とーちゃん 愛してる

 3分の2ほどで記述が途絶えたアルチュンドリャの最後のノートには、デューンに特別な意味を与える化学反応式がいくつもみられた。字はもうグラグラに乱れているけれど、式の辻褄は合っている。

 麻薬作用を引き起こす毒性物質。全体像は解明されていないようだが、かなり核心に迫るところまで到達していた様子だ。

 六角環の構造をもつその物質は、グルが開発中の、とあるマシ―ンにおいて使用を模索中の物質に近い。



 そのノートの真ん中あたりに、デューンは〈文字〉を見つけた。行間に、乱れたネプチュン文字がひとかたまり走り書きされている。

 1冊目から全部読んできたけれど、〈言葉〉らしい記述はなかった。最初にノートを並べ替えたときには、そこまで精読しなかったから、気付かなかったようだ。

 青インクで書かれているし、他の記号の筆跡から考えても、アルチュンドリャの手による記述だろう。


 たった1語のそれは、直訳すると、

『償えるものなら』

 と・・・。


 重度のバラ中で、半分は現実から逃避していた心身であっても、重くしかかる罪の意識からは逃れられなかったのだろう。


 グリンは、デューンから示されたその1語に手をかざし、気配を探る。目を閉じ、同じページの1行目から順に、スキャンしていくように手のひらを滑らせ、ピタリと止めたところは、やはり、

『償えるものなら』

 の文字の上。

 祖父母もこの〈言葉〉を見つけていたのだろうか? 見つけていたとしたら、どんなにか悲しかったことだろう。


 誰かに傷つけられた痛みより、誰かを傷つけた痛みのほうが辛い。

 たくさんの人々を苦しめてしまったんだね。バラ中で人生を狂わせた人たちや、めちゃくちゃに壊れてしまった家庭。どうやったって元どおりには治らないよね。有罪判決を受けて服役したからといっても、それは法的なケジメというだけで、バラ中患者と家族の魂の傷が完治するわけじゃない。それを一番よくわかっていたのはアルチュンドリャとーちゃんだ。

 賢い人なら、自分一人のせいではないでしょ? って言い訳もできたかもしれないのに・・・そんなことが言える人じゃなかった、って、グリンにもわかるよ。


 そのころ、もしレイヤが傍にいたら、グリンが傍にいたら、一緒に罪を償うことはできなくても、慰めることくらいならできたかもしれない。少なくない仲間たちがずっと傍にいたはずなのに、アルチュンドリャの魂はきっとすごく孤独だったのだ。


 グリンたちは生まれたときから、周りの人々からいっぱい愛情を注がれて幸せに暮らしてきた。ちょっとした反抗期みたいな時期はあったけれど、レイヤもグルも、戸惑いながらも子どもたちを見守り、存在そのものをごっそり引き受けるように愛してくれた。

 レイヤたちはグリンに、アルチュンドリャのこともたまに話してくれていた。レイヤの表情にふっと翳りが差したりしていたのは、救うことのできなかったアルチュンドリャの魂の闇を思ったからかもしれない。



 グル・ワヒラサを、父として、何の違和感も不満も気兼ねもグリンは感じていない。母に対してと同じように感謝しているし、愛している。


 グリンが誕生した日。レイヤが産休に入っていたその日、ヒマだったからか、何か用事でもあったのか、ぶらりと訪れた学生時代のバイト先、グルのラボで、レイヤとグルと助手の寅午トラウマさんは、短い期間だったけどここで共に研究していたネプチュン鳥島人の若者たちのことを語り合っていた。

 ビイル薔薇精油から香り成分と毒素を分離することはできそうになかったな、彼らはいまどうしているだろうな・・等々。

 レイヤは、アルチュンドリャを思い出し、胸がキュンとなったはずみで子宮もキュンとなり、そのままぎゅうっと強い収縮がきて、あれよあれよという間に短い間隔で激しい陣痛の波が押し寄せてきた。


