ビイル薔薇
アルチュンドリャのノートに残る試行錯誤の記録・・・。
彼らがいつからいつまでこの研究を行なっていたのかわからないが、おそらく、かねがねレイヤから聞いていたとおりなのだろう。
アルチュンドリャの死をきっかけに人々が飲バラを止めるようになり、ネプチュン鳥島民社会が徐々に平和を取り戻し、ビイル薔薇精油の無毒化への道筋だけが絶対不可欠、というわけではなくなった。ってな経緯をグリンたちは推測する。
やはりこの世の方法論は通用しなかった。だとすれば、アナザフェイトn番ちゃんから託された種を蒔くべきなのか、本当に使ってよいものか・・・
村議会ででも決めてもらおうか? でも、島民でないグリンたちには議案を提起する権利もないし・・・。
ビイル薔薇プラント。民営化以前から整備されていたものを、かつてアルチュンドリャたち若き経営者らが発展させた。ネプチュン鳥島が世界に誇る最高級アロマオイル(ただし、原産国名と原材料名は極秘)を生産する最高級品質のビイル薔薇が、そこで管理されている。
最高級品質を維持してきたということは、香り成分の純度が最大限まで高められているゆえ、毒素のほうもマックスということだ。
農地から作物の種が飛んでいっても、ビイル薔薇畑には影響を与えない。果樹園にも野菜畑にも、防鳥ネットは設置されていないのに、ネプチュン鳥はビイル薔薇の花粉と葉っぱしか食べない。
海の神様がうっかり大繁殖させてしまったビイル薔薇を処理するために創造されたネプチュン鳥。最初からプログラミングがザツだったようだ。
n番ちゃんの言ったとおり、余白のない閉鎖性だ。
ナオスガヤさんが出勤前にグリンたちのいる宿へ立ち寄ってくれた。
アルチュンドリャのノートを前にして、夜通し根詰めて考え、疲れ果てた様子の姉弟は、ただならぬ気配・・・。
簡単に事情を聞き、午後にまた迎えに来るから少し寝ておきなさい、と言いおいて、ナオスガヤさんは仕事へ向かった。
午後、ナオスガヤさんと会社の研究所スタッフらが時間を作り、姉弟と一緒に会議室の机を囲んだ。
アルチュンドリャのノートに、原子の結合を解こうとしていた形跡がみられ、なにか意味のある体系へ向かっていたのではないか、と推測されることを、デューンが説明する。ナオスガヤさんたちが、何らかの結果を導き出したのか、ビイル薔薇産業への功罪に繋がっているのか、自分たちも知りたい、ということも。
普段はあまりしゃべらないデューンだが、専門分野に関するこのようなプレゼンは、ゼミの感覚だからか、意外にも流暢だ。
ビイル薔薇精油関連の情報が国家機密であることから、実験データそのものは開示できないのだが、ナオスガヤさんと研究スタッフの皆さんは、歴史的経緯の概要を教えてくださった。
デューンが解いていたとおり、国外では発表されていない元素記号を含む組成式は、やはりビイル薔薇精油だ。きわめて安定した物質であることを構造式が示す。反応難度を表わす活性化エネルギーの数値は、いかなる実験によっても算出不可能。
「きみたちのおじいちゃん、おばあちゃんにお渡ししたノートは、たしかに、手控え用のメモだ。アルチュンの直筆だから、形見にでもなるかもしれないと思ったし、書いてある内容は専門職でない限り解読できないだろうから、秘密の漏洩といった心配もなかったんだよ。まさか、20年も経ってから、きみたちがそこまで正確に読んでしまうなんて、驚いたというより、なんだか感慨深いよ。
結果は、歴史が示すとおりだ。きみたちの読みは正しいよ。ビイル薔薇精油は、原子の結合を分離させることも、別の原子を付加することもできなかった。
いっぽうで、バラ中の病理研究は飛躍的に進歩したんだ。アルチュンが献体したから・・」
ナオスガヤさんの胸に、不意にこみ上げてくるものがあった。
