【十】死の手紙

 白いソファの上に、赤がよく映えている。べったりと付いた血痕を見ていると、森野が切られた瞬間、頚部から勢いよく噴き出した鮮血が容易に想起されて、鮎葉はしばし息を整えた。人が死ぬ瞬間というのは、やはり慣れないものだ。例えそれが、頭の中で思い描いた想像上の映像だとしても。


 改めて、現場に目を向ける。本来現場検証は法医学者の領分ではないが、四の五の言っている暇はない。何度か似たような状況には遭遇しているので、手順は分かっていた。


 応接スペースの窓際と壁側、コの字に置かれた三つのソファ。血痕が残っているのは、入り口側に設えられたソファで、奇しくも数時間前、鮎葉と多古島が座ったものだった。

 ソファの上に残った血痕は放射上に広がり、余波が絨毯にまで及んでいる。そしてソファ周り程ではないが、天井にもしっかりと血の痕は残っている。

 これは、切られた後に森野の身体が傾き、頚部が天井を向いたことによるものだろう。現場の様子は、わずか数秒の間に、森野の身体を巡っていた血の大半が噴き出したことをありありと示していた。


 ワークデスクにまで伸びている、ぽつぽつとした血痕は、ソファ周りに比べれば控えめだ。

 鮎葉が森野の死を他殺だと断定した、もう一つの理由がこの血痕だった。

 通常、頸動脈が傷ついた場合、数秒で死に至る。森野が自力でデスクまで歩いて向かえるはずがない。つまり、誰かが森野の遺体を運んだということなのだ。わざわざ遺体の位置を変えた理由は判然としないが、とにかく彼女の死後、遺体を動かした誰かがいるというのは、疑いようがなかった。


 因みに他殺であると考えた原因はもう一つあって、創口が一本しかなく、創端は顎側が深く、耳元が浅くなっていたことだ。自分自身を傷つける場合、致命傷となった傷の他に、いわゆる躊躇い傷と呼ばれる、浅い傷がつくことがある。どれくらいの力で切ればいいか分からないため、あるいは自分を傷つける恐怖から、薄皮一枚程度しか切れない人は多い。

 また創端が顎から耳元にかけて段々と浅くなっているが、これは第三者がナイフを切り上げたためだと推測される。自分で頚部を切りつけた場合は、このような創口にはならない。


 さて、ここまでは最初に現場を見た時から、あるいは先ほど森野の死体を確認してから、おおよそ把握できていた事柄だ。

 ここから先は、多古島に頼まれていた部分を、より詳細にチェックしていく。

 まずはソファ周りの不審な点だ。


 白いソファの背側から見て左部分には、血の痕が途切れている部分があった。しかし、これは不自然というよりは、むしろ自然なことだろうと鮎葉は捉えていた。

 血痕はソファの背もたれから放射上に広がっている。

 恐らく森野はソファの右側に座り、左側に座った犯人に切り付けられたのだろう。噴き出した血は容赦なく犯人の身体にもかかったはずだ。つまり、犯人の身体が盾になって、ソファには血がかからなかったということになる。ソファの片側で血の痕が途切れているのは、これが原因だろう。

 犯人は森野の左に座って彼女を切りつけた、というのが犯行当時の様子なのだと推測できる。そして先ほどの頚部の創口を踏まえ、より正確を期して言うならば、犯人はナイフを切り上げたのだ。

 ポケットか、あるいはズボンの裾か、とにかく下部に隠していたナイフを取り出し、右側に座っている森野の頚部を顎から耳元にかけて切り上げる。首元が無防備に晒されていたのだろう。おそらく森野は、犯人に殺されることなど予想だにしていなかったのだ。