 寅午トラウマさんがあわてて、隣接する第五大附属病院の産科研究室に電話をかけ、手が空いてたインターン助産師に急きょ駆けつけてもらった。

 人使いの荒い助産師から、タオルをありったけ用意しろだの湯を沸かせだのこき使われ、挙句のはて、グルがへその緒カットと、新生児の沐浴までさせられるハメに。無秩序なお産だった。


 子ザルのような新生児をおっかなびっくり湯につけて洗い、引き揚げて湯切りしようとしたら、

『振っちゃだめ! キャベツじゃないんだから』

 と怒られた。

 そんなこんなで、産着にくるまれ、気持ちよさそうにすやすやと眠るほやほやの赤ちゃんに、グルはすっかりメロメロになってしまう。

 その日から、グルはグリンのとーちゃんだ。

 グリンはグルを『とーちゃん』と呼んだり、レイヤが呼ぶように『グル』とか『師匠』とか呼んだりするが、それはデューンも同じだ。


 これまで、学校の入学式にも卒業式にもすべて、グルはレイヤとふたりで正装して参列してくれたし、グルが撮ってアルバムに収録してあるグリンの写真の数は、第2子であるデューンの写真より多いくらいだ。


 生まれた瞬間から、グルとは本物の親子だ。だからこそ、そんな親子のドタバタや、ささやかだけど幸せな日常を、この世で一度も我が子と過ごせなかったアルチュンドリャを可哀想に思う。



 自分に子どもがいることすら知らずに死んだアルチュンドリャだけど、正確には、幸か不幸か、死ぬ間際になって、レイヤの夢枕に立ってしまい(半分以上死んでないと立てぬのです)、グリンの存在を聞かされた。

 いまさらそんなこと言われても、すでにステュクス三途の川を渡りかけている身の上で、

『それならせめてその子にお年玉でもあげましょう。ちょっと待ってね、ポチ袋用意するから』

 とか、

『学資保険を掛けて積み立てしておきましょうか』

 とか、親らしいことのひとつもしてやれないじゃないか。

 いっそ何も知らないまま死んでいったほうが、よけいな煩悩を抱えずに死ねるからまだマシだ。レイヤもいらんこと言うてしもた。


 ううん。そうじゃない。アルチュンドリャとーちゃんにグリンのこと、ぎりぎりセーフで教えてくれてありがとう、かーちゃん。

 会ったこともないとーちゃんだけど、愛してる。辛かったんだね、とーちゃん。ちょっとだけでもグリンが慰めてあげられたらよかったのにね。


 グリンの胸に、アルチュンドリャの悲しみやら無念さやらがいっぱい迫ってきて、デューンにすがりつき、声を上げて泣いてしまう。



 グリンの感情がたかぶっているから、デューンは余計な口出しをせず、いや、もともと無口なだけなんだけど、黙って胸を貸してやる。グリンの髪を撫で、いい子いい子してあげる。

 ひとしきり大泣きして、グリンの呼吸が少しだけ落ち着いてきたところで、慰めるように、デューンはグリンに口づける。


 まだ泣き止んでない口を塞がれたグリンは鼻水とよだれをぶはぁっと吹き出し、顔じゅうぐしょぐしょだ。デューンから手渡されたティッシュペーパーでブーンと鼻をかみ、涙を拭き、ひっくひっくしながら顔を上げる。あら、デューンってこんなに男らしかったっけ?


 小さい子をあやすような包容力の垣間見える眼差しをグリンに向けている。余裕の微笑みすらたたえている。・・・グリンのぐじゃぐじゃな顔が面白くて薄く笑ってるだけなんだけど・・・感情を正しく顔に表わせないのは父親ゆずりか?

 言葉をかける代わりに、グリンの肩を抱きしめてあげるデューン。


 あたりまえなんだけど、時間が経過して星が動き、たくさんの人生があちらこちらへ動いて、良きにつけ悪しきにつけ世の中が変化する。そのひとつひとつの意味は様々で、バラバラだったり繋がっていたり・・・。

 込み入った配線のような人間模様3Dフローチャートをデューンは思い描く。



 いや、そのページのポイントはそこじゃなくて・・・。


 毒素の構造式・・・グルのラボが探し求めている物質のひとつだ・・・・

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