第3話 ペーテルは頭が弱い

 王にマリシュカのことを奏上したところ、とくに何の指示もなかったとのことだ。

 向こうから飛びこんできたのだから(しかも窓から)、それもそうだ。


 本翡翠ジェディトのことは王宮魔術師にも伝えられて意見を仰いだそうだが、サジを投げられたという。

 王が召抱えている唯一の魔法つかいだ。無理に王子の前に突き出すわけにもいかないのだろう、放置された。


 あれから2日。

 なにも変わりはない。

 身体の変調も、精神の高揚もない。


 あのあと、お茶と菓子を持って戻ってきたキンガが、マリシュカは帰ったと聞いて落胆し、ずっと元気がないものの、日々の仕事はきっちりこなしている。ただ、いつも手にしている編み棒は、この2日、動きが鈍い。編み目も荒くなっている。


 そして、ペーテルが座を外すことが多くなった。

 戻ってくる度に本を抱えているので、閲覧許可のある書架のところに行っているのだろう。ただ、その本はどれも外国語のもので、12歳の少年には読めない。なにを調べているのかを知ることも出来ず、当然、手伝いも出来ない。訊いても笑ってはぐらかされるだけだった。


 そして、明くる朝。

 ペーテルが朝食の膳とともに驚きの情報を持ってきた。


「今日、マリシュカさまがいらっしゃいます」


「……は?」


 この部屋に足を踏み入れるのはキンガとペーテルだけだ。12年間、一度の例外もない。


「いやあ、それが、私たちには知らされてなかったんですけどね。偉大なる魔女さま、マリシュカさまから事情を聞かれてすぐに王宮に遣いを出してくださってたんですって」


 黙って続く言葉を待つ。


「なので、私めの報告も、すんなり陛下に通ったんですねぇ。それで、まあ、今日、こちらにいらっしゃいます」

「僕には関係なかろう」

「やだなぁ、殿下。こちらにって、この部屋にってことですよ。依頼なさったでしょ? その、おつむの本翡翠の解決策」


 沈黙ののち、ため息。


「あ、召し上がってください。ただでさえ殆ど冷めてるのに。一応、味つけは濃い目にしてもらってますけど、キンガさんは調理場に行くたび殿下の食事の塩分を控えろって煩く言ってますから。ま、確かに運動不足でいらっしゃいますからね。この部屋で出来る運動なんて限られてますし、湯殿だって泳げるほどの広さなんて望めないですしね」

「饒舌だな」

「だって殿下と接するには、自分が話しかけないと会話がないままじゃないですか。一応、申告しますけど、殿下付きになる前は、私めは寡黙な男で通っていたんです。朝に起きて夜に眠りにつくまで、どうしても必要な返事以外はひとことも喋らないなんてこと日常茶飯事だったんですから。でも、殿下の元に伺候するようになって沈黙に耐えられなくなったんです。だって殿下の無表情って怖すぎて。キンガさんも、ほにゃほにゃしてるけど、ほっとくとなんにも喋らないし。よし、ここは私めの話術で殿下に笑っていただこうと、一念発起しまして」


 なにを言っているのか解らない。


「……お前、知らないのか」


「殿下のお生まれになった時のことですか? 存じてますよ」


 絶句した。


 知っていて、こういう態度なのか。

 頭が弱いとは思っていたが、これほどとは。


 乳母でもあったキンガが喋らないのは、自分を恐れているからだと彼は思っている。乳母といっても家畜の乳を海綿で飲ませる役目だったが、出生時に産室で五人もの人間が死んだ赤ん坊を腕に抱いて口に乳を含ませるなどという職に就きたいと思う人間など、いるはずがない。


「そりゃ初日は怖かったですよ。でも、キンガさんっていう生き証人がいらっしゃったので、彼女を見習っているうちに平気になりました。昔よりも殿下は優しいし、ときどき声を聞かせてくれるし」

「じゃあ、キンガも……へいき……なのか」

「そりゃそうですよ。キンガさんほど殿下を大事にしている人なんていないですよ。あ、比べるの私めしかいないか。いえ、私めも殿下のことは大事ですよ、なんていうか、家族っていうか」

「は?」


 やっぱり頭が弱い。

 彼は考えるのをやめた。

 ちょうどキンガが入ってきて食後のお茶を用意し始めたので、急いで朝食に手をつける。すっかり冷めてしまっていた。


「殿下。ごゆっくりなさいませ。咀嚼は丹念に、優雅に、です」


 キンガも発言がちょっとアレだ。


 しかし、素直に頷き、一口を嚥下する速度を落とした。


 人間をよく知らないのに、こんなに妙な気分になるのは、きっとペーテルが持ちこんでくる物語の本のせいだろう。寝る前に読むのは物語でないとダメだと断固として主張するので、ひどいときには絵本を渡される。情操教育の一環ですから、などと鼻息荒く言われてしまい、その仁王立ちする姿に逆らえないのだ。昨夜は乙女チックな童話だった。本当にペーテルは頭が弱いのだと、しみじみ思う。


 しかし、こんな自分が、これほど人間らしい感情を持てるようになったのは、思い返せばペーテルが来てからだ。

 侍女としてのキンガはマナーを教えることしか満足に出来ないと自他ともに認めている。

 だが、王宮魔術師が王に乞うたらしい。

 殺すことは不可能。

 ならば、少しでも魔力の制御を習得できるよう、教養を深めるべきだ、と。

 知識を増やし、意識を魔力から逸らし、感情を知性で抑制する。

 そのための教師を付ける。


 しかし、恐ろしさに誰もが逃げ出した。

 そこで白羽の矢が突き立ったのがペーテルだった。

 だが、彼は教師ではない。

 彼の学歴は街の幼年学校で終わっている。

 王城に雇われたのは従僕としてだ。

 だが、たまたま文官たちの会議に資料の配布係として同席した。その際、資料で誤用された地方の歴史についてそっと長官に耳打ちし、さらには紛糾した議題について何気なく発言した意見が全員一致で採択され、とどめに外国語で記されたメモを拾って落とし主に間違いなく手渡すという驚異を成し遂げたことから、その異様ともいえる頭脳を見込まれたのである。

 この、人の感情に聡いくせに頭の弱い賢者は、人々の企みに転がされて、超危険人物の教育係として配された。

 ペーテルが、その学識をどこで得たのかは、誰も知らない。

 本人が、へらへら笑って誤魔化すからだ。王にさえ。

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