二十六
「美紗子、おはよ」
学校の近くを歩いた美紗子の背に、聞き慣れた声が飛んできた。振り向いた瞳にコーヒーショップの紙コップを両手で抱えた小柄な友人の顔が映る。
「あ、千恵、おはよう」
「ねぇ、今日、やばい。寒い。眠い。ダメだ」
小走りで駆け寄り美紗子と肩を並べた彼女は、まるで連続攻撃のように三文字の言葉を続け様に繰り出してくる。彼女の短くてふわふわとした髪が勢いに合わせて揺れた。
「うん。たしかに寒いね。そして私も眠たいよ」
あまりの勢いに思わず笑みを溢しながらも、美紗子は繰り出された単語のいくつかを丁寧に拾い上げて同意の言葉を口にした。
「あ、美紗子のそのシャツかわいいじゃん。どこの?」
すると今度は文章で言葉が返ってくる。
「大したやつじゃないよ。古着屋で見つけたの。ただボタンと形は少しいじってみた」
美紗子はアウターの前を広げてシャツがよく見えるようにすると、太陽の光で貝殻のように輝くボタンを指さしながら答えた。それをじっくりと観察していた彼女はその重たい目線とは反対に、SNSをタップする指先ように軽やかな口調で「いいね」と答えてから、一つ欠伸を落とした。
「本当に眠そうだね。どうしたの?」
「昨日合コンでさ、ちょっと遅かったんだよね」
そう答えてから紙コップに口をつけた彼女はどこか面倒くさそうな様子で、あたりにほのかに香ったコーヒーの香ばしくて爽やかないい香りが、眠気覚ましのための激薬にのように美紗子の鼻先をくすぐった。
「どうだった?」
そんな彼女の様子に答えはほとんど予想しながらも、一応、形式的に、美紗子は聞いておく。
「特に何もなし。夏に美紗子が一緒に合コン行ってた子たちに誘われて行ったんだけどさ、そもそも人数あわせで行っただけだし、イケメンもいなかったし、興味なしだったね」
それだけ答えると眠たそうな表情でコーヒーをまた啜り始めた。そんな様子の彼女に美紗子はこれ以上の質問はしなかったし、彼女自身もこれ以上この話をすることはなかった。代わりに「そのボタンめっちゃいいんだけど、どこで買ったの?」とすぐに別の話題を持ち出した。丁寧に説明した美紗子に「今度行こうかな」と答える彼女の声は先ほどよりもいくらか目を覚ました様子だった。
「あ、そういえば聞いてよ」
そんな彼女の声のトーンが上がったのは、二人が学校にたどりついた頃だった。彼女の声は楽しい話があるんだ、というよりも、怒っているという音色に近い。
「あのアプリあるじゃん。美紗子が教えてくれた作品を売れるやつ。あれでこの間、最悪な客がいたんだけど」
話す彼女の表情は小さな口がツンと前に突き出していて、目からも耳からもその不満が伝わってきた。
「ピアスの注文が入ったから送ったんだけどね、送った二週間後くらいに『すこし奇抜で可愛いデザインに惹かれて購入しましたが、色がイメージよりも派手でした。若い子にはいいかもですが私には無理ですね。』ってレビューが届いたんだよ。私ちゃんと『お使いのデバイスによっては、色が多少異なって見える場合もあります』って注意書きもしてるのに」
「それは最低だね」
「でしょ。『品質が悪い』とかだったら私のせいかもだけど、『色のイメージが違う』っていうのはあんまり納得できないよ」
彼女の突き出た唇は、ぴこぴこと跳ねながら不満の色を滲ませた言葉を紡いでいく。
「すっごく古い携帯電話でも使ってたんじゃない?」
「知らないよ。でも着払い返品して赤字は出るし、私の作品の評価は落ちるし、気分も悪いしで、もう最悪」
「ほんとに嫌なお客さんだ」
彼女の作品は、確かによくよく見れば細部に雑な部分もあるが『ハンドメイド作品』として見れば上質なものだと思うし、独特なデザインが可愛らしい。そのおかげか、美紗子よりも後に始めたはずなのに売り上げは美紗子よりも多かった。そんな彼女に美紗子は少しの嫉妬心を抱きながらも、売れたら売れたで面倒も増えるんだな、とどこか他人事のように彼女の話を聞いていた。
「その人、ネットショップで買い物するの初めてだったんだよ、きっと」
「だとしても納得いかないね」
未だに口を尖らせている彼女は、勢いよくコーヒーを飲み干して近くのゴミ箱にコップを放った。
「世の中には、そんなのわざわざ言わなくていいじゃんってことをあえて口にしないと気が済まない人もいるんだよ」
「それはそうだけどさ」
ブツブツと不満そうに漏らす彼女の尖った唇は、ヒヨコのようにも見えた。
「それにさ、みんながみんな好きな物つくるのって多分できないじゃん。多くの人が好きな物だって、きっと誰かは嫌いだと思うし。だから手に取ってくれる人が増えれば増えるほど、ああ、これは私には合わなかったなって思う人も増えるんだよ。千恵はその悪い評価の何倍もいい評価があるんだから、一つの悪い評価を気にする必要はないよ」
彼女は何か考えるそぶりを見せたが、口は開かなかった。代わりに尖っていた小さな口が少しだけ元に戻る。
「例えばさ、悪い評価が沢山だったら悪いのは作り手かもしれないけど、いい評価の中に少し悪い評価が混ざってたら、それだけたくさんの人の目についたってことだと思うよ」
「まあ、確かに、そういう考え方もできるね」
「でしょ。それにそう考えた方が幸せだ」
美紗子の言葉を少しだけ噛み締めるようにしていた彼女は、しばらくしてから納得したように頷ずいて、ようやく口角を上向きにした。
「うん。そうしよう、そう考えることにしよう」
「少しの悪い評価なら、スパイスってことにしておこう」
口にしながら美紗子は三井の顔を思い出す。美紗子が口にした言葉は、本当は三井が口にした言葉だ。Ricの動画に悪い評価が付いていることを知って、不満を口にした美紗子に言った言葉。
「嫌なこと言われないように周りに合わせて作ってたら、いつか自分が本当に作りたいものを作れなくなるからね」
美紗子はまた、三井の言葉を口にする。彼女は「そうだよね」と返した。
そういえば、キューブ型のあのバッグの売り上げは案外悪くなかったし、いくつかいい評価もついてたなと、納得した顔を見せる彼女の顔を眺めながら美紗子は考える。それから、彼はもう目を覚ましただろうか、あの曲にはどんな言葉が乗ったんだろうか、とまた別のことを考えてみた。
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