 そう考えると、やはり犯人は森野の顔見知り、つまり今日集まった「死を見る会」のメンバーを含む、八人の中にいると考えるべきだろう。

 その他不審な点は見当たらないように思えた。血の痕は確認した部分以外には付いていないし、途切れている理由もおおよそつかめた。


 次はワークデスクの上に刺さっているナイフについて。

 ナイフはワークデスクの角、応接スペースに近いところに刺さっていた。もし切った後にそのまま手を離したとすれば、ソファの後ろ側に落ちているのが自然だが、犯人はわざわざナイフをワークデスクまで持ってきている。森野の遺体を移動させる際に邪魔になったのか、あるいは他に理由があるのか……その時の犯人の気持ちが分からない以上、ナイフが刺さっている場所の情報から不審な点を絞るのは困難だ。

 刃渡りは約二十センチ。柄は恐らく黒色だ。料理などに使うものではなく、キャンプや登山で使うような、いわゆるアウトドアナイフというものだった。この場にそぐわないという一点を除けば、取り立てておかしなところはないように思えるが……。

 ナイフに詳しいわけではないが、設えもいたって普通のもののように思える。とはいえ、刃の部分から柄に至るまで、血で真っ赤に染まっていて、もとの色や柄については想像がつかない状態だが。


「……?」


 何かが引っ掛かった気がして、鮎葉は首を傾げた。しかしその違和感はあっという間に霧のように消えてしまって、正体を掴むことはできなかった。

 鮎葉はメモに「違和感あり」とだけ付け加えることにした。多古島ならきっと、苦も無く違和感の正体にたどりついてくれるはずだ。


「鮎葉さん」


 ふと自分の名前が呼ばれ、鮎葉は顔を上げた。


「何かお手伝いできることはありますか?」


 椎菜と舞花だった。

 周囲を見渡すと、絵上は相変わらずスケッチを、他の四人は死について語っているのか、あるいは多古島の質問を受けているのか、とにかく話し込んでいた。彼らの中に入りこむのは無粋と考え、一人現場検証を続ける鮎葉に声をかけにきてくれたようだった。


 目と鼻の周囲が赤く、先ほどまで泣きはらしていたことが見て取れた。舞花に至っては、メイクが少し崩れている。それでも、何か手伝えることはないかと名乗り出た彼女たちの芯の強さに、鮎葉は胸を打たれた。

 しかし、検死も現場検証も九割方終了していた。残す仕事はメモを整えて、多古島が見やすくすることくらいだろう。

 鮎葉は少し考え、切り出した。


「いえ、大体終わったので大丈夫です。ただ、少しお話を伺ってもいいですか?」

「芽々さんについて、ですか?」

「はい」


 後で多古島も何か聞くかもしれないが、自分が事情聴取をしても問題はないだろう。それに、この中で最も森野芽々という人物に近かった二人には、話を聞いてみたかった。


「あたしはいいですよ。もちろん」

「私も構いません」


 二人が頷いたので、鮎葉は質問を始めた。


「では、単刀直入に聞きますが……お二人は、今どんなお気持ちなんですか? 森野さんが殺されて、だけど警察には届けられなくて、一晩、犯人と同じ屋根の下で過ごすことになって……。正直、かなり混乱しているのではないかと思ってるんですが。もちろん言える範囲で構いません」

「私は」


 椎菜が口を開いた。


「芽々さんの言葉を、何よりも優先して考えていますので。今の状況に従うことこそが、芽々さんのためになると考えています」

「椎菜さん個人の感情は、二の次ということですか?」

「はい」


 静かに頷いた椎菜を見て、鮎葉はそれ以上追及するのをやめた。静かな口調だったが、確固たる意志を感じた気がした。


「なるほど……。舞花さんはどうですか?」

「あたしも姉さんと一緒です……とは、言い切れないですね。正直、芽々さんが亡くなってびっくりしてますし、犯人にはなんで殺したの? って聞きたいです。なんていうか、やりきれない想いはすごくあります。だけど……」


 舞花は静かに笑った。


「そういうのは全部、後で考えようと思って。どうせ明日になったら警察が来て、そのうち犯人も逮捕されて、いつの間にか動機も明らかになるんだと思います。だったら今は、芽々さんの遺言を大切にしたいなって、そう考えてます」

