女神の嘆息
金色の麦畑
女神の嘆息
あいたたた……
近頃なぜか何者かに追いかけられることが幾度もあるのです。
今日も追われるままについ反射的に逃げてしまっていたのですが、足がもつれて前のめりに転倒してしまいました。
痛っ……少し手首をひねってしまったのかしら。
それでも手首を庇い、ひじを使ってなんとか体を起こすことが出来ました。
「ご令嬢大丈夫か?」
先ほどまでは人通りがなかった通路で突然後ろから聞こえた声に、思わずビクッとしてしまいました。
おそるおそる声が聞こえた方へ顔を上げたのですが、転んだ拍子にかけていた眼鏡がどこかへ飛んで行ってしまったらしく、背が高い男性らしいことはわかるのですが、床に座り込んでいる私からは一番遠いところにあるはずのお顔がぼんやりしてしまっていて、顔立ちはもちろん髪の毛の色などもわかりません。
首を傾げたところで結ってあったはずの髪が頬にかかり、人前で髪が乱れてしまっていることに気づいた私は恥ずかしくなって俯いてしまいました。
「どこか痛めたのか?」
返事をしない私を気遣ってくださる声が今度は前からかけられたので、痛む手で慌てて髪を手櫛でまとめながら俯いたまま返事を返しました。
「お気遣いありがとうございます。お恥ずかしいことですが転倒した時に手首をひねってしまったようです。しかし多少痛む程度ですので大丈夫かと。
それよりもこのような格好を見られることの方が淑女としてお恥ずかしいかぎりでございます。お願いですから私のことはお気になさらず見なかったこととしてそのまま通り過ぎてくださいませんでしょうか?」
「このような格好と言われても、転倒して怪我をしたと聞いたのに貴女をそのまま置いて行くのは紳士のすることではないのだが?」
「いえいえ、そこはお互いに見なかったことにしてくだされば問題ありません。どうぞ私のことは本当にお気になさらず先へお進みくださいませ」
「いや、しかし……」
体を屈めていらっしゃるのか、まだ渋るような声が私の頭のすぐ近くから聞こえましたが、後ろに控えていたお付きの方らしい人物から何事かを告げられたようで、ボソボソとしたやりとりをされていらっしゃるご様子。
やがて男性はため息を一つつくと
「では大事にな」
と言ってお付きの方と共に去って行かれました。
手櫛でまとめていた髪から付けていた髪飾りを外し、それを隠しポケットへ入れてからゆっくり立ち上がりました。
慌てて動かしたせいで痛む手首を見れば少し腫れてしまっているようです。
仕方ありません、髪をくくるのはやめて下ろしたままでいるしかないですね。
どこかへとんで行ってしまった眼鏡を探すのは諦めて、男性が去ったのとは反対の方向へと足を向けてはみましたが眉間にシワが……。
やはり視界が不明瞭なのは不安です。
おそらく目付きが淑女にふさわしくないほどには悪くなっていることでしょうが、頑張っても不明瞭な視界の中、キョロキョロと周りを見回してみした。
どうやらもう誰かが追いかけて来ているような気配はないように思えます。
しばらく壁に沿って進んで行き、通りかかった侍女らしい色の服を着た人に声をかけると、ありがたいことに馬車置き場まで案内してくれるとのことでしたので、緊張していた胸を撫で下ろして彼女の後に続きました。
せっかく着飾って来たのに、こんなに早く帰宅してしまったらお父様とお母様からはお小言をいただくでしょうか。でも仕方ありませんね。
何より手首の痛みがだんだん強くなってきましたのでこのまま帰ることにいたしましょう。
☆☆
それからほどなく大広間で始まった夜会では主賓の男性が一人の女性を探していたのだが、すでに帰途についた彼女が知ることはなかった。
さりげなく寄りかかろうと近づいてくる美しい女性達からするりするりと身をかわし、夜会の会場を参加者達からの挨拶を受けつつ心中の焦りを見せることなくゆったりと歩き回って探していたのだが、彼の目当ての女性の姿はなかった。
「来ていないじゃないか」
側付きの侍従から
「この夜会に参加するために来られたのでしょうから後でゆっくり話をすれば良いのでは?」
