第一幕


 第一幕



 かつてはソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国の一つであったが、連邦の崩壊を経て、現在は独立した東欧の一国家となった共和制国家ウクライナ。そのウクライナの首都であり、また同時に国内最大の都市でもあるキエフに、今宵もまた夜のとばりが下りていた。

 キエフの街の中心部とも言える独立広場には多くの観光客や地元民が集まり、宵闇に包まれた首都の景色を眺めるともなしに眺めながら、思い思いの手段でもって初秋の東欧の空気を満喫する。そして独立広場から道なりに一㎞ほど北西に位置する五つ星の高級ホテルインターコンチネンタルキエフに眼を向けてみれば、ホテル内に店舗を構えるレストラン『コム・イル・フォー』の店内の一角で、テーブル席に腰を下ろした一人の少女が空になったコーヒーカップを受け皿の上にそっと置いた。

「ふう」

 フルコースの最後を締め括るコーヒーを飲み干した少女は一息吐くと、上等な生地で出来た布ナプキンでもって口元を拭う。

「最近はこの店も、少し味が落ちたんじゃないかしら?」

 ナプキンで口元を拭いながらそう呟いた少女の姿は、容姿端麗かつ眉目秀麗であると同時に、真っ白であるとしか形容する言葉を持たない。傷一つ無い艶やかな肌も、二つ結いにした長い頭髪も透き通るように白く、まるで彼女の全身が煌々と光を放っているのではないかと見紛う程であった。しかもそんな白さの中で両の瞳の光彩だけが赤褐色に輝いているのだから、一見すると先天性色素欠乏症、つまり『アルビノ』と呼ばれる人種ではないかと思われても不思議ではない。

「そうでしょうか、イライダ様。残念ながら、私には判別いたしかねます」

 テーブルを挟んで少女の向かいの席に腰を下ろした髪の長い若い男が居住まいを正しながらそう言うと、こちらもまた布ナプキンでもって口元を拭う。

「俺も、味の違いなんてよく分かんねえや。でもこの飯も充分に美味いし、文句を言う事も無いんじゃねえのか?」

 髪の長い若い男の隣、つまりイライダと呼ばれた二つ結いの髪の少女の斜向かいの席に腰を下ろした髪の短い若い男がそう言うと、こちらは布ナプキンではなく手の甲でもって乱雑に口元を拭った。

「まったく、アンドリーもボリスもひどい味音痴ね。このわたくしに仕える身なのですから、二人とも、もっと舌を鍛えなさい」

 呆れ顔でそう言ったイライダは優雅かつ優美な仕草でもって手を挙げ、多くの客で賑わうレストランの店内を忙しなく行き交う給仕の一人を無言で呼び止めると、その給仕に告げる。

「そろそろ、お会計をお願いしようかしら。支払いはカードでよろしくて?」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 教育が行き届いた給仕はうやうやしく頭を下げながらそう言ったかと思えば、ぴんと背筋を伸ばしたまま踵を返し、店の奥のスタッフルームへと一旦姿を消した。そして暫しの間を置いてから再び姿を現すと、飲食に掛かった諸々の経費が記載された請求書をイライダに手渡す。

「それではアンドリー、いつも通り、あなたはお会計を済ませて来てちょうだい。それとボリス、あなたはフロントで鍵を受け取ってから、車を店の前まで移動させておいてくれるかしら」

「ああ、分かった」

「かしこまりました、イライダ様」

 アンドリーと呼ばれた髪の短い男と、ボリスと呼ばれた髪の長い男はそれぞれの口調でもってイライダの指示を了承し、テーブル席から腰を上げた。そしてそれぞれの持ち場へと移動する二人の男達は仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包み、彼らの女主人であるイライダもまた緻密で繊細な細工が施された黒いドレスを身に纏っている事から、三人が裕福な身の上である事は想像に難くない。

「さあ、行きましょ」

 そう言ったイライダは高級家具然とした椅子から腰を上げ、俗に『ブラックカード』と呼ばれる最高グレードのクレジットカードでもって会計を終えたアンドリーを背後に従えながら、レストラン『コム・イル・フォー』を後にした。そしてうやうやしく頭を下げるボーイやポーターと言ったホテルの従業員達に見送られつつ、インターコンチネンタルキエフのエントランスへと足を踏み入れると、ドアマンが開けた扉を潜って戸外の空気にその身を晒す。

