【二十三】後日談1

 事件から数日後。

 多古島と鮎葉は都内の喫茶店に赴いていた。


「この度は、色々と迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」

 舞花はそう言って、テーブルの向かい側で深々と頭を下げた。

「頭を上げてください、舞花さん。僕たちは別に迷惑をかけられたなんて思ってません」

「ありがとうございます、お兄さん。でも、改めてお礼も言わせてください。姉さんの命を救ってくださって、本当にありがとうございました」


 舞花は再び頭を下げた。

 あの時、鮎葉は多古島から指示を受けていた。


『私が合図したら、椎菜さんに飛びついてください』


 指示に従った結果、すんでのところで椎菜の自殺を阻止することが出来たのだった。あの時は半信半疑ではあったものの、迷わず多古島の言う通りにして良かったと、心から思う。


「お前、なんで椎菜さんがああいう行動に出るって分かってたんだ?」


 多古島はオレンジジュースをじゅっと吸ってから答えた。


「追い詰められた犯人は、何をするか分かりませんからね。保険をかけたんですよ。舞花さんの嘘の証言に対する反応を見て、全ての責任を背負って死ぬ可能性は高いと睨んではいましたが」


 言われてみれば、椎菜の行動にはそれが表れていたように思う。

 あの時彼女が霊山を誘拐したのは、妹の舞花を、犯罪に巻き込みたくなかったからなのだろう。


「それに彼女は、嘘がつけませんから。もう一人の犯人の情報を漏らすまいと、自死を選ぼうとしたのでしょうね」

「……でも、あの時点では自死するとは限らなかったじゃないか。嘘がつけないなら、沈黙するって手だってあったはずだろ?」

「その時はその時です。その場合、ただ単に年下のメイドちゃんに飛びつく変態が一名できあがっていただけの話です」

「この野郎……他人事だと思って……」


 鮎葉たちのやり取りを聞いて、ぶふっと舞花が吹き出した。ぞんざいに扱われたのは納得いかないが、舞花の相貌が崩れたので、良しとすることにした。

 多古島は飄々とした顔で続ける。


「とにかくです。順を追って犯人を特定しようとした場合、椎菜さんがいつ、どのような行動を取るか分かりませんでした。確実に止めるためにも、こちらでタイミングをコントロールしたかったんですよ」


 森野さんを殺しましたか?

 あの質問が、椎菜の自死のトリガーとなると、多古島は踏んでいたということか。

 嘘をつけない彼女は、「いいえ」と答えるしかなく、もう一人の犯人の存在を明かすことになってしまうから。

 しかし――


「ならどうして椎菜さんは、最後に嘘をつけるようになったんだ?」

「それは多分、芽々さんのお陰だと思います」


 舞花が言った。


「あの、ボイスレコーダーですか」

「はい」


 そして舞花は語った。

 椎菜は、死んだ両親に死の間際にかけられた言葉を愚直に信じていたということ。

 その呪縛を解くために、森野も舞花も、長年苦心していたということ。

 そしてある日、森野は舞花に伝えたそうだ。


「もし自分が誰かに殺されたら、遺書の通りに行動して欲しい。それが姉さんのためになるからって」

「なるほど。舞花さんは、あの遺書の内容を最初から知ってたんですね」


 舞花は頷いた。


「ええ、芽々さんが誰かに殺されたいという願望を抱いていることも、それを姉さんに話したことも知っていました。その時から薄々勘付いてはいたんです。もし芽々さんが殺されるようなことがあれば、きっと姉さんが関わっているだろうって」

「だから、椎菜さんのために嘘の証言をしたんですね」

「芽々さんを最後に見た人なんて、絶対に怪しまれるじゃないですか。多古島さんは頭が切れそうでしたし、質問攻めにされたら、姉さんはすぐにぼろを出してしまいます。だから私が盾になって、少しでも時間を稼ごうと思ったんです。せめて……芽々さんのボイスレコーダーを聞くまでは」

