僕の名前はオレク……」

「オレクサンドル・カルバノフでしょう?」

 自己紹介の言葉を遮りながらイライダが彼の名を言い当ててみせたので、オレクサンドルは驚かざるを得ない。

「おや、よく知ってるね。僕は覚えていないけど、その三日前に会った時とやらに自己紹介を終えていたのかい?」

「知ってるも何も、あなたの名前は胸の名札に書いてあるじゃない」

 呆れ顔のイライダは溜息交じりにそう言いながら、オレクサンドルが着ているパジャマの胸元に縫い留められた名札を指差した。するとそこにはアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの住所や電話番号やメールアドレスと並んで、オレクサンドルのフルネームが明記されている。

「ああ、本当だ! こいつは一本取られたな!」

 ややもすれば芝居掛かった口調でもってそう言ったオレクサンドルは、かっかと声を上げながら笑ってみせた。しかしそんな彼とは対照的に、真っ黒なドレスを身に纏ったイライダはくすりとも笑わない。

「ところでオレクサンドル、あなた、未だプリピャチに帰りたいのかしら?」

 イライダが尋ねると、ベッドの上のオレクサンドルはぎょっと眼を剥いて驚きながら笑い止む。

「プリピャチ……どうしてキミが、僕がその町に住んでいた事を?」

「どうしてもこうしても、三日前のあなたはプリピャチに帰りたいと言いながら、ベサラブスキー市場の前のバス停で裸足のまま立ち尽くしていたじゃないの。そんな事も覚えてないだなんて、ちょっと物忘れが過ぎるんじゃなくって?」

「そうか、僕はそんな事を言っていたのか。こんな小さな女の子に向かってそんな弱音を吐いていただなんて、我ながら情けなくて涙が出る。ああ、穴があったら入りたいとはこの事だ」

 オレクサンドルはそう言いながら、自らの不甲斐無さを嘆いてかぶりを振った。

「それで、プリピャチには帰りたいの? それとも、帰りたくないの?」

 重ねて尋ねるイライダに、オレクサンドルは尋ね返す。

「イライダ、キミはプリピャチがどんな町だか知っているのかい?」

「ええ、勿論知っててよ。チェルノブイリ原子力発電所に最も近い、発電所の関係者が住んでいた原発衛星都市アトモグラードでしょう?」

 イライダの返答に、オレクサンドルは驚きを隠せない。

原発衛星都市アトモグラードだなんて難しい言葉、よく知ってるね。イライダ、キミは未だ若いのに、随分と博識じゃないか」

 そう言って褒め称えるオレクサンドルを、褒め称えられたイライダは鼻で笑う。

「この程度の事で博識だなんて、わたくしを馬鹿にしないでくれるかしら? たとえ小さな子供であっても、ここウクライナの国民で、チェルノブイリとプリピャチの名を知らない人なんて一人も居なくってよ」

「ああ、言われてみれば確かにそうだ。申し訳ない、キミを子供と思って侮った僕を許してくれたまえ」

 オレクサンドルはそう言いながら頭を下げ、イライダに謝罪した。そして居住まいを正すと、改めて返答する。

「……さて、キミが聞きたいのは、僕がプリピャチに帰りたいかどうかだったね? 正直に言わせてもらうと、僕はかつて住んでいたプリピャチに帰りたくて仕方が無い。だが同時に、もうあの町に帰れない事もまた重々承知している。だからキミの問いに対する僕の答えは、小狡い言い方だが「帰りたいが帰れない」と言う事だ。これで、納得してくれるかい?」

「ええ、そうね。納得してあげてもよくってよ。それでオレクサンドル、プリピャチに住んでいたと言う事は、あなたも原子力発電所の関係者だったのかしら?」

「ああ、そうとも、その通りだ。僕はあの原子力発電所の爆発した第四号炉で働く、電気技師の一人だったんだよ。それでこうして被曝して、病気で入院する羽目に陥ってしまったのさ」