「イライダ様、どうぞお乗りください」

 アンドリーはそう言いながら、ホテルの前を走るロータリーに停められていたメルセデス・ベンツ社製の大型高級車、クラスGLAの後部座席のドアを開けた。精巧に作られたドアは如何にも重そうに見えながらも、ドイツの職人の見事な腕前を反映してか、その重さを感じさせないほどスムーズに開閉する。するとイライダはさも当然とでも言いたげな表情をその顔に浮かべつつ、アンドリーに礼を述べる事も無いまま、上等な革張りの後部座席に厳かに乗り込んだ。そして優美な曲線でもって構成された車体を威圧的に黒光りさせたベンツGLAの運転席には長髪のボリスが、助手席には短髪のアンドリーが腰を下ろすと、三人を乗せた高級車は宵闇に包まれたキエフの街に躍り出る。

「それでイライダ様、これから如何なさいますか?」

「そうね、予定していた用事も済ませた事だし、今夜はもう休みたいから、まっすぐ屋敷に向かってちょうだい」

 運転席のボリスの問いに、後部座席の中央に足を組みながらどっかと腰を下ろしたイライダが、ややもすれば勿体ぶったような口調でもって返答した。するとボリスは「かしこまりました」と言ってからハンドルを切り、ホテルの前を走るヴェリカ・ジトームルスカ通りを、東の方角に向かって疾走し始める。

「ふう、ちょっと食べ過ぎたかしら?」

 疾走するベンツGLAの車内で、フルコースの料理を残さず平らげた事によってぱんぱんに膨らんだ腹部を撫でさすりながら、イライダが呟いた。そして車窓から垣間見えるキエフの街の夜景に眼を向ける彼女の脳裏に、かつて体験した双子の姉との対立と確執、敬愛する母との意見の相違や死別と言った過去の由無し事が、まるで走馬灯の様に甦っては消えて行く。

「早いものね、あれからもう十年が経とうとしているだなんて」

 死別した母の鎮魂の意味を込めてウクライナに移住して来てからの日々に思いを馳せながら、車中のイライダは感慨深げに独り言ちた。やけに大人びていて少女らしくないと言うか、まるでこの世の酸いも甘いも噛み締めたかのようなその口調は、彼女の見掛け上の年齢と実年齢との乖離を如実に物語って止まない。そしてそっと眼を瞑った彼女の瞼の裏に、優しかった母の朗らかで屈託の無い笑顔が浮かび上がるものの、その姿はこの十年ですっかり色褪せてしまっていた。

「?」

 すると不意に、二つ結いにした頭髪を何者かによってついばまれたので、眼を開けたイライダはその正体を見極めようと視線を巡らせる。

「あらプーフ、あなただったの」

 果たしてイライダの髪をついばんだ何者かの正体は、いつの間にか彼女の肩に留まっていた一羽の小鳥、つまりスズメフクロウのプーフであった。スズメフクロウはヨーロッパ大陸に生息する種類としては最小のフクロウ目であり、その体重は成鳥であっても、僅か100gにも満たない。

「駄目よプーフ、飼い主の髪をついばんだりなんかしちゃ。ほら、駄目だってば」

 イライダはそう言いながら、肩に留まったプーフの羽毛に覆われた頭を指先でもって優しく撫でる。撫でられたプーフは気持ち良さそうに眼を閉じながらも、イライダの食事中はずっと車の中に取り残されていた事を抗議するかのように、彼女の真っ白な髪を小さなくちばしでもってついばみ続けた。

「まったくもう、プーフは悪い子ね。誰に似たのかしら」

 女主人の頭髪を悪戯についばみ続けるプーフを叱責しながら、再び車窓に眼を向けたイライダは、ある事に気付く。

「あら?」

 独立広場から続くフレシチャーティク通りを南下中に信号待ちのために停車したベンツGLAの車窓から垣間見えたのは、何の変哲も無い、どこにでも在るようなバスの停留所であった。そしてその停留所の片隅で、禿げ頭の痩せた老人が一人、所在無げにぼうっと頭上を見上げながら立ち尽くしている。しかもその老人は冷たい秋風が吹く夜空の下、薄手のパジャマ一枚と言う場違いな恰好の上に靴も履かずに裸足のまま立ち尽くしていたのだから、イライダの好奇心が刺激されたとしても不思議ではない。