「しかし綿密に計画が進めていた椎菜さんとは違い、舞花さんの嘘は即興。簡単にほころびが生まれ、結果、霊山さんの証言でバレてしまった。舞花さんを巻き込みたくなかった椎菜さんは、霊山さんを誘拐して監禁。書置きを残したというわけですね」

「おい、もう少し言い方ってもんがあるだろ」

「いいんです、お兄さん。本当のことですから」


 舞花が笑って言ったので、鮎葉は口をつぐんだ。

 多古島は素知らぬ顔でオレンジジュースをかき混ぜていた。溶けかけの氷がガラスの壁面に当たり、からからと弱々しい音を立てた。


「それにしても、森野さんも酷なことをしますよね。我が子のように育ててきた子供たちを置いて、自分は自分のエゴを貫いて死んじゃうなんて」



 あの後、全ての容疑を認めた椎菜は、とつとつと真相を語った。

 唐突な死を求め、誰かに殺されたいという願いを抱いていた森野のために彼女を殺したこと。

 森野の遺書に則り、集まった全員が出来る限り長く彼女の死について考えるよう、遺体を窓のそばに移動させたり、遺体の手の中に「私は後悔している」と書いた紙を握らせたこと。


『ま、待ってくれ。あの字は確かに芽々君の筆跡だった。あれはどう説明するんだ?』


 話の途中で、万知が問いかけた。

 思えば犯人を捜すきっかけになったのは、あのダイイングメッセージとも呼べる一文だった。椎菜は答えた。


『あれは私が書きました』

『いやしかし、遺書の文字は確かに――』

『遺書の文字も私が書きました。あらゆる書面は私が代筆していたんです。芽々さんは文字が書けませんでしたから』


 文字を読むことができない、あるいは書くことができない体質。一般的には、ディスグラフィアと呼ばれている識字障害だ。森野の場合は、文字を書くことが困難で、サインすら覚束ない状態だったと、椎菜は語った。


『僕は、そんなこと知らなかったよ……』

『この件に関しては、私を含め、ごく一部の人しか知らされていませんでした。パソコンで文字を打ち込むことはできましたし、読むことも問題なくできました。万知さんが気づかなかったのも、無理からぬことだと思います』


 あっけにとられたように漏らした万知に、椎菜は言った。

 鮎葉は多古島がサインをお願いした時のことを思い出していた。あの時は、森野がその場でサインを書かなかったことに、全く違和感を抱かなかったけれど……彼女は書かなかったのではなく、書けなかったということなのだろう。

 砂金が顎に手を当てて、思い返すように言う。


『ふむ。確か、遺書は直筆しか効力を持たず、病気などで文字を書くことが困難な場合は、正式な代筆屋を雇う必要があったはずだが――。ああ、なるほど。そういうことか』

『はい。あの遺書にはこう書かれていたはずです。「こちらの遺言は、あくまで法的拘束力の無いものです。必ずしも従う必要はないですし、今これを読んでいる皆さんの判断に委ねたいと思っています」と。遺産相続などについての公式の遺書は、ちゃんと正規の手続きに則って他の場所に保管してあります』