 そう言うと、オレクサンドルは頭が禿げ上がった皺だらけの顔に自嘲気味な笑みを浮かべた。

「病気ねえ……それで、どんな病気か聞いてもよくって?」

 イライダが尋ねると、オレクサンドルは自嘲気味な笑みを浮かべたまま、痩せ衰えた自らの腹部を指差しながら答える。

「癌だよ。それも、末期の胃癌だ。もっとも今年の初夏に、胃袋と一緒に殆どの癌細胞を摘出したおかげで、もう胃癌で苦しむ事は無いがね。まあしかし、癌細胞を胃袋ごと摘出した結果として固形物を食べる事が出来なくなってしまったのは、嬉しくない誤算だったよ。それに胃癌から逃れる事が出来たとしても、既に小さな癌が全身に転移し、次はどの臓器が発症するか分からない状態だ。つまり僕は、いつ死んでもおかしくない重病人だと言う事だよ」

 口から発する言葉の重苦しさとは裏腹に、オレクサンドルは満面の笑みをその顔に浮かべ、屈託無く朗らかに笑ってみせた。それはまるで、小さな子供であるイライダを心配させまいと、空元気を振り絞っているかのようにも見て取れる。

「ふうん、そうなの」

 しかしイライダの反応は、そう言いながらふんと鼻を鳴らすだけの、実に素っ気無いものであった。するとベッドの上のオレクサンドルは手を伸ばし、イライダの肩に留まっていたスズメフクロウのプーフの羽毛に覆われた頭をそっと撫でる。

「これはまた、随分と小さくて可愛い鳥さんだね。お嬢ちゃんの鳥さんかい? 名前は何て言うのかな?」

「この子は、プーフ。わたくしの使い魔の内の一羽よ。それとオレクサンドル、あなた、この子の名前を三日前にも聞いたけど忘れてしまったのね」

「おや、そうかい? 残念ながら、覚えてないなあ。まあ何にせよ、この可愛らしい鳥さんを責任もって可愛がってあげるんだよ?」

 そう言うオレクサンドルに撫でられたプーフは気持ち良さそうに眼を細め、痩せ細った彼の指をくちばしの先端で甘噛みするようについばみながら、感謝の気持ちを伝える事に余念が無い。

「それじゃあ、そろそろわたくしは帰ろうかしら」

 やがてそう言ったイライダは、帰り支度を始める。

「ああ、そうだね。それじゃあイライダ、これでさよならだ。指輪を届けてくれて、本当にありがとう。感謝しているよ」

「ええ、さようなら。機会があったら、また会いましょ」

 最後にそう言ったイライダは踵を返し、扉を引き開けると、一度も振り返る事無く病室を後にした。

「ねえプーフ、あなたの事まで忘れていただなんて、オレクサンドルってばおかしなお爺ちゃんねえ」

 肩に乗せたスズメフクロウのプーフに語り掛けながら、イライダは病院の廊下を歩き続ける。すると次の瞬間、病院内の全ての照明が音も無く落とされたかと思えば、イライダの周囲は一寸先さえも見通せないほどの漆黒の暗闇に包まれた。

「停電?」

 暗闇の中で立ち尽くしながら訝しむが、停電時でも点灯する筈の非常灯すら灯っていないので、この現象は只の停電とは考えられない。するとイライダの視界が暗闇に包まれてから数秒後、不意に全ての照明が灯ったかと思えば、先程まで誰も居なかった筈の廊下に一人の女性が立っていた。

「ネクラーサ……」

 病院の廊下の中央に陣取り、行く手を遮るような格好でもって仁王立ちしながら姿を現した女性の名を呟くと、イライダは忌々しげに歯噛みする。普段は冷静沈着にして泰然自若を旨とする彼女がここまで感情を露にするのは、極めて珍しい事だ。そしてネクラーサと呼ばれた女性、つまりウクライナ正教会の修道服に身を包んで左眼に眼帯を当てた長身の白人女性は、口に咥えた安煙草の煙をくゆらせながらイライダに歩み寄る。

「よう、イライダ」

 イライダの眼前に立ちはだかると、ネクラーサは彼女の名を呼んだ。しかしそんなネクラーサに対して、イライダは返事をしない。

「おやおや、暗闘だんまりを決め込むつもりかい? しかもこのあたしを無視シカトするとは、このネクラーサ様も舐められたもんだね」

 歯を剥いてほくそ笑みながらそう言ったネクラーサは身を屈め、病院の廊下で立ち尽くすイライダと眼の高さを合わせるなり、彼女の顔に向かって安煙草の煙をふうっと吹き掛けた。そして煙を吹き掛けられたイライダがげほげほとせると、その姿を見ながらネクラーサはげらげらと笑う。