「ボリス、車を路肩に寄せてちょうだい」

「は?」

「車を、路肩に寄せてちょうだい!」

「は、はい!」

 イライダから二度にも渡って命令されたボリスは強引にハンドルを切り、クラクションを鳴らして周囲の車輛を押し退けながらベンツGLAを路肩に寄せ、ブレーキを踏んで停車させた。そして停車したベンツGLAの後部座席のドアを開けたイライダはアスファルトで舗装された路面へと降り立つと、肩の上にスズメフクロウのプーフを乗せたまま、停留所で立ち尽くす禿げ頭の老人の元へと歩み寄る。

「そこのあなた、ちょっといいかしら?」

 歩み寄ったイライダは老人に呼び掛けるが、呼び掛けられた老人はぼうっと頭上を見上げたまま微動だにせず、こちらに気付いた様子は無い。

「そこのあなた!」

 声を荒らげながら改めて呼び掛けると、ようやく老人はハッと我に返り、こちらを向いた。

「僕に何か用かな、お嬢ちゃん?」

 そう言った老人はやはり薄手のパジャマ一枚しか身に付けておらず、足は裸足で、みすぼらしいほどに痩せ細っている。

「あなた、こんな所で何をしているのかしら?」

「ああ、僕はね、バスが来るのを待っているんだ。バスに乗って、自宅に帰るんだよ」

 イライダの問い掛けに、老人は返答した。

「自宅? あなたの自宅は、この近くなのかしら?」

「いや、ちょっと遠いね。僕の自宅は、プリピャチって言う町に在るんだ。ここからだと、何度かバスを乗り換えなきゃ帰れないだろうね」

 そう言った老人の言葉に、イライダは違和感を覚える。プリピャチと言えば、ここキエフから北に60㎞ばかりも離れたベラルーシとの国境沿いに存在する、小さな町だ。とてもじゃないが、こんな時間からバスで移動出来る距離ではない。しかもプリピャチは既に封鎖された町であり、たとえこれがバスでなくタクシーであったとしても、そこに在る自宅とやらに帰る事は不可能であろう。

「あなた、ふざけているの?」

「ん? いや、ふざけてなんかいないよ。僕はこれからバスに乗って、プリピャチの自宅に帰るんだ」

 至って真剣な口調でもってそう言った老人の姿に、イライダは深い溜息を吐いた。どうやらこの老人は、既に頭がボケてしまっているらしい。

「ねえあなた、忠告しておきますけど、バスだけではここからプリピャチには帰れなくってよ?」

「おや、そうなのかい? 見たところお嬢ちゃんは未だ十二歳ぐらいだろうに、物知りだね」

 その時、冷たい秋風に肩を震わせながらそう言った老人の胸に、一枚の名札が安全ピンでもって縫い留められている事にイライダは気付いた。

「ちょっと、それを見せてちょうだい」

 イライダはそう言いながら、半ば強引に毟り取るようにして老人の胸から名札を奪い取ると、それを確認する。するとそこにはオレクサンドル・カルバノフと言う老人の名前と並んで、キエフ市内の病院の名称と住所、それに電話番号メールアドレスとが記載されていた。

「やっぱりあなた、病院を抜け出して来たのね」

 溜息交じりにそう言ったイライダとは対照的に、オレクサンドル・カルバノフと言う名の老人は、だらしなく口を開けたままぽかんと呆けている。どうやら半分ボケてしまっている彼は自分が病院から脱走したと言う自覚が無いらしく、おそらくは、ここがプリピャチから遠く離れたキエフ市内である事も理解出来ていないに違いない。

「イライダ様、どうされました? こちらのご老体は、お知り合いですか?」

 遅れて姿を現したボリスがイライダに歩み寄り、パジャマ姿の禿げ頭の老人、つまりオレクサンドルの素性を尋ねた。

「いいえ、初対面よ。どうやらこのお爺さん、病院から抜け出して来て、迷子になっているらしいの。だからボリス、これからわたくし達が、彼を病院に送り届けてあげようじゃないかしら」

