【一】 発端


「私が大学の八年間で学んだのは、自分が何かに詳しいという実感ではなくて、私は何も知らないという実情だった」というのが多古島の持論なのだけれど、実際のところ、世の学生の何割がこの言葉に頷けるのだろうかと、鮎葉は時々思う。


 自分は何も知らないことを自覚している状態、「無知の知」こそが学びの始まりなのだとしたソクラテスの言葉はあまりにも有名だが、たったの二年で博士号を取得し、鬼才、若手のホープとまで言われた彼女が口にすると、なかなかどうして、ソクラテスの言葉よりも実感を伴って聞こえるから不思議なものだ。


 とはいえ、卒業後にどこに就職するでもなく、専門分野外のあらゆる学問に手を出し、大学図書館や公開講義に足しげく通い、こうして部屋の中を資料だらけにまでしているのは、いささかやり過ぎなのではないかと、たまに心配になるのだった。


「相変わらず汚いのな。お前の部屋」

「うわー、そういう先輩は相変わらずデリカシーがありませんねえ。そんなんじゃ私にモテませんよ?」

「なんでお前単品なんだよ。他の子にはもっと紳士的に接してるに決まってるだろ」

「え……。先輩、私以外の女性にアプローチされる可能性があると、本気で思ってるんですか? もしかしてあれですか? サンタクロースはまだいるって信じてる口?」

「僕が女性に言い寄られる可能性を、伝承レベルで話すのはやめてくれ」


 あとその言い方だと、多古島からのアプローチはあるみたいに聞こえる。言葉には気をつけて欲しいものだ。足の踏み場を探す方が難しい部屋の中をつま先立ちで歩いていると、


「ていっ」

「おい……このバカっ……!」


 クッションの上に横たわっていた多古島が、つんと鮎葉の足を蹴った。

 たまらずバランスを崩した鮎葉は、そのまま資料の山へ向かって倒れこむ。


「ちょっとせんぱーい。散らかさないでくださいよー」

「誰のせいだ! 大体、もともとこれ以上ないくらい散らかってんだろーが」


 頭の上からがさがさと雪崩落ちてくる本や論文としばらく格闘した後、鮎葉はようやく顔を出した。本の山がいくつか倒れてしまったが、座る場所が確保できたので、よしとすることにする。


「散らかってませんよー。どこに何があるかは、ちゃんと分かってますし。っていうか定期的にお掃除してますし」

「嘘つけ。片付けできないやつは皆そう言うんだよ」


 周りに散らばった本を系統ごとにまとめようとして、あまりのジャンルの幅広さにあきらめた。なんで西洋絵画史の資料と検死参考資料と統計モデリングの文献が一緒になって落ちてるんだ。


 多古島は優秀だが、何にでも影響を受けやすいという一面を持つ。地方に飛べば口調は染まるし、美術館に行けば絵画に、博物館に行けば考古学に、水族館に行けば海洋学に興味を抱き、その度に資料を買いあさっては、次々に知識を吸収していく。


『知ってますか? タコって周囲の環境に合わせて色を変えられるんですよ。それと同じです』


 と彼女はよく口にするけれど、自分の苗字にタコが入っているからといって、過剰に親近感を抱くのは止めた方がいいのではないかと思う。


「それで、今日は何の用だよ」


 昨晩「先輩、明日うちに来てくださいね。来なかったら高校時代のあの秘密をネットの海に放流しますから」という物騒な文言が送られてきたので、鮎葉は研究と解剖の合間を縫って、こうして多古島の家に足を運んでいたのだった。


 いったいどの秘密のことを指しているのかはさっぱり分からなかったが、多古島とは中学の時からの長い付き合いなので、何を握られていても不思議ではなかった。


「おお、よくぞ聞いてくれましたね先輩。一を聞いて十を知るとはまさにこのことです」

「一を聞いて一しか分かってないんだって。早く残りの九を教えてくれ」

「もー、あんまり急かさないでくださいよ。折角私が、小粋なトークで場を温めようとしてるんですから」


 人差し指をちっちと振る多古島を見て、鮎葉は嘆息する。

 彼女は今年で二十六になるはずだが、高校の頃からちっとも中身が変わっていない。

 言動は雲のようにとらえどころがなく、周りにいる人間は彼女の奔放さに振り回される。そのせいか、折角可愛らしい見た目をしているにも関わらず、浮いた話の一つも聞いたことがなかった。

