イライダの悪戯

大竹久和

プロローグ


プロローグ



 雲一つ無い晴れ渡る青空に、穏やかで爽やかで、それでいて少しだけ冷たい初冬の北風が吹いていた。そして開け放たれた窓から吹き込んで来るその北風に頬を撫でられながら、病院の簡素なベッドの上で半身を起こした老人は窓外の景色に眼を遣りつつ、ラジオが奏でるロシア民謡に耳を傾ける。


 林檎と梨の花が咲き乱れ♪

 川面に霧が漂っていた♪

 カチューシャは岸辺に立つ♪

 岸辺の高い崖の上に♪

 カチューシャは岸辺に立つ♪

 岸辺の高い崖の上に♪

 そこで彼女が歌うのは♪

 草原と青灰色の鷲の歌♪

 愛する人の♪

 大切に仕舞っている便りの人の歌♪

 愛する人の♪

 大切に仕舞っている便りの人の歌♪

 どうか乙女の小さな歌よ♪

 飛んで行け陽の光の向こうへと♪

 遥か国境を守る兵士の元へと♪

 カチューシャからの便りを伝えておくれ♪

 純情なあの娘の事を思い出すように♪

 あの娘の歌が聞こえるように♪

 故郷の大地を守れるように♪

 カチューシャの愛がいつまでもあるように♪

 故郷の大地を守れるように♪

 カチューシャの愛がいつまでもあるように♪

 林檎と梨の花が咲き乱れ♪

 川面に霧が漂っていた♪

 カチューシャが岸辺から去って行く♪

 遠く口遊くちずさむ歌と共に♪

 カチューシャが岸辺から去って行く♪

 遠く口遊む歌と共に♪

 遠く口遊む歌と共に♪


 それは最も有名なロシア民謡の一つであり、古き良きソビエト連邦時代に多くの人民が口遊くちずさんだ流行歌でもある、前線の兵士を想う少女の胸の内を歌った民謡『カチューシャ』であった。そしてラジオが奏でるその歌に耳を傾けながら、そっと眼を瞑った老人は懐かしき日々に思いを馳せる。

「……カチューシャ……」

 そう呟いた老人がその身を横たえるベッドのサイドボードの上には、古ぼけたラジオと並んで、国家に貢献した模範的人民にだけ授与される赤旗勲章が飾られていた。そして彼の左手の薬指に嵌められた白金プラチナ製の指輪が二つ、穏やかな初冬の陽光をきらきらと反射する。

「……カチューシャ……もうすぐ僕もそっちに行くからね……」

 再びそう呟いた老人の言葉に、爽やかに晴れ渡る冬空は何も答えてはくれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る