「しかしイライダ様、そんなどこの誰とも知れない下賤の輩に、あなた様が手を焼く事も無いのでは……」

 抗言するボリスを、イライダがキッと睨み付ける。

「あらボリス、わたくしの言う事に不満があって? あなた、いつからそんなに御大層な身分になったのかしら?」

「……申し訳ありません、イライダ様。私の口が過ぎました」

 ボリスはそう言って謝罪し、深々と頭を下げた。

「分かればいいのよ、ボリス。それじゃあオレクサンドル、あなたを病院まで送り届けてあげるから、わたくしの車に乗りなさい。さあ、早く」

 イライダはそう言いながらオレクサンドルの手を取ると、路肩に停められていたベンツGLAに乗車するように促す。

「なんと、これはまた随分と立派な車じゃないか。こんな車に乗っているだなんて、お嬢ちゃんはお金持ちの家の子なのかい?」

 ベンツGLAの後部座席にイライダと並んで腰を下ろしたオレクサンドルが、感嘆しながら尋ねた。

「いいえ、お金持ちの家の子なのではなくて、わたくし自身が神に選ばれた特別な存在ですの。その辺りを、勘違いしないでいただけるかしら?」

「?」

 イライダの言葉の真意がオレクサンドルには汲み取れず、彼はボケ老人らしくだらしなく口を開けたまま、ぽかんと呆ける。

「それじゃあボリス、ここに向かってちょうだい」

 ぽかんと呆けたままのオレクサンドルを他所に、そう言ったイライダは、運転席のボリスに奪い取った名札を手渡した。そしてその名札に記載された病院の名称と住所を確認すると、ボリスはハンドルを切りながらアクセルペダルを踏み込み、ベンツGLAを発進させる。

「それで、こちらのお爺ちゃんが入院していた病院は遠いのかしら?」

 ベンツGLAの後部座席から、ハンドルを握るボリスに向かってイライダが尋ねた。

「いえ、この住所でしたら、ここから五分ばかりで到着します」

「だったら急いでちょうだい、ボリス」

「かしこまりました」

 イライダの要請を了承したボリスは、ベンツGLAをフレシチャーティク通りからバセイナ通りへと進入させた。そしてものの1㎞と走らない内に目的地である総合病院の正門前へと辿り着き、その正門前に掲げられた看板には、鮮やかな赤地に白文字でもって『アレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタル』とウクライナ語で書かれている。

「さあ、どうやら着いたみたいね」

 正門から病院の敷地内へと進入したベンツGLAが木立に囲まれた遊歩道を通過し、やがて臨床病院クリニカルホスピタルの建屋前へと辿り着いて停車すると、後部座席に腰を下ろしたイライダが呟いた。すると助手席に腰を下ろしていたアンドリーが素早く降車したかと思えば、後部座席のドアを素早く開けて、うやうやしく頭を下げながらイライダの降車を待つ。

「ご苦労」

 忠実なる従僕ヴァレットの一人であるアンドリーの行為を労いながら、イライダがアスファルトで舗装された路面へと軽快な足取りでもって降り立った。そして彼女に続いてパジャマ姿の老人、つまりオレクサンドルもまた、靴を履いていない裸足のまま路面に降り立つ。

「さあ、お爺ちゃん。今のあなたが帰るべき場所はここでしょう?」

 緻密で繊細な細工が施された黒いドレス姿のイライダが、闇夜に浮かび上がるアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの地上五階建ての建屋を指差しがら、オレクサンドルに向かってそう言った。

「ここが僕の帰るべき場所……そうだったかな?」

 未だ少しボケているらしいオレクサンドルはそう言いながら、僅かな産毛を残して禿げ上がった頭をぼりぼりと掻き毟る。すると臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の正門が開き、白衣姿の看護師が姿を現すと、ベンツGLAの傍らで呆けているオレクサンドルの姿に気付いた。

「カルバノフさん! 一体今までどこに行ってたんですか? 突然居なくなるから、あなたの事を病院中の皆で探してたんですよ?」

 心配そうに、そしてややもすれば怒っているような呆れたような口調でもってそう言った看護師は臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の前の階段を駆け下りると、オレクサンドルの元へと駆け寄って彼の肩を抱く。