 もう少し落ち着きがあって、整理整頓ができて、先輩を敬うことを覚えれば、彼女ももっと大人びた女性に見えるのだが……。しかしそれでは全くの別人になってしまうので、土台無理な話なのかもしれない。


 多古島は横たわっていたクッションから立ちあがり、近くにあったキャスター付きのホワイトボードを引っ張ってきた。ビーバーの巣よろしく積み重なっていた本の山が、またどさどさと崩れ落ちる。

 そんなことは気にしないとばかりに、わずかな隙間に足をねじ込み、多古島は黒マジックで「死を見る会」と書いた。


「これ、知ってますか?」

「知らない。怪しい新興宗教か何か?」

「ぶっぶー。全然ちがいまーす。大体、私が新興宗教に所属するわけないじゃないですか」

「お前がその『死を見る会』とやらに入ってるって情報が、そもそもこっちには来てないんだよ」

「そうでしたっけ?」


 こめかみに青筋が立ちそうになるのを、鮎葉はすんでのところで抑えた。たった一歳の違いとはいえ、彼女は後輩だ。寛大な心をもって会話をしよう。鮎葉は続きを促した。


「まあいい。それで『死を見る会』ってのは、どういう集まりなんだ?」

「『死を見る会』は哲学者の森野芽々さんという方が発足した会です。活動内容はいたってシンプルで、死について語らうことです」

「それはまた、ずいぶんとどんよりしそうな集まりだな」

「ノンノンノン。先輩が、死イコール暗いもの、と考えるのは職業柄致し方ないことかもしれませんが、本来死について考えるのは、決して暗いものではないのですよ?」

「というと?」


 鮎葉が問うと、多古島は右手の人差し指と親指を立てて、「バーン」と銃撃の物まねをした。


「はい、先輩は死にました」

「唐突だな」

「いい感想ですね」


 なぜかとても満足そうだった。


「さてここで質問です。先輩は今死んだとしたら、悔いは残りますか?」


 なるほど、と鮎葉は考える。やり残したこと、思い残したことはないだろうか?

 ……あるな、たくさんある。

 第一に家族のことだ。大学に入学してからフラフラしている妹のことはもちろん心配だし、そろそろ定年を迎える両親のことも気がかりだ。第二に多古島のことだ。こいつは果たして、自分がいなくてもうまくやっていけるのだろうか? そして第三に――


「きっと今先輩は、家庭はおろか彼女も作れず、ろくな女性経験もなく、童貞のまま死にたくないよう、と思っているに違いありません」

「おい、なんでそこだけピックアップした。あと勝手に童貞認定するな」

「失礼、今のは私の願望でした」


 どんな願いだ。


「まあ、それはさておき。先輩がさっき言ったように、死は唐突に訪れます。多くの人間は忘れて過ごしていますが、死は平等に、前触れなく訪れるものなのです」

「正常性バイアスってやつだな。身近にない現象を、人は他人事のように捉えてしまう」

「その通りです。そして人は死ぬ時に、色々なことを悔やんでしまうものなのです。つまるところ死について考えるというのは、そういう後悔を少しでも無くすため、いわば、明るく生きるための手段の一つなのですよ」


 こういうのをまるっとまとめて、死生観と言います。と多古島はホワイトボードにでかでかと書き記した。他の文言を書くスペースは考えていないようだった。


「さらにです。死生観には長い歴史があります。ソクラテスにはじまり、キェルケゴールやニーチェなど、著名な哲学者が死について言及してきましたし、絵画や音楽のモチーフにも用いられています。漫画や映画、小説なんかも言わずもがなですね。人間の営みと死生観は切っても切れないものですので、死を見つめるということは、過去と現在、そして未来を見つめることにもつながる、ふかーいテーマなのだ、というわけです」


 永劫回帰、終活、象徴主義、手塚治虫、神曲、安楽死と尊厳死、ヴァニタス、メメントモリ、その他色々な単語が書き連ねられて、ホワイトボードはぐちゃぐちゃだった。整理整頓が苦手なことが、板書からもうかがい知れる。


「オッケー。その『死を見る会』っていうのが、真摯に学問として死と向き合ってる集まりなのは、よく分かったよ」

「お判りいただけたようで何よりです」

「お前がその会に所属してることも、まあ、理解できるよ。だけど結局、僕は一体全体なんで呼び出されたんだ。まさか僕に死生観の講義をするためってわけじゃないだろ?」


 まったく全然百パーセント違うと言い切れないのが、この多古島の怖いところだが、恐らく今回に限っては違うだろうと、鮎葉は踏んでいた。


「そうそう、その話でした。先輩に語るのが楽しすぎて、つい脱線してしまいました。それで『死を見る会』というのは、定期的に集会を開いてるんですけど、結構な少人数制でして。会長の森野さんからお声がかかるまでは、参加することができないんですよ」