〈献体〉なんて、さらっと言ってしまったけれど、そこへ至るアルチュンの人生の重みを、あらためて噛みしめ、涙が溢れそうになる。
「村立病院のバラ中研究チームは、アルチュンが起訴されてから判決まで、毎週血液を採取し、全身状態も精査して、たくさんのデータを集めた。隣島の刑務所から帰ってきた遺体も、解剖して調べた。それはアルチュンの生前の意思でもあったし、ご両親からも承諾をいただけた」
アルチュンドリャが獄死した後、飲バラは急速に廃れていった。社会への見せしめ的効果のみならず、医学的にもバラ中治療法が確立していき、ほとんどのバラ中患者が概ね健康を取り戻すことができたという。
「アルチュンは役員報酬のほとんどを、青少年健全育成事業に寄付していた。自身は質素に暮らしていたよ。遺された私財も、アルチュンの遺志で、会社の研究室へ還元された。
ビイル薔薇精油の性質がどのようなものであっても、もうこれ以上飲バラをしないよう、人々の意識を変えていくしかない。拘置所でアルチュンと面会したとき、私たちはその方向性を決めたんだ。
飲バラはなにもアルチュン一人が始めたことではないけれど、その責任を、法的には、アルチュンが一人で引き受けた。多くのバラ中患者は、たしかに、断バラして社会復帰するまでにずいぶん苦しい経過を
人類がこの島で暮らし始める前から、ビイル薔薇は繁茂していた。楽園の香りでこの島をぴったりと包んでいる。人間はその香りの恩恵を受けて産業を興し、生きていくことが許された。精油を飲むことだけは許されなかった。そういうことだ。人間と自然との間にはっきりと引かれた境界線を、みんなが受け入れたんだ」
望んだとおりの方法ではないにせよ、ともかく社会は平和を取り戻した。アルチュンドリャたちが思い描いた当初の方法は挫折した・・・わけではない。その方法が不可能であることがわかったのだ。いや、不可能であることの証明はなされていない。だから、封印された、というべきか。
「お話を聞かせていただき、ありがとうございました。皆さんのお仕事を中断させてしまって申し訳ありません」
恐縮するグリンたちだが、ナオスガヤさんも研究所スタッフも、懐かしいアルチュンドリャと触れ合えたような、心地良いひとときだったよ、と言ってくださった。
研究室長のケミフォミュラ女史が尋ねる。
「デューンくんは、学部卒業後の進路は決めてるの?」
「はい。研究科へ進むつもりです。学位を取得したら、父のラボラトリーの研究プロジェクトに加わりたいと思っています」
「そう。もしビイル薔薇精油が必要な局面があれば、いつでも連絡してね。原価でお譲りできるからね」
「ありがとうございます」
〈優秀な研究員になれそうな子だけど、ジュピタンではっきりした目標を持ってるなら、スカウトできそうにないわね〉
ちょっぴり残念がるケミフォミュラさん。錬金術師を雇ってどうするよ?
グリンは、アナザフェイトn番ちゃんから託された種のことは、この場ではまだ言えそうにないなと思う。その代わりに、帰りがけ、ナオスガヤさんにお願いした。
「ロージーさんともお会いして、訊いてみたいことがあるんです。ご住所は知ってるんですけど、この島の地理がわからないので、教えてくださいますか?」
そう、ネプチュン鳥島は、世界地図には島の場所が示されているだけで、島内の地理は地元の人にしかわからないのだ。
「週末にでも会えるよう、連絡を取っておくよ。一緒に行こうね」
グリンのサファイアブルーの瞳に、ナオスガヤさんも、ついアルチュンドリャの面影を探してしまう。そして、自分ちの子育てのあれやこれやを思い浮かべながら、アルチュンドリャが子どもの成長を見届けることなく(誕生すら知らずに)死んでいったことを悲しく思う。
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