つなごう。 前編

 のばした手のむこうに誰もいない。のばした手に触れるモノなにもない。ただ、空


をきるだけ。見あげても、先をいく人の背中なんてない。太陽がなくても月あかりが


あれば誰かが引っぱってくれなくても歩けたし、道を外れても自分でもどれた。


 ボクはそうやって生きてきました。これからもそうやって生きていくものだと思っ


ていた。早くに両親を亡くしたから、親戚中のお荷物だったから、腕力もなかったか


ら、意気地も根性もなかったから、あいそ笑いばかりして、他人の顔色ばかりうかが


って、そんとく勘定にばかりたけていく一方だったんだ。そんなボクに、他人の気持


ちがわかる優しい人ね、アナタはそういってくれました。ボクはビックリしたんだ


よ。そんな見方をしたことないし、実際、優しい気持ちなんてこれっぽっちもなかっ


たんだから。ここでコレをいえば雰囲気が悪くなるかな、こういったら喜ばれるだろ


うな。空気よんで態度を変えていく。なれだよ、こんなの。ボクはそうやって他人様


の間を泳いできた。そうやって人なみの生活を手にいれた。言葉や行動、なすべきお


こないがすんなり出てくる、計算機なみの速度でね。


 なにをすればアナタを気分よくさせられるのか? 同じ職場で働いてるんだし、本


当は誰にだってわかるはずのことなんだよ。 ボクが特別ってわけじゃなかったんだ


よ。外まわりの帰りに安いケーキを買ってきたり、アナタが 水をやってる鉢植えを


ほめてみたり、小さな小さな出来事できごとで、アナタは子どもみたいにはしゃいでくれ


ました。実は、あんなのだって計算ありきの言動でした。事務一般と経理を務めるア


ナタと仲よくしておけばそんはないってね。


 ──ここまで書いて、アナタのふくれっつらが目にうかぶようです。


怒るよね? それが普通だと思います。でも、もうアナタにはおあいそを使いたくは


ないから、先をつづけることにします。


 一昨年の今ごろ、工場のみなで夜桜を見にいったね、ビール片手で城跡公園に。も


う、散りはじめているころだった。春風に舞う桜吹雪の中、缶ビールでほおをそめ


て立つ貴女は、とてもきれいだった。ちょっぴりふくよかで、みなにブーちゃんなん


て呼ばれてるアナタを(失礼!)心から美しいと思った。あのとき、きれいだっていっ


たボクに驚いたような表情を見せたアナタ。ボクだってビックリしたんだよ、だって


さ、なんの気なしにいったんだ、思ったことがまんま口 にでた。あんなこと、初め


てだったから。あ、ああきれいね、桜。あなたがあわてたようにいうと、ボクも


曖昧あいまいにうなずいて見せた。おぼえているかい? ボクはあれから、アナタを


異性として意識しはじめたんだよ。


                  ※


 紫乃しのは彼から結婚するときにわたされた手紙、その便箋びんせんから顔をあげて


つぶいた。


「おぼえてるわよ。決まってるじゃない……」


 何度も何度も読みかえした手紙だった。今、今は、こんな手紙を読んでいる場合で


はない。それでも紫乃は読まずにはいられなかった。


                  ※


 なんですか!? アナタはけがらわしい物を見るような目でボクを見て、そして


きびしい口調でいったよね? 最近、話しているとき、胸元ばっかり見てる。いやら


しい!とまではいわなかったけど、そう思われていたんだろなあ。けれど、アナタの


誕生日に、少しばかりはりこんで買ったネックレスを贈ったとき、アナタは、ああ!


と声をあげたね? あのとき、ボクが見てたのはアナタの胸元を飾るのにはどんなデ


ザインのものがいいのか?って考えてたからなんだけど……わかってもらえたかな?


