【三】 集合
「なーんで遊びに来てくれないんですか!」
三十分くらいして、鮎葉の部屋の扉が荒々しく開かれた。浅い眠りと覚醒を繰り返していた鮎葉は、突き抜けるような多古島の声で飛び起きる。
「折角、先輩が扉を開けたら靴が落ちるようにセッティングしてたのに! いくら待っても来てくれないからすーっかり仕掛けたことも忘れちゃって、自分でトラップに引っ掛かっちゃったじゃないですか! 今の私の心境を十五文字以内で述べよ!」
知ったこっちゃなかった。
「僕は行くなんて一言も言ってないだろ」
「いやまあ、全部嘘なんですけどね」
「引くほど無意味な嘘だな」
鮎葉はもったりと体を起こした。
「声のトーン、もう少し落としてくれ。ドアが開いてるから恥ずかしい」
「大丈夫ですよ? 先輩の寝起きの顔は、私の背中でがっちりガードしてますから」
「いや、恥ずかしいのはお前の声なんだけど……」
寝起き一番に多古島の相手をするのは、気付け薬としては強すぎる。
「あー、確かにこのお屋敷、よく響きますもんね。私もずっと部屋にいましたけど、誰かの話声が聞こえてました」
スマホで時刻を確認すると、十七時四十分だった。もう全員屋敷に到着していてもおかしくはない。ふと顔を上げると、多古島が部屋にかかった絵を見つめていた。
「ほうほう、先輩の部屋はマネの『フォリー=ベルジェールのバー』ですか」
芸術方面に明るくない鮎葉は見たことのない絵画だったが、多古島は知っているようだった。
「有名なのか?」
「そうですね、マネ最後の主要作とも言われています。当時のパリで最も大きかった劇場、フォリー=ベルジェール内にあるバーを描いた作品ですね」
「まんまのタイトルだな」
「そこはまあ、奇をてらう必要はないですから。この絵は、現実と絵画内の世界をつなぐ、極めて面白い構図で描かれているんですよ。ぱっと見はデタラメな構図で、すごく違和感を覚えるんですが、実はものすごく写実的なんですよね。額縁の外に立っている私たちが、バーのメイドを斜め右手前から眺めている構図で……聞いてます、先輩?」
「悪い、途中から全くついていけなくなった」
「正直でよろしい。ですが、もうちょっと絵画には興味を持った方がいいですね。芸術もろくに語れないようでは、私にモテませんよ?」
だからなんでお前ピンポイントなんだよ。ツッコむ元気もなく、鮎葉は絵画を見据えた。どこか物寂し気なメイドが、こちらをぼんやりと見つめている。確かに不思議な絵ではあるが、鮎葉が感じるのはそれくらいだ。あれだけとうとうと蘊蓄を語れる多古島の知識量は、確かに尊敬に値する。
多古島は絵画の前でゆらゆらと体を揺らしながら言う。
「私の部屋にも絵が飾ってありましたし、もしかしたらお屋敷の中には、他にも何点か飾られているのかもしれませんね」
「森野って人は、絵が好きなのか?」
鮎葉が問うと、「さあ」と細い肩をすくめる。
「ただ、絵の趣味には人間性が現れますからね。特定の流派が好きだったり、ある画家の描いた作品が好きだったり、共通したテーマが好きだったり。その人の内面が見えて、結構面白いですよ」
そう言われると、確かに面白いかもしれない。とはいえ、それは多古島並みに絵画に詳しい場合に限られる話だろう。
「お前の部屋には何が飾ってあったんだ?」
「ゴヤの『カルロス四世の家族』です」
聞いたところで、鮎葉にはどんな絵なのかまったくピンと来なかった。レプリカとして出回っているのだから、有名なのだろうけれど。
それからしばらくして、鮎葉と多古島はダイニングルームに足を運んだ。
ダイニングルームは横に長い構造になっていた。十人くらいが腰かけられそうな長テーブルが中央に置いてあり、左側の壁には暖炉が、右側の壁には大きな窓が設えられていた。
暖炉の前にはソファがあり、談話スペースになっているようだった。奥は厨房につながっているようで、良い匂いが漂っていた。テーブルの上には、名前の書かれた紙が置いてあり、座る場所が決められている。