『なるほど。筆跡のチェックを勧めたのは、確か君だったな。そこまで想定済みだったということか』

『ええ、ですので、皆さんが気にかけられていた、芽々さんが死ぬ直前と死後、何を考えていたのかについては……あのボイスメッセージが答えなのだと思います』


 一拍の間を置いて、椎菜は言った。


『唐突に訪れた死への驚きと、願い通りの死に方を迎えられたことに対する喜び。これが真実です』



 唐突に死を迎えることに対して喜びを感じる。

 しかもそれが、病や老衰ではなく、誰かに殺されることによって。

 理解はできる。

 だが共感はできなかった、著しく。

 彼女は自分で言っていたではないか。

 あらゆる代謝ができなくなることが、死ぬということなのだと。

 娘同然に育ててきた椎菜とも、舞花とも、もう話すことはできない。

 感情を共有することもできない。

 そのことに、少しでも悲しみを感じなかったのだろうか。

 これから先、もっと、ずっと、彼女たちの成長を見守りたいとは思わなかったのだろうか。

 人様の事情にとやかく言うつもりは毛頭ない。しかし、死について考え、考え続けた果てに行きついた答えがそれなのだとしたら……少しがっかりだ。

 けれど、


「あたしは、そうは思いません」


 舞花は言う。


「芽々さんは、ずっと私たちを育ててくれていました。とても優しくて、温かくて……お陰であたしたち姉妹は、路頭に迷うこともなく、こうして立派に成人することが出来ました。それについては、本当に感謝しています。だけど芽々さんは――ずっとあたしたちに、弱みを見せてはくれませんでした」

「弱み、ですか?」

「距離感、とでも言えばいいんでしょうか。あたしたちには弱いところを見せてはいけないって、そんな風に自分に言い聞かせているみたいでした。だから、思ってたんです。もしかしたらあたしたちを育ててくれているのは、罪滅ぼし……なのかなって」


 舞花は目をふせた。


「両親が死んだ日、私たちは芽々さんの家に遊びに行く予定でした。あたしだけ一

足先に向かっていて、父さんは早く合流するために、いつもより少しだけ車を早く飛ばして……。だから芽々さんは、責任を感じていたのかもしれません」


 そんなの、気にすることないのに。舞花はぽつぽつと言葉をつないでいく。

 長年誰にも話すことのできなかった悩みのしずくを、こぼすようだった。


「芽々さんが相談してくれた時、嬉しかったんです。初めて芽々さんが、あたしたちに心を開いてくれた気がして。だからかなあ……。あたしは芽々さんをひどいとは思いません。もちろん死んでしまったのは悲しいですけど……。お陰で姉さんも、ようやく前に進めたと思うので」

「これからが大変ですね」

「はい。でも大丈夫です。芽々さんの代わりに、今度はあたしが姉さんを支えてみせます」

「そうですか」


 端的に、多古島は返した。

 もしかしたら彼女は、最初から舞花の答えが分かっていたのかもしれない。

 柔らかく微笑んで舞花を見つめる表情からは、優しさだけじゃなくて、どこか寂しさみたいなものも読み取れて。鮎葉は少し胸が痛んだ。


「そういえば、森野さんの正式な遺書の内容が開示されたそうですね」

「はい。あたしと姉さん、そして、自分を殺した人で分けて欲しいって、書かれていたらしいです。芽々さんらしいですよね」

「それなら、森野さんが誰かに殺されることを望んでいたことが証明されたことになります。椎菜さんにも執行猶予が付くかもしれませんね。お金も少なからず入りそうですし」

「はい。後は、真犯人が見つかればいいんですけど……」


 椎菜は自分が犯人だと供述をしているらしい。

 犯人しか知りえないことを語っており、犯行に関わっていたのは間違いないだろうということで、起訴の準備は進んでいる。


 返り血を浴びた服は、細かく切り刻んで、ゴミとして出された後だった。既にその日集められたゴミは焼却されていたそうだが、一応の行方は掴めたことになる。

 しかし唯一、凶器となったナイフだけが見つかっていないらしい。椎菜は森の奥に捨てたと供述しているが、未だ発見には至っていないとのことだった。

 多古島たちの供述から、共犯者がいることは間違いないと警察も踏んでいるようだが、まだ特定できていないようだ。


「舞花さんは、真犯人を見つけたくはないんですか?」

「もちろん、できることなら、見つかって欲しいです。だけど――」


 舞花は静かにつなげた。


「あの日以来、姉さんが初めてついた嘘を大切にしてあげたいなって……。あはは、変ですよね、こんな感情」

「私はいいと思いますよ」


 水で薄まったオレンジジュースを吸い上げる音と共に、多古島は言う。


「きっとそのうち、警察が犯人を逮捕してくれますから。無理に椎菜さんから聞き出すことはないです。舞花さんのその気持ちは、尊重されるべきです」


 間抜けな音と、誠実な声のギャップが面白かったのだろうか。

 舞花はくすくすと笑って答えた。


「ありがとうございます、多古島さん」



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