あれから、その話をしたことがなかったから、少し心配です。いやらしい気持……ま


るでなかったわけではないこともない……けれど、それだけじゃなかったんだよ。


                  ※


 ばか!  わかってるわよ! でなきゃつきあうはずないでしょ!  紫乃はにじん


だ涙を指先でぬぐい、首にかけたネックレスのヘッドをギュッと握った。


                  ※


 ネックレス、もらってくれるかな……不安だったんだよ。人の顔色うかがうのが得


意のボクでも、そんとく抜きの恋愛感情なんて初めてだったから。もっともっと若い


ころは、どうしたら親が 金持ちの女の子とつきあえるだろうか、そんなことばかり


考えていたから。ひとりで生きてくために、それなりに悪さもしてきたから。


今の工場に入るまでは本当に貧乏だったから。


                   ※


 ふふ……。紫乃は、このくだりを読むといつも笑ってしまう。どんな悪さを他の女


にして きたのかは、聞いたことがない。聞きたくもない。


 それはそうと私たち、町工場の工員と事務員だよ?  今だってそうとうに貧乏じ


ゃない!! そして考えてしまう。少年時代、青年期の彼がどれほどの辛酸しんさんをなめ


てきたのかを。今の私たちていどの生活で普通に暮らしていると思えるなんて。ある


意味、しあわせな人なのかもしれない。


                   ※


 わかるかな? 三十近くなってるってのに恥ずかしい話だけれど、ボクにとっては


アナタが初恋の人みたいなモノだったんだ。だからアナタがネックレスを喜んでつけ


てくれたときは本当に嬉しかった。自分のためにではなく、誰かのためになにかをし


て喜ばれたのも初めてのことだったかもしれない。アナタと食事にいったり、映画を


みたり、散歩してるだけでしあわせな気分になれた。


 ケーキバイキングにいったとき、あとひとつ食べたいけど、また太っちゃう!って


真剣に考えこむアナタがかわいくてならなかった。ふくよかな女の子の方が好きだ


よ。ボクがそういうとアナタはイソイソとケーキを取りにいったっけ。


                   ※


 そんなこと忘れてりゃいいのに! 紫乃はいくぶん口をとがらせる。そういえば


一昨日からなにも食べていない。食べたい気持ちにもならなかった。彼だってなにも


口にしていないはずなのだ……。


                   ※


 一度だけ大ゲンカしたっけね。あれはつらかったな。アナタのいい分はこうだっ


た。本気で本気のおつきあいができていない!! もっと本音で話をしようよ!! 


アレにはまいりました。確かにボクはアナタに対し、気をつかい、一歩、距離をおい


ていたかもしれません。腹が立つことがあっても、見て見ぬふりでかわしてきたかも


しれません。でも、それがボクの生き方だったし、そうすることでしか世の中をわた


っていけなかったんだ。


 世の中は世の中、私は私。私は特別でしょ!? アナタはいった。その通りだけ


ど、アナタもボクにとっては、世の中の一部であるのことも確かなわけで……あの


ときはいわなかったけど、ボクはアナタをうしなうのが怖かった。本当に怖かったん


だ。


                   ※


 ばか……私だって怖くなったのよ。私に遠慮ばかりしてるあなたが。その内、キレ


てしまうんじゃない? 私を嫌いになってしまうんじゃない? そんなことばかり考


えるようになってしまっていたのよ。あなたは、でも私の気持ちもわかっていたか


ら……。


                   ※


 もうだめだ、別れよう。ボクはついにいってしまった。ボクにはこんな風な接し方


しかできないんだ。それでアナタが傷つくのなら、もうどうしようもない。


 嫌いになったの?と聞かれてボクは首をふった。嘘よ、嫌いだっていえばいいじゃ


ない!! 泣きながらドカドカとボクの胸をたたいたアナタ。ボクも、実は泣いてい


たんだよ。知ってた?


                   ※


 知るわけないじゃない……超、興奮状態だったんだから。


                   ※


 なんだかイライラがつのってしまってボクは、アナタのほおをたたいてしまいま


した。そして怒鳴どなってしまった。


 好きだよ! 大好きだよ!! 嫌いなわけないだろ!!


                            (後編につづく)

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