「おや、君たちは……」
テーブルには既に一人、女性が座っていた。
腰まで届きそうなくらい長い黒髪、黒のパンツに無地のカッターシャツという飾らない服装が似合う、スリムな体型をしていた。
女性は鮎葉たちの方を見ると、挨拶をしようと思ったのか立ち上がろうとし、
「そのままで大丈夫ですよ」
多古島がそれを止めた。
「左足、痛めてらっしゃるんじゃないですか?」
「ほう、これは驚いた。どうしてそれが?」
「左側にステッキがありますし、座っている時の重心が少し、右に傾いていたので」
見れば、確かに臙脂色のステッキが立てかけられていた。女性は浮かせた腰を落とし、ふっと笑った。
「なかなか鋭いね。職業は探偵かな?」
「いえいえ、ただのしがないニートです」
確かに多古島は現状職に就いていないし、とはいえ学生でもない。しかしニートという言葉がこれほど似合わないやつも珍しい。女性は喉を鳴らして独特の声音で笑い、愉快そうに言った。
「くくっ。ニートか、面白い。いいねえ、今日は楽しくなりそうだ。私は
「私は多古島彩絵です。こっちの基本的にぼやっとしてるのが、鮎葉弘嗣です」
なんでこいつはさっきから自分の分の紹介もするのだろうかと、鮎葉は内心で首を傾げる。しかもろくな紹介のされかたをしていない。
「ほう。君、ちょっとこっちに」
砂金はちょいちょいと人差し指を曲げた。
「僕ですか?」
「そう、僕の方だ。もっと近く、もっとだ。そうそう。ふーむ……」
すらっとした指が頬を撫でて、鮎葉はびくりと体を縮こまらせる。
さっきから薄々感づいてはいたが、砂金はとても整った容姿をしていた。歳は三十を少し過ぎたくらいだろうか。少し吊り上がった勝気な目は不思議な眼力をたたえているし、不敵な笑みはどこか艶やかだった。鮎葉がドキドキと続く言葉を待っていると、
「うむ、私好みのいい顔だ。君、私と結婚しないか?」
「はいっ⁉」
「だ、だめです!」
鮎葉が言葉を続ける前に、多古島が割って入った。
「先輩には、私を生涯養い続けるっていう重要な役割があるので!」
「そんなの約束した覚えないんだけど」
「ははっ! そうか先約がいたのか。これは申し訳ない」
砂金は笑ってそう言うと、鮎葉の顔から手を離した。なんだかちょっと損した気分だった。
「まあ、詳しい自己紹介は全員揃ってからするとして。短い期間だが、よろしく頼むよ、二人とも。……ああ、それと君」
ちょいちょいと袖を引かれ、手の中に何かが入れられる。
「これは私の連絡先だ。彼女に飽きたら、いつでも連絡をくれたまえ」
「あ、はは……。考えておきます……」
不敵な笑みを浮かべた砂金に、鮎葉はひきつった笑いを返すことしかできなかった。こういうのを肉食系というのだろうか。初めて出会うタイプの女性に、戸惑ってしまう。
多古島と鮎葉も席に着き、それからさらに数分経つと、残りの三人がダイニングルームに現れた。
大柄で恰幅の良い男性が一人。細身で手足が長く、髪の毛を赤色に染めた今風の青年が一人。そして最後に、くせ毛で気弱そうな眼鏡をかけた女性が一人。
最後の女性が着席すると、椎菜がキッチンから現れ「もう間もなく芽々さんが来られます」と言った。インカムで連絡が来たのだろう。
改めて周囲を見渡す。
多古島のように絵画から人間性をはかることはできないが、この屋敷に来て以降、鮎葉は森野芽々という人物に興味が湧いていた。
大きな屋敷に専属のメイド、設えられた家具も上等なものだ。これだけの財力がある人間が、定期的に人を集め、死について語り合っているというのは興味深い。
はてさて、一体全体、森野芽々とはどのような人物なのだろうかと思っているうちに。
ダイニングルームの扉がゆっくりと開いた。
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