「へえ。変わったシステムだな」

「森野さんは何冊か本も出したりして、結構有名な方ですからね。ただのファンみたいな方も、ワンチャン森野さんに会えるんじゃないかって登録してるみたいなんですよ。でも森野さんは、集会では死についてディープに語らいたいみたいで」

「なるほど。語り合って楽しそうな相手を選抜してるってわけか」

 ようやく話が見えてきて、それと同時に鮎葉は、自分がここに呼ばれた理由も分かり始めていた。


「で、なんとこの度、私にもお声がかかったんです! やったー! 登録してから一か月という、この会きっての異例の速度! 快挙です! きっと備考欄に書いた、私の死への熱い想いが評価されたのでしょう」

「おめでとう。よかったじゃないか。存分に死について語り合ってくるといいよ。お土産話はいらないから、何かご当地名産とか、食べられるものだけ買ってきてくれ。じゃ、僕はこれで」

「それで先輩も一緒に行くから、スケジュールの確認をしようと思って」

「勘弁してくれ」

「なんで?」


 なんではこっちのセリフだった。どうして行く前提で話が進んでるんだ。

 鮎葉は頭をがしがしとかいて考えた。これまでの経験則から、絶対行かない方がいいのは分かっている。多古島の誘いに乗ってろくな目にあった試しなんてないのだ。


「大体、選抜制の会に飛び入り参加なんて許されるのか?」

「もちろん、その点は許可いただいてますよ。先輩の法医学者の卵という肩書が初めて役に立ちましたね」

「毎日使ってんだよこっちは」


 鮎葉の言葉は無視して、両手で大きく丸を作る多古島。なんでこういうところだけ、やけに根回しが早いんだ。


「二泊三日ですよ? お泊りですよ? 可愛い後輩と一緒に旅行に行けるなんて、またとないビッグチャンスですよ?」


 宿泊と聞いて、鮎葉は鳥肌が立つのを感じた。間違いなく何かが起こる。しかも集会名が「死を見る会」と来た。怪しいフラグがびんびんに立っている。

 やめよう。今回ばっかりは止めておこう。君子危うきに近寄らずというやつだ。


「多古島、物は相談なんだけど――」

「ふーん」


 断りをいれようとした鮎葉の言葉を遮って、多古島が中腰になって言った。


「でも先輩、きっと後悔しますよね?」

「な、なにがだよ……」


 覗き込むようにして顔を近づけてきた多古島から顔を背けつつ、鮎葉は問う。

 ぽんぽんと会話を交わしている時は気にならないのだが、こうやって間近で見ると、多古島は控えめに言っても非常に整った容姿をしている。彼女の澄んだ瞳を直視できるほど、鮎葉は女性に慣れてはいなかった。


 そんな鮎葉の動揺を知ってか知らずか、多古島はそのままの体勢で続ける。目のやり場に困ったので、肩のあたりでさらさらと揺れている、ワンレンにまとめた綺麗な毛先を注視することにした。


「私が『死を見る会』の集まりに行って、いつもみたいに妙な事件に巻き込まれたり、挙句の果てに万が一にでも傷ついたら、後悔しますよね?」

「それは……」

「で、こんなこと言われると、私が出かけている間、心配になって仕方がありませんよね? 時計とにらめっこしたり、意味もなくスマホを立ち上げたり、メッセが来なくてそわそわしたり。きっと仕事もろくに手につかないはずです」

「……」

「だったらいっそのこと同行して、私を傍で守ってくれた方がいいと思うんですけど、どうでしょう?」


 それがとどめの言葉だった。無駄なあがきだったなと、鮎葉は肩を落とす。

 結局、嫌な予感がしようがなんであろうが、多古島の頼みを断れたことなんて、一度としてないのだ。これまで散々多古島に付き合わされてきた過去が、それを証明していた。

 だから鮎葉はせめてもの抵抗として、


「お前、まじで性格悪いのな」


 そんな憎まれ口を叩くのだけれど、


「でも、嫌いになれないでしょう?」


 多古島は一点の曇りもない笑顔でそんなことを嘯くので、鮎葉は両手をあげて降参した。

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