「舞花さん……」

「それに、いつも芽々さんに言われてましたから。死とどう向き合うか、ちゃんと考えておくんだよって。あたしは難しいことはあんまりよく分からないんですけど、死が悪いものじゃないっていう万知さんの考えは結構好きで、前からよくお話も聞いてたりして……。だから、まったくの無防備なまま、芽々さんの死に直面したわけではないんです」


 鮎葉は二人の回答を聞き終えて、やはりこの質問は無遠慮だったと感じた。彼女たちが森野の死について、何も感じないわけがない。

 怒りも悲しみも諦念も、きっと彼女たちの中では渦巻いていて、だけど今ここで取り乱せば、森野の遺言を遂行することが出来ないから、なんとか折り合いをつけて、この場に立っているのだろう。


「すみません。やっぱりこんなの、聞くべくじゃなかったですね」

「いえ。疑問に思われるのも当然のことだと思いますので。お気になさらないでください」

「そうですよ。お兄さんは優しすぎます。他にも何かあれば、いつでも聞いてくださいね」

「ありがとうございます。たぶん、多古島が追加で何か聞くかもしれないんですが――」


 と、彼女の方へ視線を向ける。ちょうど、万知や砂金、霊山と話をしているところだった。

 声が聞こえる。


「なるほど。じゃあ、砂金さんは森野さんの死を見て、どう思われてるんですか?」

「そうだな。誤解を恐れず、本音を言ってしまえばだが――」


 多古島の問いに、砂金が答えている。


「こんなものか、と感じた」

「ふむ。それはまた、大胆な意見だねえ」

「すまない、万知さん。私の今の感情を、適切に言語化できていないのは重々承知している。どう言えばいいかな。森野さんは死の本質は『唐突さ』にあると言っていた。そして現に、彼女は誰もが予期していない形で死んだわけだ。彼女の死生観が体現されたと言ってもいいだろう。だが、死の本質がこれなのだとすれば……私は少々がっかりだと感じたんだ」

「あ、あっけない……ということですか?」


 霊山の言葉に、砂金は頷いた。


「ああ。いい表現だね、霊山さん。あっけない。まさにその通りだよ。森野さんに敬意を表し、表現をお借りして例えるならば、いくつもの伏線が敷かれていた重厚な物語の結末が、拍子抜けするくらいにあっさりとしたものだった、とでも言えばいいのかな。もしかしたら私はそこに、寂寥感のようなものを抱いているのかもしれない。どうかな?」

「えっと……。私たちは、死んだあとの彼女の姿を見ているので、そういう感想を抱くのかもな、と思います……。い、砂金さんは寂寥感とおっしゃいましたが、人によっては、それが悲壮感だったり、怒りだったり、憎しみだったり、恐怖だったり、するのだと思います」


 多古島は、今度は霊山に問うた。


「確か霊山さんの研究しているオカルトっていうのは、そういう内面的な部分から派生したものだった、って話でしたよね?」

「はい……。だから私はとても納得できているというか、死を見て、人それぞれが抱いている感情こそが、オカルトの根源なんだろうな、と思います。そこに時代背景だったり、人の想像力だったりが加味されて、生まれるのではないかと……」

「ふーむ。だとすれば、オカルトというのは死に対して傍観的だという印象を、僕は受けるねえ。主観的、つまり、死に直面した人間からは、オカルティズムというのは生まれないのかい?」

「も、もちろん、ないわけではないです。ただ、死に直面した人間の話が伝聞されているということは、その人が生還したということを意味します……。語り手が生きている話というのは、オカルトとしての魅力が半減していると、多くの人は捉えるのではないかと……」

「なるほどねえ。死んでしまった人の話は、傍観者しか残せないのは道理だね。この場合だと『芽々さんが死ぬ直前に何を考えていたのか』、僕たちは分からないわけだから」


 鮎葉の隣で、舞花の肩がぴくりと動いた気がして「どうかしましたか?」と問いかけた。舞花は「なんでもないです」とわずかに微笑んだ。


「故人が死ぬ直前に考えていたこと、か。これは中々、興味深い話だね。私たち生きている人間が絶対に確認できず、かつ、死の本質を問いただす重要な要素な気がするのだが……ふむ、霊山さんの意見を聞こうか?」