「さあ、早く病室に戻りましょう!」

 オレクサンドルの肩を抱いた看護士が彼を臨床病院クリニカルホスピタルの建屋内へと連れて行こうとした時、パジャマ姿のオレクサンドルはふと振り向いて、傍らに立つイライダと向き直った。そして彼は手を伸ばし、イライダの肩に留まっていたスズメフクロウのプーフの羽毛に覆われた頭をそっと撫でる。

「これはまた、随分と小さくて可愛い鳥さんだね。お嬢ちゃんの鳥さんかい? 名前は何て言うのかな?」

「この子は、プーフ。わたくしの使い魔の内の一羽よ」

「そうか、この子は羽毛プーフちゃんって言うのかい。残念ながら僕にはその『使い魔』って言うのがどう言う意味なのかはよく分からないが、責任もって可愛がってあげるんだよ? それじゃあお嬢ちゃん、これでさよならだ。ここまで送ってくれて、本当にありがとう。感謝しているよ」

 最後にそう言い残したオレクサンドルは白衣姿の看護師に連れられながら階段を上ると、そのまま玄関扉を潜り、アレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの建屋の中へと姿を消した。後には只、車体を黒光りさせたベンツGLAの傍らに立つイライダだけがぽつんと取り残される。

「……さあ、それじゃあ屋敷に帰ろうかしら」

 そう言ったイライダが改めてベンツGLAに乗り込もうとした、その時であった。臨床病院クリニカルホスピタルを取り囲む木立の陰から小さな人影がこちらに接近して来るなり、イライダに語り掛ける。

「やあ、イライダ。いい夜だね」

 そう言いながら姿を現したのは、イライダよりも更に小柄で幼い、一人の幼女であった。しかもその幼女はふわふわと宙に浮く不思議なうすに乗り、頭には花に覆われた牛の頭蓋骨を被っている。

「あら、誰かと思えばヤガーじゃないの。こんな時間にこんな場所であなたに会うだなんて、わたくしに何か用かしら?」

 見知った顔なのか、イライダは特に驚く事も無く幼女に尋ねた。するとヤガーと呼ばれた幼女は空飛ぶうすに乗ったままこちらに接近して来ると、改めてイライダに語り掛ける。

「なんだか盗み見しているみたいでちょっとばかり気が引けたけど、一部始終を拝見させてもらったよ。イライダ、キミが人助け、それも見知らぬ老人を助けるだなんて珍しい事もあるもんじゃないか。これはもしかしたら、明日は季節外れの雪でも降るかもしれないね」

「ヤガー、答えになってなくってよ。わたくしは、あなたが一体何の用で姿を現したのかを尋ねているんですからね?」

 イライダが少しばかり不機嫌そうに尋ね直すと、ヤガーはくすくすと意味深にほくそ笑んだ。

「あたしはね、忠告しに来てあげたんだ。今日のこの出会いがきっかけとなって、キミはこれから、少しばかり面倒な事件に巻き込まれる事になるよ。だけどそれは、決して悪い出会いじゃない。だから安心して、キミはキミの思うがままに行動すればいいんじゃないかな?」

「ふうん、ねえヤガー、どうしてあなたはわざわざそんな事を忠告しに来てくれるのかしら?」

「そうだね、どうしてかと問われると答えに窮するけど、強いて言うならカチューシャへの義理立てと言ったところかな。なにせキミの母親のカチューシャとは勝手知ったる旧知の仲だったから、その娘であるキミを気に掛けたとしても、不思議でもなんでもないだろう?」

「エカテリーナお母様への義理立てねえ……それでヤガー、その面倒な事件とやらは一体どんな事件なのか、ここで教えてくださらなくて? 未来を見通す眼を持つ魔女のあなたなら、その結末までも知り得ているんでしょう?」

 そう言ったイライダの問い掛けに対して、頭に牛の頭蓋骨を被ったヤガーはくすくすとほくそ笑みながら答える。

「悪いけど、それを今ここで言う訳には行かないな。いくらあたしが未来を見通す眼を持つ魔女だとは言っても、来たるべき未来は不確定要素の塊だし、それをまるで確定事項の様にべらべらと喋る事は倫理に反するからね。だからイライダ、あたしに出来る事は、こうして曖昧な言葉でもって忠告するだけなんだ。キミはこれから、面倒な事件に巻き込まれる。でもそれは、未だ未だ未熟で幼稚な魔女でしかないキミにとって、きっと良い経験になると思うよ」