と提案されたからしぶしぶあの場所を去ったのに、その彼女の姿は夜会会場のどこにも見当たらなかった。
先ほど夜会に向かう途中、王族が優先的に使う通路にうずくまっていた女性に驚いて声をかけたところ、相手は一瞬だけ顔を上げたもののすぐに俯いてしまった。
その女性は彼がこれまでに見たことがない令嬢だった。
彼女は美しかった。
一瞬しか見られなかったものの、その一瞬に目にした彼女の顔立ちは彼の記憶に鮮明に焼き付けられてしまったほどに美しかった。
彼は諦め切れずにもう一度ゆっくりと会場を見回した。
「殿下~。ルーセント殿下~。ぎゃっ!ちょっとなによ!離しなさいよ!」
後方で侍従に遮られた誰かが淑女らしからぬ声をあげているのだが、先ほどから数刻前の出来事に思考を向けている彼は気づくことなく無意識に自分の席へ戻って行く。
「離してったら!せっかく邪魔者がいなくなった今がチャンスなのに!」
彼の侍従はどこかの令嬢のキンキン声を気にすることなく手を上げて合図を出すと、それに気付いてやって来た会場の警備担当の近衛兵にその
主が機嫌の悪さを表情に出していなくてもイライラしていることは付き合いが長い侍従には伝わってくる。
「城内におられた以上は受け付けをされているはずですから確認させますか」
侍従の言葉に目を細めた彼だったが少し考えた後で軽く首を振る。
この夜会に招待された身分の令嬢であればまた別の夜会で会えるだろうと彼は軽く考えてしまった。
しかしこの先、彼の期待はことごとく裏切られることになる。
彼は知らない。
実はこれまでも運命の女神によって定められていた二人の出会いは幾度も意図的に歪められていたことを。
そのせいで二人の運命の接点がなくなり、本来であれば絡み合って未来へ繋がって行くはずの運命の糸が、これ以降に交差することがほとんど絶望的になってしまったことを。
人の出会いはタイミングが大切。
運命の瞬間を逃してはならない。
壇上に座る彼の前で繰り広げられている夜会でも、そういった運命の出会いが発生しているのかもしれない。
歪められてしまった運命の流れは修正される事があるかどうかは誰にもわからない。
つまらなさそうに会場を眺める彼の脇に控えていた侍従は、とりあえず受け付け名簿と退場客を照らし合わせるよう指示を出すことにした。
しかし優秀な侍従はこの時に知り得た情報を主から問われない限り口にするつもりはない。
一度制止された行動なのだ。それに反して勝手に指示を出したことは命令違反になる。彼は優秀過ぎる侍従だった。
やがて時が進むと歪みはしだいに大きくなり運命の女神は嘆息する。
繰り返される運命の出会いを妨げる横槍。
あの娘は異端だ。
人々の運命を司る女神にも一度定めた運命の流れを変えることは許されていない。
しかしあの娘は怨念のような執着を持って一組の男女の出会いを邪魔してくる。
まるで二人の出会いのタイミングを知っていたかのようにその場に居合わせて妨害してくるのだった。
何故……?
あの二人の運命の歪みが今後修正されなければこの国の未来の流れも変わらざるを得ないだろう。
出会うはずだった男女間に生じた小さな歪みがやがて広がり、いつか大きな亀裂を発生させる原因になるかもしれない。
女神は嘆息する。
私はこの世界の運命の女神なのだが……
ピロンッ!
運命の女神の美しい耳にこれまでにも何度か聞こえていた、世界がリセットされる音が届いた。
「あ~もうっ!また失敗したじゃない!やり直しだわ!今度こそルーセント殿下を私のものにするんだから!」
手元の小さな長方形の箱を指でつつきながらキンキン声で娘が文句を言っている。
「もう何回目になるかわかんない!」
運命の女神にさえ許されない運命の
しかし、かの者にもようやく恐ろしい破滅が訪れることが定められてしまったようだ。
それに気付いた女神は嘆息する。
偉大なる主神の怒りの矛先が向けられていることに気づくことのない愚かな娘と、その行動を見ていることしか出来なかった女神自身に……
女神の嘆息 金色の麦畑 @CHOROMATSU
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