第11話 最後のアウトドア

 2018年5月、私は残雪の残る浅間山にいた。といっても、浅間山そのものは活火山だから登れない。上信越道からは浅間山の裏側にあたるのだが、トーミーの頭という小山がある。そこを目指して残雪の上を歩いていた。真正面に太陽を仰ぐまぶしい登山道を、10本爪アイゼンをつけてゆっくりゆっくり登っていく。それにしても、登れない。そもそもこの頃は、階段すら息が切れる状態だったのだから、山になど登れるわけがない。しかもやたらと喉が渇いて、一本は冷凍、一本はそのまま凍らせずに持ってきたペットボトルの、凍ってないほうを登りの半分くらいで飲みきってしまった。ここは、雪さえなければ子どもが運動靴でも登れる1時間くらいのお散歩コースだ。なのに、途中で水を失った私は、ぜんぜん力が入らず、ついに立ち止まってしまった。まだまだ残雪が深い急坂を、物好きなソロのハイカーが、たまに早足に追い抜いていく。凍っているペットボトルを陽にあてて、ちょっとだけ溶けた水をなめてみると、少し歩けた。そんな感じで少しずつ、少しずつ、他のハイカーの3倍くらいの時間をかけて、ようやく頂上に着いた。

 裏側から眺める浅間山は立派だった。写真も撮って、飯を食った。帰りは別のルートをたどると近道で帰れる。それで地図上に記されている分岐を探して、さらに進んでいったのがまずかった。日陰は雪がかなり深く積もっていて、ハイキングコースは踏み固められているものの、ちょっと踏み外すと膝上までズボッと埋もれた。だからとても時間がかかる。地図上ではここらへんに近道の入り口があるはずだが・・・。それにしても喉が渇く。凍ったペットボトルに日が当たるようにリュックの上側に固定してみたが、樹林帯だし、気温が低いためいっこうに溶けない。喉が渇いてたまらない。近道をたどってさっさと戻り、すぐに水分を補給しないと脱水症状になりそうだ。なんて、思ってるときには、既に脱水で正しい判断ができていなかったのだと思う。引き返せばよいものを、一生懸命ラッセルして、結局分岐など見つけられず、隣の尾根である蛇骨山まで来てしまったのだ。

 幸い日があたる尾根だったので、溶けた雪間に「蛇骨山」と書いた小さな標識が目にとまり、分岐を見落としたことに気づいた。日がよく当たるので、ペットボトルを逆さにしてみるが、凍ったままの水はほとんどに溶けてくれない。ラッセルで汗ばんでいるのに、水分がまったく摂れないのはつらい。同じ道を引き返すにしても、これはかなりまずい、と思った。

 森林の中の来た道を再び雪と格闘しながら登ったり下りたり・・・。そしてついに、目の前が白くなってきた。脱水症状である。もともと、登れない身体に、極度の脱水。「しかもこんな山の中で・・・」ストックによりかかって、吐き気さえ催しながら倒れないように耐える。賢い読者の方はとっくに「そのこと」に気づいているだろうが、その時の私は完全に判断力を失っていたから、「やばい、やばい。倒れる、倒れてはいけない。まずい、まじでやばい。」ということしか頭になかったのだ。ストックにすがりつつ、ぼんやりと視界に入るのは松葉が散った雪面ばかり。トーミの頭までは何人かハイカーとすれ違ったが、この季節、ここまで来る者はいないようだ。松葉の間の雪に、木漏れ日がキラキラと反射していた。

 それからどれくらいたっただろうか、ようやく「そのこと」気がついた私は、その表面の松葉をそっと手で払いのけてみた。すると案の定、汚れているのは表面だけで、中は真っ白な雪である。穴を掘るように手をつっこみ、山盛りの雪をすくって、食べた。何度も何度も。寒くはなかったし、それよりも冷たい水分が喉を潤してくれるのが快適だった。なんでもっと早く気がつかなかったのか・・・・。

 私はそれからまた歩きだすことができた。地図にあった分岐は発見できなかったが、それでも少し近道になるルートを見つけ、途中何度も雪をすくっては口に含みながら、なんとか日暮れまでに駐車場に無事戻ったのだった。この日悟ったのは、「もう山には登れないな」ということだった。

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