「オカルト的な観点からですが……霊、怨霊という形で表されることがありますね。芥川龍之介の『藪の中』では、イタコが自分の身体に死人の霊を憑依させて、死の真相を語らせるシーンもあります。ただ……あれは小説ですし、そもそも怨霊と言う概念そのものが、生きている人の想像の産物なので、本質をついているかは微妙なところかと……」

「なるほど、的確な意見だな。多古島さんはどうだい?」

「んー。そもそも論になりますが、ほとんどの人は、死ぬ間際にメッセージを残すことができません。だって森野さんの言う通り、死は唐突なんですから」

「ふむ、『ほとんどの人』というのが気になるな。その言い方じゃまるで、一部の人は死の間際にメッセージを残せるみたいに聞こえる」

「ええ、ありますよ」


 多古島の言葉に、砂金は興味深そうに目を細めた。


「それは?」

「そうですね。先輩によれば森野さんは他殺という話ですし、場面を殺人事件現場に限定して考えましょう。死んだ人、つまり被害者が死ぬ間際に残したメッセージ。それは俗に――」


 一拍。


「ダイイングメッセージと言われます」

「ダイイングメッセージ……。ミステリー小説とかでよく聞く、あれのことかな?」

「その通りです」

「確かにダイイングメッセージは死ぬ直前に書かれるものだが、しかしそれだって、霊山さんの言っていた想像の産物と何ら変わりないだろう。現実の事件現場に、ダイイングメッセージが置かれていることなんて――」

「いや、そうか。そういうことか」


 砂金の言葉にかぶせて、万知が言った。


「想像上であれなんであれ、被害者が死ぬ直前に何か一言メッセージを残せるとするならば……それは犯人の名前以外にあり得ない」

「はい。現実問題、死ぬ直前にどれだけの余力が残っていて、頭が働くかなんてわかりません。だけど誰かに殺された際に残す言葉と言うのは、家族への別れの言葉でも、上司への恨みつらみでも、恋人への愛の言葉でもなく……自分を殺した人物の名前なんじゃないでしょうか」

「……それって」


 霊山が何かを言いかけ、そして言葉を切った。

 鮎葉には、彼女が言いかけたことが、少し分かる気がした。

 多古島の言うことは、きっと正しい。例え犯人の名前が分からなかったとしても、多くの人間は、死に至るまでの過程や真相を遺そうとするだろう。自分の人生を終わらせた犯人を逃さないために。

 けれど、それは同時に、とても悲しいことでもある。幾年もの年月を重ねて、たくさんの人間と関係を築いて、他の誰のものでもない、唯一無二の人生を歩んできた人間が、最期に残す言葉が犯人の名前だなんて。

 多古島は知っているのだ。

 どれだけ悲しくて残酷で、救いがない話だとしても。

 どうしようもなく、それが真実なのだと。


「なので、遺言書というのはとても大事なものだと私は思います。さすが、死の本質を『唐突さ』だと語っていた森野さんだと、尊敬の念を抱きますね」

「はは。確かにそうかもしれないねえ。芽々君は死に対して、誰よりも真摯に向き合っていたんだから」

「あの、お話し中すみません」


 話がまとまりかけたところで、部屋の端から声を上げたのは絵上だった。

 スケッチブックから顔をあげ、戸惑ったように眉をひそめている。


「どうした、絵上君。スケッチは順調かな? そうだ。書き終わったら、ぜひ私にも見せてくれたまえ。絵心はないが、君の描く絵には興味がある」

「ええ、それはもちろん構わないんすけど。少し、スケッチをしていて気になることがあって……」

「ふむ。気になること、とは?」

「その……」



「森野さんの手の中に、何か紙が握られていませんか?」


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