二十三

 食事を終えても部屋の中に漂っている生姜焼きの匂いはなかなか消えなかった。その香りを吸い込みながら美紗子は作業台を広げて前に座る。キッチンから聞こえる三井が食器を洗う音に、また水を出しっぱなしで洗ってるな、とは思ったがあえて口にするようなことはしなかった。


 水音に耳を傾けながらも手を動かす。頭の中には今日の夕焼けが鮮明に、赤々と広がっていて美紗子に無限のイメージを湧かせる。しかしいざそれを形にしようとすると、それは徐々に掻き消えていくよな感覚がして美紗子は大きなため息を吐いた。


「俺もギター、弾いていい?」


片付けは終わってしまったのか、パタパタと湿った手を振りながら三井が尋ねる。美紗子は「うん」と短い返事だけを返して、互いは互いの時間に没頭する。「調子はどう?」とか「できた?」と特に干渉してこないことがありがたかった。


 ライブが近いらしい三井は、しばらく聴き慣れたフレーズを繰り返し練習していた。「座って弾いてる時はいいのに、立って弾くとうまくいかなくなる」と呟いていた曲で、美紗子が好きな曲の一つでもあった。なんでも簡単にできちゃったら面白くはないよね、と自らに言い聞かせながら美紗子はまた作業に集中する。




 一時間ほど経った頃だった、美紗子のスマートフォンが小さく震えた。なんだろうと手に取ると、登録しているハンドメイド作品を販売するアプリからのダイレクトメッセージで『今月の人気作品と作家さん紹介』という文字が画面に広がっていた。美紗子はすぐさま消去する。ついでに固まった体を捻って伸ばしてスマートフォンを放りだそうとする。その拍子に、机から転がったペンと物差しが転がった。カチャンカチャンと床を打つ音が響いた。


「あ、ごめん」


「うん」


音に釣られて、顔を上げた三井と視線がぶつかる。その瞬間、美紗子の集中がプツンと音を立てて途切れた気がした。


「コーヒーでも飲む?」


落下したものを拾い上げながら、美紗子は口にする。


「飲む」


そう答える三井のギターは、いつの間にか知らない曲に変わっていた。


「それ、なんて曲?」


電気ポットで湯を沸かしながら訊いてみた。


「なんとなく弾いてみてるだけ。曲というより、ただの音の羅列。音の塊」


「そっか」


電気ポットからシューという小さな音がのぼり始め、お湯が沸きそうな気配が漂う。


「それ、新曲になったりする?」


「どうだろ。まだよくわかんない」


シューという小さな音がゴボゴボという沸騰した音に変わった。間も無くカチンと乾いた音がして、お湯が完成したことをポットが知らせる。そのお湯をマグカップに注いでインスタントコーヒーを溶かせば、生姜焼きのかすかな香りはたどころに消えてしまった。


「私、その音好きだよ。素敵な感じがする」


コーヒーをテーブルに載せながら美紗子は口にした。三井は「ありがと」と応えたが、それが美紗子の感想に対する謝辞なのか、コーヒーに対する謝辞なのかはわからなかった。


 あたたかな湯気が揺れるマグカップを抱えて、美紗子はギターを弾く三井を見つめる。時折ノートにメモを取ったり、スマートフォンに音を残したりする様子を見ていると「曲にするかはわからない」と言いながらも、どこか曲にするつもりがあるんだろうなとぼんやり思った。


 できるだけ邪魔をしないようにと静かに座って未完成な音を聴く。はじめはバラバラだったパーツが組み合わさって、フレーズになって、曲という形になっていくその過程は、どこか服を作ることにも似ていて好きだった。


「勝手に見ないで」


音を聴きながらこっそりと三井のノートを覗き込む美紗子に気づいた三井が言った。それからそっとノートを隠す。


「いいじゃん」

「よくない」

「見たって何にもわかんないよ」

「そういう問題じゃないんだってば」

「いいじゃん。ケチだ、ケチ」

「ケチじゃない」


美紗子は少し、戯れてみた。


「ごめん、嘘」


でも、すぐにやめた。


「うん」

「邪魔してごめん」

「いいよ」


 三井は五線譜も、タブ譜も、ドラム譜も、楽譜と呼ばれるものは一切読めないらしい。だからもちろん書けるはずもない。ギターのコードも一通りは習ったらしいのだがあんまり憶えていないという。だから三井のノートは正直ただの暗号だった。暗号というよりも、子どもの落書き、と呼んだ方が近いかもしれない。心電図のように、ウネウネと曲がった一本の線が描かれている。三井いわく、横がテンポで縦が音階らしい。


「やっぱり、ミツイくんの楽譜って芸術的だよね。いつ見たってわからないよ」


「誰かに見せるものじゃないし、俺だけがわかればいいんだよ」


「まあ、それはそうかもね」


「だから見ないで」


それから、音楽は聴くものであって楽譜を見せるものじゃないからこれでいいのだと続けた。

 基礎をきちんと学んでもうまくできない自分と、基礎は何一つ身につけていないのにうまく形を創る三井を比べて、美紗子はなんとも言えない悔しさのような感情を覚えた。


「俺だって一応、楽譜の読み書きくらいできるようになろうとしたんだよ、ナオもせめてコードくらい憶えろってうるさかったし。でもさ、ちゃんと譜面にしたり、コードを考えてたりするとアイディアが消えてく気がするんだよね。なんて言ったらいいのかな、書いたり考えたりしてる間に忘れるような、書くことに集中すると音を出すことが疎かになるような、そんな感じ。だからやめた。アイディアのアウトプットは手っ取り早い方がいい」


書いている、考えている間にアイディアが消える、という感覚はなんとなく美紗子もわかる気がした。


「あ、そう言えばさ、ナオがミサに会ってみたいって言ってたよ」


ライブには何度か足を運んだことがあるが、メンバーと直接会ったことは確かに無かったなと思う。


「うん。私も会ってみたい」


「じゃあ、今度暇な時にでもご飯行こう」


それだけ言うと、三井はまたギターとノートに向き合い始めた。美紗子は「いいよ」と返事をしてからコーヒーを口に含む。ギターをひく三井を見つめながら、バッと、ザッと、素早く、感覚的に作業に没頭してみればいいのかな、と思案してみた。

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