「それはまた、随分と勝手な言い草ね」

 イライダが溜息交じりにそう言うと、彼女の背後に控えていたアンドリーが一歩前に出るなり舌打ちを漏らした。

「おいヤガー、お前、イライダ様を未熟で幼稚呼ばわりするとはいい度胸だな! それだけ大きな口を叩くんだから、それなりの覚悟が出来ているんだろう?」

「そうだとも、アンドリーの言う通りだ! 我らが敬愛するイライダ様に対して無礼な口を利く輩は、たとえそれが伝説の魔女たる貴様であっても、決して許される行為ではないのだぞ!」

 ベンツGLAの運転席から降車したボリスも加わって、二人の従僕ヴァレット達は空飛ぶうすに乗ったヤガーに詰め寄る。

「おお、怖い怖い。若い男の子達からそんな怖い眼で睨まれちゃ、今日のところは退散するしかないね」

 ヤガーが芝居掛かった仕草と口調でもってそう言うと、彼女を乗せたうすが高度を上げ、天高く上昇し始めた。そしてあっと言う間に、アンドリーとボリスの二人の手が届かない高さにまで達する。

「それじゃあイライダ、機会があったらまた会おうじゃないか。でも今日のところは、これでお別れだね」

 最後にそう言い残すと、ヤガーは空飛ぶうすに乗ったまま、臨床病院クリニカルホスピタルを囲む木立の闇の中へと姿を消した。彼女が姿を消した後には、イライダとアンドリーとボリス、それに彼女らを乗せて来たベンツGLAの三人と一輛だけが残される。

「まったく、ヤガーったら本当にお節介な老人ね。年を取ると、承認欲求を自制する事が出来なくなるのかしら」

 呆れ顔のイライダはそう言うと、ヤガーが姿を消した秋の夜空を見上げながら、再び深い溜息を吐いた。そして気を取り直すと踵を返し、肩の上にスズメフクロウのプーフを乗せたまま、ドアが開け放たれたままのベンツGLAの後部座席に腰を下ろす。するとドアを閉めたアンドリーとボリスの二人もまた運転席と助手席に乗り込んで腰を落ち着け、ベンツGLAはアレクサンダー臨床病院クリニカルホスピタルの敷地内からゆっくりと退出した。そして来た道を引き返すようにしてバセイナ通りを北上したかと思えば、人気の無いベサラブスキー市場の前を通過したところでもってヴェリカ・ヴァシルキヴスカ通りに合流し、日中の太陽光線から身を隠すための屋敷を目指してキエフの街を南下し続ける。街の中心部から遠ざかるに従って、大都市での夜遊びを楽しむ人々の喧騒もまた、風に吹き消されるようにしてその姿を失いつつあった。

「あら?」

 やがてオデッサの街へと続くE95号線に合流し、国立ゴロセフスキー自然公園の鬱蒼と茂る木立を視界に捉える頃になってから、ベンツGLAの車内のイライダはある事に気付いて身を屈める。

「何かしら、これ」

 身を屈めながらそう呟いた彼女の視線の先の、分厚い絨毯が敷かれたベンツGLAの床に、車内灯の光を反射してきらきらと輝く何かが落ちていた。そしてその何かをひょいと指先でもって拾い上げてみれば、それは白金プラチナ製の小さな結婚指輪であり、指に嵌めると隠れてしまう輪の内側に『オレクサンドル』と『エカテリーナ』の二人の名前が彫られている。

「オレクサンドル……それに、エカテリーナ?」

 拾い上げた結婚指輪をめつすがめつ観察しながら、イライダが少しばかり驚いたような口調でもって呟いた。指輪に彫られた二つの名前の内の一つ、つまりエカテリーナと言えば、彼女の亡き母と全く同じ名前である。

「オレクサンドルと言う事は、この指輪、あのお爺ちゃんが落としたのかしら?」

 そう独り言ちたイライダを後部座席に乗せたまま、ベンツGLAは宵闇に包まれたキエフの街を走り続ける。

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