笑顔
もの心ついたころからがまん強い子だといわれてきた。転んだくらいでは泣かなか
ったらしい。それどころかすぐに立ちあがって笑ってみせたという。
手のかからない子で母さん、ずいぶんと助かったよ。母はいつもそういっていた。
ボクはますます、母の期待にそわなくっちゃ……そんなふうに思う小学生、中学生、
そして高校生になった。
父はいない。よくは知らないが気性の荒さが災いして、地元のヤクザ者に刺されて
死んだらしい。まだボクが母のお腹の中にいたころの話だ。
親戚の伯父や伯母が
穏やかで、いつもニコニコしているものだから、父の実の子ではないのでは? など
と母の不実を疑うような、そんなバカげた話を。けれどボクは思ったものだ。
ボクは間違いなく父の子だと。
生活は楽ではなかったが、別に苦痛ではなかった。母は元気に働いていたし、貧し
くとも楽しいわが家。いじめ……そんなものにも確かに遭遇した。しかし貧乏はボク
のせいではないのだから卑屈になる理由もないし、仮になんらかの形で手を出された
としても(早い話が暴力だ)ボクは笑ってすませた。相手があきれるくらい、ボクは
いつもニコニコとしていた。
キレる、逆ギレなどという言葉とは無縁であった。一時的な感情のたかぶりで、
他人を傷つけ、刑務所いき。人生の何年かを棒にふる。そんなバカげた話はないし、
なによりも父のように、母を悲しませるわけにはいかなかった。笑う門には──だ。
「最近、太った? いや、顔がでかくなったか?」社長がいった。
高校を卒業したボクは、小さな食品加工会社に就職した。今年で五年めになる。
「楽な仕事ばっかしてるってことか?」社長の目がイタズラ小僧のようにクルクルと
動く。
「いやぁ、そんな……」ボクはヘラヘラと笑いつつ、両ほおに手をあててみる。
この社長は非常によくしてくれた。いつもニコニコ笑顔のボクをかってくれてい
た。給料がいいとはお世辞にもいえないが、母とふたり、食べていくには十分である
し、営業に必要だからと、車の免許まで取らせてくれた。社長はハゲ頭をなでながら
冗談話を続ける。
「たまってんじゃないか? それで、顔までふくらんで、その内、パチン!」
ハゲ頭をたたく社長。
「お前、まだ若いんだ。いつも笑顔で仕事もまじめ、それはいい。しかし、たまに
はガス抜きも必要だぞ」少しだけ真顔でいってくれた。
「はい」ボクは笑顔で答えた。
「有明工業の話……聞いたよ」
「え?」
「いくら仕事とはいえ、ありゃあむこうが悪い。お前、それでもなんでも笑顔で受け
こたえしてたそうじゃないか……」
誰が話したのか? この社長に心配をかけたくないから黙っていたのに。
「結局は先方が折れてくれましたから……笑顔の勝利ですよ」
ボクがいうと社長はあきれたように顔をしかめた。
「俺なら間違いなくキレてたね。人にはいっていいこと、悪いことがある。また同じ
ようなまねをされたら、そこまでがまんすることはないからな」
ありがとうごさいます、社長……でもボクは大丈夫です。
なんだ!? ごるぁあ!! ウィンカーくらい出せ、こら! 俺の前に割りこんだ
からには死ぬ気で走れや! てめぇ、遅ぇんだよ! 40㌔の道で本当に40㌔で
走るバカがどこにいるんだ!! だから、ババァは入れたくないんだ。
おいおい、ナビ見ながらウロウロ走るなよ。コースなんてスカッと決めろ! 前の
車と車間200㍍も空けてんじゃねぇか!? そんなんでなきゃ走れないなら、公道
に出てくるな! 田舎の広場でもグルグル回ってろ!──ってか、○○ナンバーか
よ! 東京にはくるな! お前が渋滞の原因なんだぞ!!
ダァー!! 風景見て指なんかさしてるよ、ジジィ! アンタの後にも車がいるん
だ! 観光名所の前でいちいちブレーキ踏むな──って、おい! またかよ!! 読
めない運転するんじゃねぇ!! てめぇ免許はく奪だぁ!!
タクシー! 二車線またぐな!! どっちで走りたいんだ!? お前は!!
あー! 危ない!! 横断歩道に人がいるだろが!? なんでお前の心配までしな
くちゃならない!? 運転すな!
ボクは、取引先の駐車場に車をとめ、いつもの笑顔で営業へと向かう。確かに学生
時代の比ではなかった、社会人の厳しさは。さすがのボクも笑顔が固まることが多々
あった。それでもボクがなんとかやってこられたのは、車というパーソナルスペース
を手に入れることができたおかげだ。ひとりでどなったり、怒ったりしているぶんに
は誰にも迷惑をかけることはない。──さあ! 今日も笑顔でがんばるぞ!
「おい! 頼む!!」
珍しく社長が血相をかえていた。
「トラブルだ! 取引先の社長にあやまりにいく! 車出してくれ!!」
助手席の社長は小さく固まっていた。ヘタをすると会社がかたむくほどのトラブル
らしい。ボクは、黙って車を飛ばす。
「うぉ!」野郎! バイク! すり抜けるなら、もう少しうまくやれ!
「どうした?」
「いいえ、なんでも」
「お前まであわてることはないぞ。俺のミスなんだ……いつも通りゆったりやってく
れれば、それでいい」
「はい」いつも通りか……。
「この上、事故でもおこしたら泣きっつらに蜂だからな……そこ左」
「はい」ボクは左折車線に移り、交差点の歩行者用信号が赤に変わるのを待つ。
──お前! 信号変わってるだろが! せめて走れ! メールすんな! 車には人
間が乗ってるんだよ! 他 人を待たせてるって自覚ないのか! このブスがぁ!!
ひき殺すぞ!!
う! 教習車だ……こればっかりは仕方ない……うぅ……。
「どうした? すごい汗だぞ」
「は?」あ……どなるまいと思っていたら息をとめていた。
「心配するな! 会社は俺が守るから」
「は、はい!」ボクはとびきりの笑顔で返事をする。
──しかし、息苦しい……なぜだ……呼吸、してるのに……苦しい……苦しい……
うぐぁあ! チャリんこ! てめぇえ!! なんだ? 顔が……顔が……むずむずし
てきた。 顔が……むずむずむずむずむずむずむずむずむずむずむずむずむずむずむ
ずむずむずむずむずむず──苦しい。
「いってくる!」助手席の社長がドアを開いて車の外に出た。
いつの間にか、先方の会社に到着していた。ボクもあわてて車からおりる。
ポトッ。
ボクの足元になにかが落ちた。
──顔?
落ちていたのは二十年以上もかけて、はりつき続けてきたボクの笑顔だった。
ごていねいに年輪まできざまれているらしい。社長は恐怖におののいたような表情で
ボクを見ている。
笑顔を落としたボクは、いったいどんな顔をしてるのだろうか……。
(終)
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