「それでネクラーサ、あなた、一体何の用で姿を現したのかしら?」

 ようやく冷静さを取り戻したイライダが、ぷかぷかと安煙草を吹かしながら笑い続けるネクラーサに問い掛けた。するとネクラーサは勿体ぶったように、そしてイライダを挑発するかのように彼女の周りをぐるぐると巡回しつつ、威圧的かつ高圧的な口調でもって警告する。

「いいか、イライダ。お前が一体何を考えているのか知らんが、お前らみたいな異形の存在が神の子たる人間様に干渉しようだなんて、背信的で背徳的な考えを起こすんじゃねえぞ? あの忌々しいお前の母親、開祖エカテリーナが実の娘に殺されておっんでからは、お前らノスフェラトゥの力は半分以下に減退しちまってるんだからな? その事実を理解したら、人ならざるお前らは二度と人間様の前で色気を出したりせずに、真っ暗な穴倉の奥底でこそこそと地面に這いつくばりながら泥水を啜って生き永らえていればいいのさ」

 そう言ったネクラーサは不意に足を止め、再びイライダの顔に向かって煙草の煙を吹き掛けた。そして自らを顔をイライダの顔から数㎝の距離にまで最接近させながら、尚も警告する。

「それが嫌なら自ら陽の光の下にその身を晒して、真っ白な灰に成り果ててくたばっちまえ。そしてあたし達ウクライナ正教会モスクワ聖庁は常にお前らノスフェラトゥを監視している事を、肝に銘じておくんだな。理解したか? あ?」

 そう言って警告し終えたネクラーサが再びげらげらと声を上げながら笑うと、怒り心頭に発したイライダはそっと右手を挙げた。

「死になさい」

 イライダがそう言った直後、ネクラーサの周囲の空間が一瞬にして延伸され、急激な断熱膨張によって空間内の気温が見る間に下降する。時間と空間を自在に操る、開祖エカテリーナとその血族であるノスフェラトゥにのみ許された魔術の力だ。そして延伸された空間の中の物体が全て凍り付き、絶対零度近くにまで気温が下降した世界がイライダの眼の前に展開されたが、その空間内にネクラーサの姿は無い。

「おっと、危ない危ない」

 特に危機感の無い、むしろ小馬鹿にするかのような口調でもってそう言ったネクラーサは、いつの間にかイライダの背後に立っていた。しかも彼女の手にはウクライナ国産の自動拳銃であるRPCフォルト12が握られており、その銃口はイライダの心臓に向けられている。

「言っておくが、この銃に装填されている銃弾の弾頭は純銀製だ。いくらお前らが不死身のノスフェラトゥとは言え、この銃弾で心臓を撃たれたらどうなるか知らない訳じゃないだろう?」

「くっ……」

 生殺与奪の権利をネクラーサに握られてしまったイライダは、迂闊に動く事も出来ずにその場に立ち尽くしたまま、忌々しげに歯噛みした。するとそんなイライダを勝ち誇ったかのような眼でもって見下ろしながら、彼女の背後に立つネクラーサはにやにやと歯を剥きながらほくそ笑む。

「さて、今日のところは警告だけだ。これに懲りたら、もう二度と神の子たる人間様に干渉するんじゃねえぞ?」

 背後のネクラーサがそう言うと、再び病院内の全ての照明が落ち、イライダの周囲は一寸先さえも見通せないほどの漆黒の暗闇に包まれた。そしてほんの数秒後に照明が灯ったかと思えば、つい今しがたまでイライダの背後に立っていた筈のネクラーサの姿はどこにも無い。

「誰が、あなたの言う事なんて聞いてやるものですか」

 怒り心頭のイライダはそう言って吐き捨てると、まるで何事も無かったかのような平静さを取り戻した病院の廊下をすたすたと歩き始める。そして金属製の手摺が美しい螺旋階段を優雅な足取りでもって駆け下り、各科の診察室の脇を素通りしたかと思えば、正面玄関の扉を潜ってアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋を後にした。宵闇に沈む病院の敷地はしんと静まり返り、静謐かつ厳粛な空気に包まれている。

