二十五

✳︎


 その日の夜、美紗子は身体にまとわりつくような寒さで目を覚ました。ぼんやりとした眠気が漂う重い瞼と鈍い思考でその原因を探せば、狭いシングルベッドの上で美沙子に寄り添う三井がやけに冷たいことに気がつく。


「ねえ、冷たいよ。どうしたの?」


美紗子がそう呟くと、小さな声で「ごめん」の三文字が返ってきた。


「何してたの?」

「寝てたら歌詞を思いついちゃったから書いてた」


それだけでこんなに冷えるものかと、眠たい思考の中でも疑問が湧いてきて質問を続ける。


「どこで?」

「外」


そう小さな声で答えた三井は、しばらくしてから起こしては悪いと思ったのだと申し訳なさそうに言葉を続けた。


「でも結局起きちゃったよ、私」

「うん、ごめん」


美紗子は寝返りを打つと、三井の方に体を向ける。カーテンの隙間から見えた外の世界は夜だというのにやけに明るくて、やっぱり東京の空じゃ時間は読めないなと美紗子はなんとなく思った。


「もう、寒かったでしょ?」

「うん」


美紗子は三井の冷えた手をそっと握る。


「風邪ひくよ」


呆れたように溢した言葉には心配の色も滲んでいた。


「いっぱい着てたから、大丈夫」


それからつま先を、三井の足に寄せる。


「でも冷たい」

「うん、ミサはあったかい」

「うん、私はあったかいよ」


美紗子は布団の中で温まっていた自身の熱が徐々に三井に移って、二人の体温が同じになっていくのを感じた。それから三井の匂いが肺いっぱいに入り込んでくるのを感じると、妙な心地よさと安心感が広がった。それらは美紗子の眠気に霞んだ思考をさらにぼかして、美紗子をまた深い眠りの中に落としていく。美紗子はまた、瞼を閉じた。


 ピピピッとなる規則正しく鳴る電子音に呼ばれて、美紗子の思考がもう一度動き出す頃には東京の空は自然の光に照らされていた。布団の中の冷たさは全て消え去り、湯船のようにポカポカとした温もりだけが詰まっている。鳴り続けるアラームを止める手だけが冷えた外気に包まれて、暖かな布団への名残惜しさをいっそう強くした。エアコンの電源を入れると、ピッと控えめな音がして室外機の周り出す音がする。乾いた風が頬を撫でた。


「おはよ」


隣で眠る三井に、美紗子は声をかける。が、起きる気配はない。エアコンから吹く風に黒い髪がフワフワと静かに揺れていた。美紗子はその黒い頭をくしゃりと撫でる。昨夜変な時間に起こしたことへの恨みを込めて、少しだけ乱暴に黒い髪に指を絡ませた。それでも三井は「ううっ」と唸っただけで切れ長のその目が開くことはなかった。


 もともと三井は朝が弱い。昼過ぎに起きて、夜まで働いて、それから練習に行くという夜型の生活が染み付いているせいもあるのだと思う。美紗子はひとしきり三井の頭を撫でると、よいしょと重い体を起こして冷たいフローリングに足を伸ばした。


「わっ、危ないなあ」


そのとき思わず独り言がこぼれる。ベッドのすぐ脇には三井のアウターやノート、イヤホンが丸まって転がっていた。丁寧に拾い上げて片付けながら、昨日あんなに見られるのを嫌がっていたノートを床に放って置くなん不用心だなあと心の中で笑う。それからもう一度、三井の頭をくしゃくしゃと撫でて「床に置かないでよ」と優しく呟くように、そっと声をかけた。だがやはり返事はなくて、代わりに規則正しい寝息だけが美紗子の鼓膜を揺らす。


 それから電気ポットから沸騰する音が聞こえても、美紗子が誤って落としたハンガーが床を打っても、三井は眠ったままだった。トースターがチンと乾いた音を立てた時だけはモゾモゾと動いて「おはよう」と掠れた声を上げたが、またすぐに眠りに落ちてしまう。かすかに上下する布団が、美紗子にはなんだか可愛らしいものに見えた。


「行ってくるね」


準備を終えたら一応声をかける。二、三秒の間だけ三井を見つめていたが、やはり反応はない。美紗子はそれを確認すると、テーブルの上に部屋の鍵をのせた。それはフェイクレザーのクマもついていない、美紗子がいつも引き出しにしまっている合鍵だ。先程拾い上げたノートとイヤホンもわかるように隣に並べながら、きっと昼前にはいつものようにこの鍵はポストの中にしまわれるんだろうと美紗子は思った。


「じゃあね」


返事が無いことなどわかっていながらもう一度声をかける。ぎいっと音を立てる扉をくぐってまだ暖かい部屋を後にすると、三井を閉じ込めるようにガチャンと鍵を掛けた。美紗子の手に握られた鍵にはフェイクレザーで作ったクマのマスコットと、三井の部屋の合鍵がぶら下がっている。歩きながら美紗子は考えていた。昨夜、三井はどこを歩いて、どこに行って、どんな歌詞を書いていたのか。なぜ美紗子に合鍵を渡したのか。どうして美紗子の部屋の合鍵は受け取ってくれないのか、を。


 ただ考えても、美紗子にはその答えを見つけることはできそうになかった。


 

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