第4話 遊女は醜男を抱えて逃走する。
チカチカと魔力の切れかかった魔導灯が貧民街の路地を照らす。
いたるところにゴミが捨てられ、どこからか流れ込んできた生活排水が路面を濡らしている。
なにかの気配を感じたか、生ゴミを漁っていたネズミたちが立ち上がった。
彼らは鼻先をひくひくとさせながら、異臭が漂う暗い小路の先を見詰めている。
やがて水の跳ねる音に混じって、人の足音が近づいてきた。
様子を見ていたネズミたちは、つぎつぎと生ゴミの山から飛び降りて逃げていく。
薄汚れた建物の壁に囲まれた狭い路地を、黒猫シャノワと元
「っ!」
右手に伸びる小路へ入ろうとしたとき、スピカはぬかるみに足をとられた。
でこぼこした暗い小路は、どこも路面が濡れていて滑りやすい。ところどころ、水たまりまでできている。
どうにか転倒を免れたスピカは、態勢を立て直して走り出す。
「ひ、ひいいいいぃ! き、きたよォ。追いつてきちゃったよォ」
ヒルマンの悲鳴と後方から近づく足音に、スピカたちは走りながら振り向いた。表面が剥落した壁と壁との間を縫うように、追い駆けてくる女の姿が視界に入る。
「……そんなに、この男がイイのかしら」
ヒョロガリとはいえヒルマンは男だ。たとえ身体強化をしているスピカでも、こんな悪路で彼を抱えていては走る速度も上がらない。
少しずつ差を縮められている。
「ひいいいいぃ! 追いつかれちまうよォ」
「うるさい男ね。舌を咬むわよ!」
スピカでなくとも、自分で走れと言いたいところだ。しかし、ここは複雑に小路が入り組んだ迷路のような場所である。はぐれるわけにはいかない。
加えてヒルマンは、先ほどの濃厚な口づけのさいキャミソールワンピースの女にしびれ薬か何かを仕込まれていた。未だ回復しておらず、魔力循環できないばかりか、身体もロクに動かすことができない。
このため、スピカがヒルマンを抱えて逃走するという事態になっている。スピカがスキル「身体強化」を使えなければ、とっくに追いつかれていただろう。
「待てっ!」
キャミソールワンピースの女が、スピカたちに猛然と迫る。
「こんなことになるんなら、剣を置いてくるんじゃなかったわ」
今夜はヒルマンから話を聞くだけのつもりだったスピカは、剣を持たずに貧民街を訪れた。剣を腰に佩いていれば、ヒルマンを警戒させるかもしれないと考えたからだ。
それが裏目に出た。
スピカとシャノワは路地に転がる樽を避け、無造作に積まれた木箱や
「えいっ、えいっ!」
後方に、飛び越えた木箱に、ゴミの山に、魔力弾を放つスピカ。
魔力弾と弾け飛んだ木片、金属片などのゴミが、散弾となってキャミソールワンピースの女を襲う。それでも彼女は、ゴミの散弾を掻い潜り追ってくる。
スピカたちとの距離は、すこし開いた。
けれども、ひるんだ様子はない。
女の追跡を振り切ろうと、路地を右へ左へ曲がる。路地の窪みに溜まった水を跳ね上げながら、スピカとシャノワは疾走する。
立て掛けてあった木の板を、スピカが手で払い除けるように薙ぎ倒す。
道端に出ている店の看板を、黒猫シャノワが後足で蹴り倒す。
時々、スピカが魔力弾も撃ったりして、女の追跡を妨害する。
スピカとシャノワの妨害を回避しながら、追い駆けてくるキャミソールワンピースの女。距離を開けられても、決して追跡の手を緩めようとしない。
スピカもシャノワも、貧民街の道に詳しいワケではない。多くの建築物が猥雑に立ち並ぶこの街では、たとえ土地勘があっても迷ってしまう。どの道がどこへ続いているのかなんて、全く分からない。
行く手に伸びる階段を駆け上がり、名前も知らない通りから名前もない通りへと、スピカたちは逃げ回る。
とうとう彼女たちの行く手に立ちはだかる三階建てレンガ造りの建物。集合住宅のようだ。
他へつながる道はない。行き止まりだ。
キャミソールワンピースの女は、ようやく追い詰めたと笑みを浮かべて速度を緩めた。
「追い駆けっこは終わりよ。いいコだから、その男をこちらに渡しなさい」
しかし、スピカは速度を落とさない。目の前に立つレンガ造りの建物に向かって突っ走る。
そして、隣を走るシャノワの方にチラリと視線を向けた。
「シャノワ!」
そのスピカの声に、シャノワはひょいと彼女の肩へ飛び乗った。
地を蹴って跳躍するスピカ。
窓ガラスが粉々に割れる音。
二階の窓を破って、彼女は建物のなかに消えて行った。
「なにっ!?」
キャミソールワンピースの女は立ち止まって、建物を見上げた。
「おわわわっ!? な、なんだよ!」
建物内から、闖入者に驚いた男の叫び声がする。
「きゃあああ!」
「ごめんねー!」
そして建物の奥の方から、ふたたび窓を破る音が聞こえてきた。
キャミソールワンピースの女が、悔し気にぎりりと奥歯を噛みしめる。
すぐさま彼女も助走をつけて跳躍した。いったん一階の窓の
「のわわわわっ! いったい、なんなんだよ!?」
男を抱えた女が黒猫とともに窓を破壊して飛び込んできたのに驚いていたら、今度はキャミソールワンピース姿の女が破壊された窓から飛び込んできた。
部屋にいた男は、腰を抜かしていた。
目を丸くして瞬きする男に構うことなく、キャミソールワンピースの女は無言で部屋の入口の方へと去っていく。
「な、なんなんだよ?」
ガラスの破片や木片が散乱した部屋で、男は瞬きをしながら女の背中を見送った。
建物を飛び出したスピカたちは、すぐに手ごろな廃屋を見つけて飛び込んだ。ここに身を潜めて、女の追跡をやり過ごすつもりだ。
建物の中に入ると、スピカは「索敵スキル」を使い、外の様子を探っていた。
「……来た」
彼女が小声でそう呟くと、こちらへ向かって駆けてくる足音が聞こえてきた。
スピカが、そっと窓の隅から外の様子をうかがう。
キャミソールワンピースの女が、路地から飛び出して来た。
建物の出入り口を照らすオレンジ色の魔導灯が、彼女の顔を照らしている。
「くっ、どこへ?」
女は苛立たし気にそう言って、あたりを見回していた。どうやら彼女は「索敵スキル」を使えないらしい。
スピカは、その女の顔に見覚えがあった。
「あの女……、確か、アリシア? なんで、あの女がヒルマンの命を狙ってんの?」
そう呟いて、ヒルマンの方に視線を向ける。
アリシアは、ヴィラ・ドスト王国第一王子レヴィナスの配下だ。彼の下で諜報や工作を担当している。ヒルマン殺害は、レヴィナスの指示なのだろうか?
さらに、ヒルマンは鬼面猿猴にまで狙われていた。
スピカは首を傾げた。
「ひいいいいぃ……」
ヒルマンは、カタカタと震えながらスピカの腕にしがみついている。その様子を、シャノワがちょこんと座って見上げていた。彼の顔をじーっと見つめている。
とうとう標的を見失ってしまったアリシアは、スピカたちを探して暗い小路の向こうへ消えて行った。
その姿を確認したスピカは、ひとつため息をつくと隣で震えるヒルマンにツッコんだ。
「そして、なんで、あんたは方々から命を狙われてんのよっ!?」
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