「イライダ様、お待ちしておりました」

 やがて鬱蒼と生い茂る木立に囲まれた遊歩道を100mばかりも歩き続けた末に、煉瓦造りの正門を潜って病院の敷地外へと足を踏み出すと、彼女の従僕ヴァレットであるアンドリーとボリスの二人が声を合わせてイライダを出迎えた。

「アンドリー、ボリス、出迎えご苦労。それで、わたくしの留守中に何か異常は無かったかしら?」

「はい、イライダ様。特にこれと言って異常は見受けられません」

 再び声を揃えながらそう言ったアンドリーとボリスの姿を見るにつけ、彼ら二人の従僕ヴァレット達がネクラーサの出現にまるで気付いていなかった事実を悟ったイライダは、深い溜息を吐きながらかぶりを振って呆れ返る。

「まったくアンドリーもボリスも見た目だけは一人前のくせに、中身は未だ未だ素人同然の無能のままなんだから……」

 溜息交じりにそう言ったイライダの姿に、何故に自分達が無能呼ばわりされなければならないのか理解出来ないアンドリーとボリスの二人は、ベンツGLAの傍らに立ち尽くしたままきょとんと呆けるばかりだ。

「イライダ様、何か私達が不手際を働いたのでしょうか?」

「俺もこいつも、何もしてないぜ?」

 アンドリーもボリスも自らの無謬性と正当性を主張するばかりで、本来ならば女主人であるイライダのボディガードとしての職責を果たさなければならなかったにも拘らず、それに見合うだけの実力も矜持も持ち合わせてはいない。

「とは言え、未熟なあなた達を幾ら責め苛んだところで、どうにも空しいだけね。わたくしがあなた達二人を従僕ヴァレットとして迎えてから、未だ十年と経過していないんですもの。だからアンドリー、ボリス、あなた達の今回の不始末は不問に付してあげるから、今夜のところは屋敷に帰りましょ」

 イライダはそう言うと、アレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの正門前に停められたベンツGLAの車体に歩み寄った。するとボディガードと同時にドアマンとしての職責も担っているアンドリーが後部座席のドアを素早く開け放ち、うやうやしく頭を下げながら、女主人の乗車をエスコートする。

「ご苦労」

 そう言ってイライダが労えば、労われたアンドリーは無言のままドアを閉め、ぐるりと迂回してベンツGLAの助手席へと移動した。そしてアンドリーが助手席に、ボリスが運転席に腰を下ろしてシートベルトを締めると、エンジンを始動させたベンツGLAはタイヤを軋ませながらゆっくりと発進する。

「いつ死んでもおかしくない重病人ねえ……」

 街灯に照らし出されたE95号線を南下するベンツGLAの車内で、スズメフクロウのプーフを肩に乗せたまま後部座席の中央にどっかと腰を下ろしたイライダは、病室で耳にしたオレクサンドルの言葉を思い出しながら物憂げに呟いた。

「ねえプーフ、どうしてあのお爺ちゃんは、もうすぐ死んでしまうって言うのに笑っていられるのかしら?」

 イライダは羽毛に包まれたプーフの頭を指先で撫でてやりながら問い掛けるが、たとえ使い魔であろうとフクロウはフクロウに過ぎないので、問い掛けられたプーフからの返事は無い。そして死とは何か、死に瀕した人は何を思うのだろうかと言った点に興味を抱きつつ、イライダはそっと眼を瞑る。

「ねえネクラーサ、あなたったら下等で矮小な人間ごときの分際で、よくもこのわたくしに向かって「神の子たる人間様に干渉するんじゃねえぞ」だなんて警告してくれたじゃない?」

 眼を瞑ったイライダは、瞼の裏に修道服に身を包んだネクラーサの姿を思い浮かべつつ独り言ちた。そしてもう一度、ネクラーサが姿を消した際に発した台詞セリフを、改めて口にする。

「誰が、あなたの言う事なんて聞いてやるものですか」

 そう言ったイライダは、瞼の裏のネクラーサを嘲笑するかのようにほくそ笑んだ。そしてそんな彼女を乗せたベンツGLAは三日前と全く同じルートを辿りながら、宵闇に包まれたキエフの街を走り続ける。

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