二十二
「燃えてたたね、空」
「うん。綺麗だった」
公園のベンチから見上げていた太陽は赤々と燃えたあと、案外あっけなく二人の視界から消えてしまった。東の空はすでに藍や紺に染まり始めていて、その対角線上に残された西の空の端だけが未だ太陽の名残を見せるように濃い朱に染まっていた。
「日が沈んですぐの空がね、私は一番好きだよ」
そう言って美紗子はスマートフォンを取り出すと、西の空に向かってそのシャッターを切った。レンズを通してみた世界は、目で捉える世界よりも濃淡がはっきりしているようで建ち並ぶビル群が黒い影の塊になって見えた。
「ライブハウスのフロアから見るミツイくんたちって、こんな風に見えることもあるんだよ。知ってた?」
写したばかりの写真を指差して言う。
「へぇ。知らなかった。それってかっこいい?」
「うん。だいぶ、かっこいい」
三井は照れたように足元の落ち葉を靴の先で潰した。それはクシャリともカサリとも聞こえるような音をたてて砕けると、吹いた風に運ばれて四方に散ってしまった。
美紗子はなんとなく運ばれていく落ち葉を目で追ってみる。遊んでいた女の子たちの楽しそうな声や姿も、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。
「服、作れそう?」
「どうかな。でも、頑張るよ」
「そっか」
「そろそろ帰る?」
「うん」
ベンチから腰を上げる。帰り道は豆腐を切らしていたことを思い出して言った「豆腐だけ買って帰ってもいい?」という言葉と、白くて小さな犬とすれ違ったときに三井が言った「あ、かわいい」という言葉以外口にはしなかった。美紗子はデザインのことを考えていたし、三井もたぶん曲のことを考えていたのだと思う。
家に帰り着くと三井が「その服いつ返してくれるの?」と口を開いたが「次の春がきたら、かな」と美紗子は適当な返事を口にした。「それじゃ着れないよ」と三井は不服そうにしていたが、笑って誤魔化した。それから美紗子が味噌汁と生姜焼きを作り始めれば、三井は部屋の片隅でギターを弾き始めた。
「生姜焼きの美味しそうな匂いとミツイくんのギターの音、すごくよく合うね」
先に完成させた生姜焼きをテーブルに運びながら美紗子は口にする。一口のIHコンロでは、二品を同時には作ることができないから不便だ。
「それって褒め言葉?」
「うん。たぶん」
「よくわかんないけど、そっか」
「だってさ、ディナーショーとかあるじゃん。味覚と臭覚だけじゃなくて、五感の幾つかが同時に満たされるのっていいことなんだよ」
「そういうものなのかな?」
「そういうものなんだよ」
「ふうん。そっか」
今度は味噌汁を作り始める。美紗子はこういう意味のない会話も案内好きだった。
青色のタッパーの蓋を開けて味噌を掬う。美紗子の母が作った味噌は、いつだって懐かしい匂いがした。切ったネギを散らせば、東京の小さな部屋の中でも少しだけ実家の気配を感じる。
「ご飯できたよ」
「ありがとう」
「お米、たくさん食べる?」
「そこそこ、食べる」
「了解」
美紗子は自分なりの「そこそこ」の分量で茶碗に米をよそった。祖母に昔言われた「しゃもじ一回でよそうのは、仏様のご飯だけだよ」という言葉がなんとなく今でも頭の中から離れなくて、二回に分けて米を盛った。近所の百円ショップで買った色違いの茶碗から、ゆらゆらと白い湯気がのぼる。
「白いご飯の白い湯気がさ、俺の視覚と臭覚を刺激してきた。早く味覚も満たしたい気持ちになってる」
ギターを壁に立てかけた三井が、どこか楽しそうに先程の美紗子の言葉を真似た。
「うん。お米っていいよね、美味しいし」
そう言いながら米をよそった茶碗と箸を差し出すと、三井は「ありがとう」と口にしてから受け取って「いただきます」と丁寧に発音した。
「ミサの家の味噌、やっぱり美味しい。ミサのお母さんは天才かも」
「そうかな。天才かはわかんないけど、ミツイくんがそんなに言うならまた貰ってこなくちゃね」
部屋の中には、かちゃかちゃと食器に箸が触れる音が響く。テレビにあまり興味のない二人で囲む食卓は、咀嚼するたびに沈黙が大きくなった。それでもそこに、不快感は存在しない。
「ねぇ、また後でミシンしてもいい?」
「うん。じゃあ、片付けは俺がやる」
咀嚼の合間で声をかけると、彩りとして生姜焼きに添えていたレタスとミニトマトを飲み込んでから三井が答えた。三井が案外濃い味のものが好きで、好きなものより嫌いなものを先に食べるというのは、美紗子が三井と食事を重ねることで気づいたことだった。
「ミサ、明日は学校?」
「うん。ミツイくんは?」
「バイト。それから練習」
「そっか。じゃあ。今夜はおうちに帰る?」
「どうしようかな。ミサの家から行ってもいい?」
「うん。いいよ」
それだけ会話を済ませてまた食事に箸を伸ばす。心地いい静けさが包む部屋の中には、遠くでなっている救急車のサイレンも耳に届いた。共鳴するようにどこかで犬が鳴いているような気もした。あの小さな白い犬かな、とかぼんやりと考えてみる。口の中に広がっている生姜焼きの味は、悪くはないものだった。
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